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疑念の試練

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無極殿の重い扉が、地鳴りのような音を立てて閉ざされた。外からの冷たい霧が遮断され、殿内は窒息しそうなほどの静寂に包まれる。その静寂を切り裂くように歩を進めてきたのは、冥月教の左長老であり、武闘派の首領である鉄鬼だった。


ガチャ、ガチャ、と冷たい鉄の鎧が擦れ合う不気味な金属音が、黒大理石の床に反響する。鉄鬼の巨躯が放つ威圧感は、ただそこに立つだけで周囲の空気を歪ませるほどだった。彼が体内に宿す内力は、武術の極致の一つとされる「周天境」。無限に循環する気が放つ熱い波動が、殿内に残る冷たい霧を物理的に吹き飛ばしていく。沈青言の皮膚を直接圧迫するようなその武圧は、呼吸をすることすら困難にさせるほどの重圧だった。


(これが、周天境の達人か……。まともに刃を交えれば、一撃で私の経絡は粉砕されるな)


沈青言は、冥夜の鉄の半面の奥で、静かに呼吸を整えた。彼の喉の奥には、本物の教主の掠れた低音を再現するための「声帯調整用の骨針」が深く突き刺さっている。喋るたびに喉の肉が裂け、熱い血が口内に溢れ出てくる。彼はその血を静かに飲み込み、表情を一切変えずに鉄鬼を見下ろした。さらに悪いことに、鉄鬼が放つ強烈な武圧に触発され、体内の「骨蝕丹」の毒素が疼き始めていた。全身の骨が内側からみしみしときしみ、右手の指先が微かに震えそうになる。沈青言は左手で「幽冥令」を強く握りしめ、その激痛を力ずくで抑え込んだ。


鉄鬼は玉座の階段の手前で立ち止まり、その巨大な剛槍「鉄鬼の覇王槍」の石突を床に突き立てた。ドン、と重い音が響き、黒大理石の床に微かな亀裂が走る。彼は形ばかりの礼を執ったが、その獰猛な瞳には、若き教主に対する敬意など微塵も存在しなかった。


「新教主、冥夜様。就任、心よりお慶び申し上げますな」


鉄鬼の声は、地底から響く地鳴りのように低く、傲慢だった。彼の顔に刻まれた深い刀傷が、不気味に歪む。


「先代教主様が急逝され、我が冥月教は今、正邪の狭間で揺れております。この難局を乗り切るためには、教主様が『真の継承者』であられるという絶対的な証明が必要にございます。そこで、全信徒を代表し、この鉄鬼が一つ、お尋ねしたい儀がございます」


沈青言は、鉄の半面の奥から冷酷な眼光を放ち、無言で先を促した。喉の激痛のため、無駄な言葉は一言も発したくない。何より、不用意な発言は正体露見に直結する。


鉄鬼は薄笑いを浮かべ、覇王槍を握る指先に微かに力を込めた。


「教主の証たる『幽冥令』。その裏面には、百年前の創設期に初代教主が刻んだとされる『誓い』の古い暗号文字がございます。先代様は崩御される直前、私にこう仰いました。『我が血を引く真の継承者冥夜ならば、幽冥令の裏面に秘められた鍵の構造と、その誓いの真意を瞬時に解き明かすであろう』と。さあ、教主様。全信徒の目の前で、その裏面の誓いの言葉を、この老臣にお聞かせくだされ」


無極殿の空気が、一瞬にして凍りついた。天井の闇に潜む教主直属の暗殺部隊長「夜影」すらも、息を潜めてこの対峙を見守っているのが気配で伝わる。右護法の鉄心派の者たちも、固唾を呑んで玉座を見つめていた。


(身元確認の罠……! 先代教主しか知り得ない秘密を突きつけ、私が偽者かどうかを試しているのだ)


沈青言の脳裏を、焦燥が駆け巡る。彼は影衣衛の捕吏として、魔教の内部情報を徹底的に調べ上げたが、教主一族の血脈のみに受け継がれる「幽冥令」の裏面の極秘事項など、知る由もない。幽冥令の裏面を視線だけで観察するが、そこには奇怪な歯車の彫刻と、解読不能な古代の文字が刻まれているだけだった。もし、ここで答えを間違えれば、鉄鬼は即座に「偽者」として覇王槍を突き立てるだろう。周天境の達人が放つ一撃を、現在の満身創痍の肉体で避けることは不可能だった。


沈青言は「絶対の観察眼」を極限まで起動した。世界が引き伸ばされたように遅くなり、鉄鬼の全身の筋肉の動き、呼吸の乱れ、目の微動が、沈青言の脳内に情報として流れ込んでくる。


(待て……何かがおかしい)


沈青言は、鉄鬼の右肩のわずかな強張り、そして覇王槍を握る左手の指先が、一分だけ不自然に緊張しているのを見逃さなかった。彼の呼吸は深く重いが、その奥に「確信」がない。ただ相手の動揺を誘おうとする、狩人のような邪悪な期待だけが揺れている。


(鉄鬼自身も、その裏面の『真意』を知らないのだ。先代が彼にそんな言葉を残したというのも、おそらく真っ赤な嘘。私を心理的に追い詰め、一瞬の戸惑いや言い淀みから『偽者』の証拠を掴もうとする、巨大なハッタリに過ぎない!)


