二人の侠客
江南の朝霧は、すべてを白く塗り潰すかのように深く、湿っていた。
白雲山(はくうんさん)の麓に広がる竹林の境界で、沈青言(シン・セイゲン)は一本の古木の影に身を潜めていた。彼は懐から小さな銅鏡を取り出し、霧の微かな光を頼りに己の顔を映し出す。漆黒の鉄の半面はすでに衣服の奥深くへ隠され、そこにあるのは、どこにでもいる平凡で、少しばかり世塵に疲れた二十代半ばの浪人の顔だった。
薬翁(ヤクオウ)から授かった「千面草(せんめんそう)」の接着ゲルは、彼の本来の端正な素顔の上に、見事な「仮面」を張り付かせていた。指先で頬の端をそっと撫でる。本物の皮膚と変わらぬ弾力だが、激しい熱や過度の発汗があれば、この偽りの肌は一瞬にして溶け出す。それが「易容術(変装術)」の絶対の制約だった。
「……ふぅ」
喉の奥から漏れたのは、普段の冷酷な魔教主「冥夜(めいや)」の掠れた低音ではなく、沈青言本来の、少しばかり低くも澄んだ声だった。しかし、喋るたびに喉の「声帯調整用の骨針」が経穴を刺激し、じわりと鉄の味が口内に広がる。さらに、昨夜、夜梟宿(やきょうしゅく)で徐公公(じょこうこう)の「陰陽指(いんようし)」によって穿たれた胸の壇中穴(だんちゅうけつ)が、呼吸のたびに脈打つように痛んだ。
体内の「骨蝕丹(こつしょくたん)」の熱毒は、一ヶ月分の解毒剤によって辛うじて抑え込まれている。だが、無理に内力を全開にすれば、傷ついた経絡が破裂しかねない。今の彼が発揮できる武功は、本来の三割が限界だった。
「無実の者を守る……か」
沈青言はインナーローブの奥に手を伸ばし、義父・沈大捕頭(しんだいほとう)の形見である「錆びた鉄の十手」の冷たい感触を確かめた。朝廷の冷酷な猟犬として生きながらも、この錆びた鉄だけが、彼の失われかけた人間性を繋ぎ止める錨だった。腰には影衣衛の細剣を隠し持ち、表向きには旅の露店で買った安物の鉄剣を下げている。今の彼は、魔教の若き暴君でも朝廷の密偵でもない。ただの放浪の剣士――「無名(むめい)」であった。
沈青言は編み笠を深く被り、白雲山麓(はくうんさんろく)の門前町へと歩みを進めた。白雲剣派が支配するこの地は表向きは平和な繁栄を見せていたが、一歩路地裏へ入れば、権力と癒着した悪徳地方官の配下たちが、無辜の民から容赦なく搾取を繰り返す陰惨な現実が転がっていた。
市場の騒がしさを通り抜けた時、不意に鋭い罵声と、怯える民衆の悲鳴が耳に届いた。
「ひっ、ご容赦を! 今月の税はすでに納めました!」
「黙れ! 臨江の関所を通るなら、新たな通行税を払うのが掟だ。払えぬなら、その娘を代わりに連れて行く!」
ぎらぎらとした役人の制服を着た私兵たちが、初老の商人とその娘を取り囲み、強引に引きずり出そうとしていた。周囲の民衆は報復を恐れ、ただ目を背けて通り過ぎる。朝廷の法が腐敗し、武林の正義が面子ばかりを重んじるこの世界では、弱者の叫びなど霧の彼方に消え去る羽毛に等しかった。
沈青言が安物鉄剣の柄に手をかけようとした、その瞬間だった。
一陣の清烈な風が、深く立ち込める朝霧を切り裂いた。
「そこまでです。朝廷の威光を借りて、これ以上無辜の民を虐げることは、この白雲の剣が許しません」
凛とした、鈴を転がすような声が響き渡る。
霧の向こうから現れたのは、純白と青の爽やかな衣服をまとった一人の女侠だった。長い黒髪をシンプルな白い帯で結い上げ、背には白銀に輝く名剣「飛霜剣(ひそうけん)」を背負っている。彼女の瞳は夜空の星のように澄み渡り、凛とした美しさのなかに、一切の妥協を許さない強固な正義感が宿っていた。
白雲剣派の次期掌門候補――柳雪楓(リュウ・セツフウ)だった。
彼女の体からは、全身の十二経絡が開通した「通脈境(つうみゃくきょう)」の達人特有の、淀みのない気の循環が放たれていた。その瑞々しくも鋭い気配は、暗闇に生きてきた沈青言にとって、眩しすぎるほどの「光」そのものだった。
「ちっ、白雲剣派の小娘か! 地方官衙の公務を妨害する気か!」
私兵の隊長が怒鳴り散らし、十数人の部下に合図を送る。一斉に鋭い大刀が抜かれ、柳雪楓を取り囲んだ。多勢に無勢。だが、彼女の表情に微塵の恐れもなかった。背中から引き抜かれた飛霜剣が、キィンと高い金属音を立てて冷たい白い霧のような剣気を放ち始める。
「囲め! 容赦するな!」
私兵たちが一斉に襲いかかった。柳雪楓の体がしなやかに舞う。彼女が振るうのは、白雲剣派の至高の剣術「白雲飛仙剣(はくうんひせんけん)」だった。まるで空を飛ぶ仙人のように優雅で、無駄のない軌道が、襲いかかる大刀の刃を次々と受け流していく。しかし、私兵たちも実戦慣れした凶悪な男たちだった。彼らは泥臭い連携を使い、彼女の死角から同時に刃を突き出して、その優雅な型を崩そうと画策する。
(危ない――右の後方だ)
沈青言は「絶対の観察眼」を起動した。世界が引き伸ばされたように遅くなるなか、一人の私兵が柳雪楓の踏み込みの隙を狙い、背後から無音の突きを放とうとしているのが見えた。彼女の優雅な剣技は美しいが、実戦における「泥臭い悪意」に対する警戒が、わずかに甘かった。
沈青言は編み笠を傾け、地を蹴った。内力を三割に抑えた、粗削りな身法。だが、その一歩は極めて正確だった。
キィィン!
