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闇医者の真意

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黒月峰を包む夜霧は、湿った毒気を含んで無極殿の瓦を濡らしていた。玉座の間を満たす静寂のなか、沈青言(シン・セイゲン)は膝を突き、激しく黒い血を床に吐き出した。喉の奥に仕込まれた「声帯調整用の骨針」が肉を抉り、喋るたびに血の味が口内に広がるが、今の彼にはその激痛さえ些細なものに思えた。


「がはっ……、くっ……!」


体内で暴れ狂うのは、朝廷の冷酷な呪縛――「骨蝕丹(こつしょくたん)」の熱毒だ。全身の経絡が燃え盛る溶岩を流し込まれたかのように熱く、骨がきしむ音が耳の奥でみしみしと不気味に響く。右腕はすでに感覚を失いかけ、だらりと垂れ下がっていた。全力で内力を運行すれば経絡が破裂して即死する。その絶対的な物理的制限が、彼の喉元に死の刃を突きつけていた。


(まだ……ここで倒れるわけにはいかない。小雨(シャオウー)との約束を果たすまでは……)


沈青言は震える左手でインナーローブの胸元を探り、血に汚れた小さな木彫りの兎――妹の唯一の形見を強く握りしめた。荒い呼吸を整え、彼は這うようにして教主の寝室へと向かった。無極殿の正門の外には、怪力の門番である巨岩(キョガン)が立っており、陰からは筆頭侍女の小梅(シャオメイ)が虎視眈々と主の綻びを監視している。彼らにこの無様な姿を一瞬でも見せるわけにはいかなかった。


寝室の床に敷かれた厚い絨毯を剥ぎ取り、沈青言は特定の龍の彫刻の目を同時に押し込んだ。カチリと重い音が響き、ベッドの床板が音もなくスライドして、漆黒の闇が口を開く。先代教主のみが知る極秘の隠し通路「冥道(めいどう)」だ。彼はその中に身を滑り込ませ、床板を閉ざした。


冥道の中は、湿った土と古い石材の匂いが立ち込めていた。沈青言は右腕を引きずりながら、暗黒の通路を手探りで進んだ。一歩歩くたびに、喉の骨針が天突穴を刺激し、新鮮な血が溢れて喉を伝う。だが、この通路の存在こそが、彼の「教主・冥夜」としての冷酷な仮面と、「放浪の剣士・無名(ウーミン)」としての二重生活を物理的に可能にする命綱だった。苦痛に耐え、彼は黒月峰の北谷へと続く闇を這い進んだ。


どれほどの時間が流れただろうか。冥道の出口である崖の裂け目を抜けると、冷たい夜風が沈青言の濡れた顔を打った。目の前には、霧のなかにひっそりと佇む粗末な庵――「百草廬(ひゃくそうろ)」の微かな灯火が見えた。周囲には部外者を眠らせる「眠り草」の生け垣が植えられており、独特の甘い香りが漂っている。


沈青言は庵の戸に手をかけ、倒れ込むようにして中へと入った。室内は、沸き立つ薬草の苦く重い匂いで満ちていた。


「おじい様、誰かが来ました。でも……足音が軽すぎます。いや、右足の踏み込みが不自然に重い」


暗闇から響いたのは、十四歳の少女、薬霊(ヤクレイ)の鋭い声だった。彼女の瞳は濁り、視力を失っているが、その耳は常人の数十倍も鋭い。彼女は沈青言の不自然な足音を瞬時に捉え、小さな眉をひそめた。


「体重もおかしいわ。本物の教主様より、少なくとも三斤(約一点八キロ)は軽いわ。おじい様、これは――」


「騒ぐな、薬霊。客人を中へ」


奥の帳帳から現れたのは、白い布で両目を覆い、枯れ枝のように痩せた老人――盲目の医者、薬翁(ヤクオウ)だった。彼は長い白髭を蓄え、不気味な気品を漂わせながら、沈青言の前に静かに立った。


沈青言は木床の上に崩れ落ち、荒い息を吐きながらも、本能的に自らの脈を偽装しようとした。彼は指先を胸元の主要な経穴に突き刺し、一時的に気の流れを逆転させる「逆脈封穴(ぎゃくみゃくほうけつ)」を試みた。脈象を本物の冥夜のような冷酷な陰の脈に変え、目の前の達人たちを欺くための最後の足掻きだった。


しかし、薬翁は冷笑を漏らし、沈青言が抵抗する前にその右首筋の経穴を細い指先で鋭く突いた。


「無駄な真似はよせ、愚か者」


一瞬にして気の逆流が遮断され、沈青言は激しく咳き込んで床に伏した。薬翁の指は容赦なく沈青言の右首筋から右手首へと滑り、その細い手首を万力のように締め付けた。


「経絡を痛めるだけの稚拙な『逆脈封穴』など、この私の前では赤子の戯れ言に等しい。……ほう、やはりな」


薬翁の濁った盲目の目が、沈青言の顔(鉄の半面の奥)に向けられた。老医師の指先が、沈青言の脈動から伝わる真実を冷酷に読み解いていく。


「お前の脈には、冥月教主の秘伝であるはずの『冥月玄功(めいげつげんこう)』の陰気が一片たりとも存在せぬ。流れているのは、極限まで気配を消すことに特化した、朝廷の暗殺気功――『無影功(むえいこう)』の陽気。そして……経絡を内側から焼き尽くそうとしているこの凄まじい熱毒は、朝廷が猟犬を縛るための『骨蝕丹』だな」