敵の狙いを見抜いた瞬間、沈青言の脳裏に、かつて影衣衛の訓練教官「影狼」から叩き込まれた暗殺と尋問の鉄則が蘇った――『敵が最も守りたい秘密を知る者は、盤上の支配者となる』。


沈青言は、影衣衛の隠密調査によって得ていた、鉄鬼の最大の弱点を脳内から引き出した。鉄鬼は裏で、教団の資金源である「鉄血谷」の私鉄鉱山から極秘裏に金塊を盗み出し、朝廷の地方官僚である李監察官に売却して私腹を肥やしている。それは教理「叛教者即殺」に抵触する、絶対の死罪に値する裏切りだった。


沈青言は冷酷に笑った。喉の骨針が肉を抉り、口内に熱い血が溢れる。彼はその血をあえて飲み込まず、唇の端から一筋の赤い線として滴り落ちるに任せた。その姿は、拷問を終えたばかりの血に飢えた暴君そのものだった。


「ふっ……、はははは……」


冥夜の、低く、掠れた冷たい笑い声が無極殿に響き渡った。その不気味な笑いに、鉄鬼の眉が微かに動く。


「鉄鬼よ。貴様は先代がなぜ急逝したか、本当に病死だと信じているのか?」


沈青言は、幽冥令を弄びながら、ゆっくりと立ち上がった。全身の骨が悲鳴を上げるが、表情は微塵も崩さない。一歩、また一歩と階段を下り、鉄鬼を見下ろす位置まで近づく。


「幽冥令の誓いなどという戯れ言で、この私を試す暇があるなら、貴様が裏で李監察官と交わした『密約』と、鉄血谷から隠密裏に運び出された『あの金塊』の行方について、言い訳を考えておくことだな。先代が崩御された夜、鉄血谷の帳簿がなぜ一冊消えたか……、貴様が一番よく知っているはずだ」


その言葉が放たれた瞬間、鉄鬼の全身の筋肉が劇的に硬直した。彼の「絶対の観察眼」は、鉄鬼の瞳孔が急激に収縮し、覇王槍を握る両手が目に見えて震えたのを正確に捉えた。周天境の圧倒的な武圧が、一瞬にして霧散するように揺らぐ。鉄鬼の顔から血の気が引き、刀傷が白く浮き上がった。


(かかった。私の言葉が、彼の最大の恐怖を直撃したのだ)


沈青言は、さらに追い打ちをかけるように、幽冥令を鉄鬼の目の前に突きつけた。


「それとも、今すぐこの場で夜叉衆を動かし、貴様の首を祭天壇に晒してやろうか? 鉄鬼よ、誰が真の主であるか、その老いた頭に叩き込んでやる」


鉄鬼は、激しい葛藤と恐怖に引き裂かれていた。目の前の若い教主が、まさか自らの命綱である「李監察官との密売」の事実をここまで正確に把握しているとは夢にも思わなかったのだ。ここで教主を力ずくで殺せば、教団内の擁護派や夜叉衆との全面戦争となり、自らも無事では済まない。何より、裏取引の証拠が公になれば、自分は教団からも朝廷からも抹殺される。


長い沈黙の後、鉄鬼は覇王槍をゆっくりと引き、深く頭を下げた。彼の鋼のような背中が、屈辱に震えている。


「……滅相もございません、教主様。この老臣、ただ教主様の御覚悟を確かめ、教団の未来が安泰であることを確認したかっただけにございます。不敬の極み、何卒お許しくだされ」


「下がれ。二度と私の前で、その汚い槍を床に突き立てるな」


沈青言は冷酷に吐き捨て、玉座へと戻った。鉄鬼は屈辱に顔を歪めながら、重い足音を立てて無極殿を去っていった。その背中には、教主に対する深い殺意と執念が刻まれていた。


扉が完全に閉まり、再び静寂が戻った瞬間――沈青言の張り詰めていた糸が切れた。


「がはっ……!」


彼は玉座に崩れ落ち、口から激しく黒い血を吐き出した。極限の精神集中により、体内で眠っていた「骨蝕丹」の熱毒が急激に活性化し、全身の経絡を炎が駆け巡るような激痛が襲う。骨が、みしみしと音を立てて内側から蝕まれていく。


(くっ……、まだ、死ぬわけにはいかない……!)


沈青言は、震える手で懐から妹・小雨の木彫りの兎を取り出し、血に染まった指先でそれを強く握りしめた。痛みが、彼の消えかける意識を辛うじてこの世に繋ぎ止めていた。だが、彼の肉体は既に、崩壊の一歩手前まで追い詰められていた。

HẾT CHƯƠNG

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