鋭い金属音が響き、柳雪楓の背後に迫っていた大刀が、横から割り込んだ安物の鉄剣によって激しく弾き飛ばされた。
「な、何奴だ!?」
私兵が驚愕の声を上げる。柳雪楓はハッとして振り返り、背後に立つ灰色の長衣を着た浪人の姿を目に留めた。
「通りすがりの、しがない浪人さ。美しい女侠が野良犬どもに囲まれているのを見て、ついな」
沈青言は「無名」の不器用な笑みを浮かべ、あえて剣を雑に構えてみせた。独学の放浪剣士を装うため、影衣衛の無駄のない迅速な身法を徹底的に隠し、重心を低くした泥臭い動きを演じる。
「感謝します、お仲間!」
柳雪楓の瞳に、短いながらも強い信頼の光が宿った。彼女は再び前を向き、飛霜剣を構える。二人の「共闘」が、その瞬間に成立した。
私兵たちが再び狂暴に襲いかかる。沈青言は柳雪楓の背中を守るように立ち、彼女の剣の隙を「絶対の観察眼」で完璧に補い続けた。彼女が前方の敵を華麗に薙ぎ払うたび、沈青言は彼女の死角から迫る刃を、泥臭いステップで回避しながら正確に弾き飛ばす。二人の気の流れが、まるで陰と陽のように自然に噛み合い、美しい旋律を奏でるかのような連携を生み出していた。
その時、私兵の隊長が卑劣な笑みを浮かべ、袖口から黒い筒を取り出した。不意打ちの暗器だ。標的は、完全に前方の敵に集中している柳雪楓の喉元だった。
(しまっ――)
沈青言の脳裏に、影衣衛として培われた本能が閃いた。瞬時に「飛魚穿心剣(ひぎょせんしんけん)」を放ち、隊長の心臓を一突きで貫いて息の根を止める――そんな冷酷な暗殺の軌道が、彼の右腕に走りかけた。剣先が、音もなく最短距離で隊長の喉へと突き出されようとする。
(いけない。彼女の目の前で、この剣を使えば正体が露見する!)
沈青言は強引に、自らの剣の軌道を空中でひねり曲げた。暗殺の刃を、無理やり白雲剣派の基礎を模倣した「白雲一線天(はくうんいっせんてん)」の型へと切り替える。
一線の白銀の光が走り、隊長の手首を鋭く叩いた。暗器の筒が、発射される前に地面へと転がり落ちる。
「ぐあぁっ!」
隊長が手首を押さえて悲鳴を上げる。だが、その代償は小さくなかった。強引な気の運行の切り替えにより、沈青言の右腕の経絡に、骨蝕丹の熱毒が激しくきしむような激痛が走った。丹田の内力が一時的に乱れ、喉の奥から熱い血がせり上がってくる。彼はそれを強引に飲み込み、鉄面の奥に隠された苦悶の表情を、編み笠の下に隠した。
「ひ、ひぃっ! 撤退だ! 撤退しろ!」
武器を失い、連携を完全に破壊された私兵たちは、命からがら霧の奥へと逃げ去っていった。市場に、静寂が戻る。避難していた商人親子が、二人に何度も頭を下げながら立ち去っていった。
柳雪楓は飛霜剣を優雅に鞘に収め、乱れた息を整えながら、沈青言へと歩み寄った。彼女の白い衣服は、朝霧の雫を浴びて微かに光り輝いている。その凛とした佇まいは、暗闇のなかで泥をすすりながら生きてきた沈青言にとって、あまりにも眩しく、そして胸を締め付けるものだった。
「素晴らしい剣技でした、無名殿」
柳雪楓は真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。その澄んだ瞳の奥には、純粋な感謝と、そして微かな「探り」の光が混ざり合っていた。
「ですが……最後の一撃。あなたの剣の中に、どこか不自然な、背筋が凍るような『冷徹な気配』を感じました。あれは、本当に独学の放浪剣士の剣なのでしょうか?」
彼女の言葉が、沈青言の傷ついた経絡を、冷たい刃のように貫いた。沈青言は、彼女を騙し続けているという鋭い罪悪感に苛まれながらも、無名の「不器用な笑み」を崩さずに、彼女の視線を受け止めた。
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