沈青言の心臓が、凍りついた。完璧に変装していたはずの正体が、この老医師の前に完全に暴かれたのだ。


薬霊がハッとして「紫檀の香箱」を握りしめ、警戒の姿勢をとった。沈青言の左手は、無意識のうちに腰帯の内側に巻き付けられた「影の細剣」の柄へと伸びていた。彼の脳内で、冷酷な計算が火花を散らす。


(正体が露見した。口封じのために二人をここで斬るべきか? いや、私の右腕は麻痺しかけている。周天境の達人である薬翁をこの状態で仕留められるか? 仮に殺せたとしても、骨蝕丹の毒を誰が抑える? 彼らを失えば、私は七日以内に確実に死ぬ……!)


沈青言の体から立ち上る濃厚な殺気を察知しながらも、薬翁は避ける動作すら見せなかった。彼はただ静かに手を放し、深くため息をついた。


「私を殺したいなら、いつでも剣を抜くが良い。だが、私が死ねば、お前の骨は七日以内に泥のように溶けて消える。そしてお前が死ねば、朝廷は新たな傀儡を送り込むか、あるいはこの『骨蝕丹』の毒を以て、冥月教の信徒全員を奴隷にするだろう。それがお前の望みか、朝廷の猟犬よ」


沈青言の指先が、細剣の柄の上で硬直した。老医師の言葉は、冷徹な真実を突いていた。沈青言はゆっくりと手を下ろし、喉の骨針による激痛に耐えながら、掠れた低い声で言った。


「……私は、教団を朝廷の玩具にするつもりはない。無実の信徒を、無駄に死なせるつもりも……ない」


その言葉を聞いた瞬間、薬翁の張り詰めた肩の力が微かに抜けた。彼は両目を覆う白い布の奥から、沈青言の「仮面」を見つめるように顔を傾けた。


「本物の冥夜は、己の欲望のために信徒を虫ケラのように殺す怪物だった。先代が急逝した時、この教団は滅びる運命にあると私は確信していた。だが……お前は違った。お前はその冷酷な鉄面の裏で、無実の若い弟子たちを密かに救い、鉄鬼の魔の手から信徒を守ろうとしている。薬霊の耳はお前の足音の軽さだけでなく、お前の呼吸の奥にある『迷い』をも聴き取っているのだ」


薬翁は、傍らの棚から「薬翁の特製銀針」を取り出した。細く、鋭い純銀の針が、灯火の下で静かに光る。


「お前が朝廷の犬であろうと、奈落の悪鬼であろうと、私には関係ない。ただ一つ言えるのは、あの残虐な怪物であった冥夜より、目の前にいる『偽者の教主』の方が、はるかに無辜の民を救うに値するということだ。お前が信徒を守るというのなら、私はお前を真の教主として、その命を繋ぎ止めよう」


薬翁の言葉は、孤独な潜入任務の中で、誰にも素顔を見せられなかった沈青言の心に、静かに染み渡っていった。これが、この闇医者の「真意」だったのだ。


「横になれ。お前の体内で暴れる無影功の陽気と骨蝕丹の熱毒を調和させるため、一時的に主要な経絡を銀針で封鎖する。その間、お前は内力を一切使用できず、完全に無防備な状態となる。……私を信じるか?」


沈青言は、銀針の鋭い先端を見つめた。もし薬翁が裏切れば、自分は指一本動かせずに殺される。だが、彼は静かに目を閉じ、木台の上に身を横たえた。


「……頼む」


チクりとした痛みが沈青言の額、胸、そして両腕の経穴を貫いた。薬翁の精密な指先が銀針を深く刺し込むたびに、体内で暴れ狂っていた熱毒が、徐々に冷たい檻に閉じ込められるようにして静まっていく。全身の激痛が引いていくと同時に、心地よい重い痺れが彼を支配した。内力は完全に封印され、体は泥のように重かったが、数日ぶりに彼の心には「安息」が訪れていた。


薬翁は「千面草」の抽出液を調合した薬膏を沈青言の荒れた顔の皮膚に優しく塗り込みながら、静かに呟いた。


「これで一時的に毒の進行は止まる。だが、朝廷の解毒剤を手に入れねば、根本的な解決にはならんぞ」


その時、百草廬の窓の外で、微かな鳥の羽ばたき音が響いた。薬霊の耳がピクリと動き、彼女は窓の外を鋭く見つめた。


「おじい様……麓の見張り線から緊急の伝書です。朝廷の使者が、秘密連絡所である『夜梟宿(やきょうしゅく)』に到着しました。教主様に、大至急報告書を持参して出頭せよとの命令です」


沈青言の目が、暗闇の中で鋭く見開かれた。内力を完全に封印され、動くこともままならない彼の前に、新たなる朝廷の首輪が、冷酷に引き絞られようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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