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首輪を握る者

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「本当に抜くのか。この金針を抜けば、お前の経絡を一時的に縛っていた檻は消え去る。骨蝕丹(こつしょくたん)の熱毒が、再びお前の五臓六腑を焼き始めるぞ」


 百草廬(ひゃくそうろ)の薄暗い灯火の下で、盲目の医者・薬翁(ヤクオウ)が、細く鋭い「薬翁の特製銀針」を指先で弄びながら静かに問いかけた。その背後では、孫娘の薬霊(ヤクレイ)が、薬草の香りが立ち込める紫檀の香箱を抱え、心配そうに沈青言(シン・セイゲン)を見つめている。


「抜いてくれ」


 沈青言は掠れた声で、短く答えた。喉の奥に刺さった「声帯調整用の骨針」が喋るたびに肉を抉り、じわりと熱い血が口内に広がる。だが、今の彼に迷う猶予はなかった。


「朝廷の使者が夜梟宿(やきょうしゅく)に到着した。私が出頭せねば、奴らは魔教の総壇に疑念の目を向ける。そうなれば、私だけでなく、お前たちや教団の無実の信徒たちも、影衣衛(えいえい)の牙にかかって皆殺しにされるだろう」


 薬翁は深くため息をつき、白い布で覆われた両目を微かに伏せた。その細い指先が、沈青言の額、胸、そして両腕の経穴に深く刺さっていた純銀の針を、一本ずつ、淀みない動作で引き抜いていく。


「ぐっ……!」


 最後の一本が抜かれた瞬間、沈青言の全身が激しくのけぞった。堰を切ったように、骨蝕丹の熱毒が経絡の奥底から噴出する。全身の骨が内側から泥のように溶けていくような、みしみしという不気味なきしみが耳の奥で響き渡る。感覚を失いかけていた右腕に、燃え盛る溶岩を流し込まれたかのような激痛が戻ってきた。沈青言は唇を噛み切り、溢れ出そうになる悲鳴を強引に飲み込んだ。


「易容(変装)の仮面は整えた。千面草(せんめんそう)の薬膏で肌の接着は補強してあるが、戦闘中の熱気や過度の発汗は禁物だ。接着が溶ければ、お前の素顔が露見する」


 薬翁の警告を背に受けながら、沈青言は「冥夜(めいや)」の冷酷な鉄の半面を顔に装着した。彼は「冥道(めいどう)」の暗黒の隠し通路を通り、無極殿(むきょくでん)の教主寝室へと引き返した。


 寝室の床板を音もなく滑らせて這い上がった瞬間、沈青言は「絶対の観察眼」を起動し、周囲の気配を察知した。深夜の静寂のなか、寝室の扉の外から、微かな衣擦れの音が聞こえる。


(小梅(シャオメイ)……!)


 扉の隙間から、筆頭侍女である小梅の影が、床に伸びる月光を遮っているのが見えた。彼女は鼻を微かにひくつかせ、教主の部屋から漂う不自然な薬草の香りに不審を抱いている。本物の冥夜は温かい茶や薬草を嫌う。沈青言が百草廬から持ち帰った微かな匂いが、彼女の日常的な監視の目を刺激したのだ。一歩でも踏み外せば、彼女の疑念は確信に変わる。


 沈青言は息を止め、体内の「無影功(むえいこう)」の陽気を極限まで抑え込んだ。金針を抜いたばかりの肉体は重く、激痛が走るが、彼は「影歩法(えいほほう)」の最低限の気を用いて、音もなく窓から闇へと身を躍らせた。小梅が不審に思って扉を開けたときには、寝室の玉座にはただ冷たい夜風が吹き抜けているだけだった。


 黒月峰の毒霧を潜り抜け、険しい山道を滑るように駆け下りる。五十里離れた荒涼とした荒野。年中、乾いた砂風が吹き荒れるその場所に、一軒の寂れた古い旅籠が佇んでいた。表向きは旅人のための宿だが、その実態は朝廷の密偵機関「影衣衛」の秘密中継基地――「夜梟宿」である。


 沈青言は灰色の外套を深く被り、宿の古びた木の扉を押し開けた。店内に灯る鈍い油灯の光のなか、酒を飲むふりをした数人の男たちが、一斉に沈青言に鋭い視線を向けた。男たちの衣服の奥から、影衣衛の標準装備である「飛魚刀」の冷たい鉄の気配が漂ってくる。


 沈青言は無言で、懐から「影衣衛百戸の腰牌」を取り出し、手のひらの上で微かに見せた。真鍮製の重厚な令牌が、鈍い光を放つ。それを見た男たちは、黙って視線を逸らし、奥の尋問室へと続く扉を顎で示した。


 尋問室の重い鉄の扉を開けると、そこは音の遮断された陰惨な空間だった。壁一面には、血の錆びついた拷問器具が不気味に掛けられている。部屋の中央に置かれた木椅子の背後に、豪華な宮廷の宦官服をまとった老人が、静かに佇んでいた。


 顔に白い粉を塗り、不気味な笑みを浮かべた男――趙無極(ちょうむきょく)直属の密使、徐公公(じょこうこう)である。その細い指先は、常に顎の薄い髭を弄んでおり、一流境界(葵花気功)の達人特有の、針のように鋭い内圧を周囲に放っていた。


「ほう、ようやく来たか、沈百戸(しんひゃっこ)」


 徐公公の甲高い声が、防音の施された石壁に跳ね返った。その目は、獲物を値踏みする蛇のように冷酷だった。


「魔教の若き教主『冥夜』としての暮らしは、さぞ居心地が良いのだろうな? 都指揮使・高景徳(こうけいとく)様がお前の進捗を疑っておられる。報告書を差し出せ」


 沈青言は喉の骨針の激痛をこらえ、掠れた低い声で応じた。


「すべては朝廷のため。魔教の内部抗争は、私の支配下にあります」


 沈青言は懐から、極秘裏に作成した密告書を差し出した。そこには、左長老・鉄鬼(てっき)が「鉄血谷」の私鉄鉱山から金塊を盗み出し、独自の軍備を増強しようとしている計画が記されている。だが、その情報の隙間には、朝廷の軍事介入を遅らせるための巧妙な偽情報が混ぜ合わされていた。


 徐公公は細い指で密告書を受け取り、灯火にかざして一通り目を通した。その唇の端が、不気味に吊り上がる。


「鉄鬼の武装計画か……。悪くない情報だ。だが、沈青言」


 徐公公は、手元に置かれた小さな硝子瓶を弄んだ。その中には、沈青言の命を繋ぐ「骨蝕丹の解毒剤(一ヶ月分)」が、青い丸薬として収められている。沈青言の視線が、無意識のうちにその瓶へと引き寄せられた。


「報告が遅い」


 徐公公の細い目が突如として細まり、その指先が残像を残して沈青言の胸元へと突き出された。宮廷秘伝の「陰陽指(いんようし)」だ。内力が完全に封印から解放されたばかりの沈青言の肉体では、その迅速な突きを完全に回避することは不可能だった。強烈な衝撃が、彼の胸元(壇中穴)を貫く。


「がはっ……!」


 沈青言は激しく吐血し、冷たい石床の上に両膝を突き、激しく咳き込んだ。徐公公が指先から注入した鋭い内功が、体内で眠りかけていた骨蝕丹の熱毒を微かに、しかし確実に刺激したのだ。全身の骨が内側から燃え上がり、経絡が引き裂かれるような激痛が彼を襲う。喉の骨針から溢れた血が、鉄の半面の隙間から床へと滴り落ちた。


(ここで……この老宦官を殺して、解毒剤を奪い取るか!?)


 沈青言の左手が、腰帯の内側に隠された「影の細剣」の柄へと伸びかける。彼の瞳の奥に、獣のような冷酷な殺意が宿った。


 しかし、その瞬間、彼の「絶対の観察眼」が、宿の天井裏や壁の隙間に潜む、気配を完全に消した複数の影を捉えた。光を反射しない漆黒の装束を纏った暗殺部隊――高景徳直属の「十二黒羽(じゅうにこくう)」の気配だ。もしここで徐公公に刃を向ければ、解毒剤を手にする前に、自分はこの夜梟宿ごと塵にされる。その冷酷な現実が、彼の殺意を強引に引き留めた。


 沈青言は剣から手を放し、床に滴る血を袖で拭いながら、自らの真鍮の腰牌を徐公公の前に差し出した。徹底的な、猟犬としての平伏だった。


「……報告の遅れは、私の不徳の致すところ。すべては朝廷の『任務至上』の鉄律に従うため。どうか、ご容赦を」


 徐公公は、床に跪く沈青言を、卑しい野良犬を見下すような目で見つめ、冷笑を漏らした。


「ふん、自らの立場を弁えているようで何よりだ。お前はただの『使い捨ての道具』に過ぎんということを、忘れるなよ」


 徐公公は、弄んでいた解毒剤の瓶を、沈青言の目の前の床へと放り投げた。硝子瓶が冷たい石床の上を転がり、沈青言の膝元で止まる。沈青言は屈辱に震える手でそれを拾い上げ、一ヶ月分の丸薬を即座に口に含んだ。熱毒が、一時的に冷たい檻の奥へと引き込んでいくのが分かったが、それは同時に、彼の肉体にさらなる毒素が蓄積されることを意味していた。


 徐公公は不敵な笑みを浮かべ、さらに身を乗り出して囁いた。


「そう言えば、帝都の貧民街で暮らす、お前の同期・陸風(リクフウ)の盲目の老母――陸(リク)氏の様子を、影衣衛が温かく見守っておるぞ。陸風も任務に励んでいるが、お前が少しでも不穏な動きを見せれば、あの老い先短い老婆の命がどうなるか……、分かっているな?」


 沈青言の全身の血が、一瞬にして凍りついた。朝廷は、彼の唯一の親友である陸風の家族さえも、自分を縛るための「人質」として利用しているのだ。逃れられない首輪の重さが、彼の魂を奈落の底へと引きずり落とす。


「……肝に銘じておきます」


 沈青言は、怒りと絶望を鉄面の奥に完全に押し殺し、掠れた低い声で従属を誓った。その瞳の奥で、朝廷の支配者たちに対する、黒く燃え盛る反逆の炎が静かに着火した。


「よろしい。では、次の命令だ」


 徐公公は冷酷な笑みを浮かべ、趙無極の署名が入った密令書を沈青言の前に突きつけた。


「白雲山麓(はくうんさんろく)へ向かえ。正道連合の次期掌門候補である柳雪楓(リュウ・セツフウ)の動きを監視し、その首を刈る隙を狙うのだ」

HẾT CHƯƠNG

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