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祭天壇の不穏な霧

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祭天壇の石畳に飛び散った血は、黒月峰を覆う湿った朝霧に吸い込まれるようにして、どす黒く変色していった。周囲を包むのは、年中消えることのない幻覚性の猛毒霧。だが、今この場に満ちている空気は、毒霧よりもなお冷酷で、張り詰めた沈黙に支配されていた。


「本物の冥夜様ではない――!」


 処刑された分舵主・周平が死の間際に遺した断末魔の叫び。その残響が、風の吹き荒れる祭天壇にいつまでもまとわりついている。壇上に集まった数千人の魔教信徒たちの間に、ざわざわとした不穏な囁きが波紋のように広がっていくのが分かった。


「おい、聞いたか……。周平は今、何と言った?」

「まさか、現教主様が偽者だと……?」


 信徒たちの猜疑に満ちた視線が、処刑台の上に立つ沈青言へと突き刺さる。仮面の奥で、沈青言は冷たい脂汗が背中を伝うのを感じていた。喉の奥に深く刺し込まれた「声帯調整用の骨針」が喋るたびにきしみ、口内には常に鉄の味が広がっている。だが、ここで一瞬でも動揺を見せれば、その瞬間にすべてが瓦解する。


「フン……。往期往往にして、死に際の犬はありもしない幻を見るものだ」


 沈青言は、冥夜の低くかすれた冷酷な声を絞り出した。喉を引き裂くような激痛が走るが、鉄の半面の奥にある眼光だけは、微塵も揺らがせない。


「教理『叛教者即殺』は執行された。これ以上、妄言を弄ぶ者がいるならば、周平と同じ泥の底へ送ってやろう」


 その冷徹な言葉に、騒ぎかけていた信徒たちが一瞬にして静まり返る。しかし、処刑台の脇に立つ左長老・鉄鬼の蛇のような視線だけは、執拗に沈青言を捉えたままだった。鉄鬼は背負った漆黒の「鉄血斬魔刀」の柄に手をかけたまま、唇の両端を不気味に釣り上げる。


「さすがは教主様、実に見事なご決断。……ですが、周平の遺した言葉は、あまりにも不吉。教団の正統性を守るためにも、一度生じた疑念は根雪のように残るもの。ここは全信徒の目の前で、教主様の武功の正統性を示す『武闘審判』を祭天壇にて執り行うのが、教律にかなうというものにございますな」


 鉄鬼の言葉に、周囲の武闘派信徒たちが一斉に呼応するように武器を鳴らした。右護法の鉄心が「鉄壁功」の重厚な気を放って沈青言を庇おうとするが、これ以上の対立は今この場での全面的な内乱を引き起こしかねない。


「……幹部会は一時中断とする。私は無極殿へ戻る」


 沈青言はそれだけを言い残し、翻る漆黒の龍衣をなびかせて祭天壇を後にした。背後から突き刺さる鉄鬼の勝ち誇ったような視線を、背中で受け止めながら。


***


 無極殿へと続く長い石廊下を歩む沈青言の足取りは、傍目には威風堂々としていたが、その内実は限界を遥かに超えていた。


(くっ……、骨蝕丹の毒が……暴れておる……)


 丹田の底から湧き上がる、肺を焼き焦がすような熱毒。朝廷の毒薬「骨蝕丹」が、先ほどの処刑に伴う無理な内力の運行によって活性化してしまったのだ。全身の骨が「みしみし」と不気味な音を立ててきしみ、右手の指先が微かに黒ずみ始めている。左肩に受けた鉄蜘蛛の毒傷も、熱毒と共鳴して燃えるような激痛を放っていた。


「教主様、お体のご様子が……」


 背後から、直属護衛の少年・阿飛が心配そうに声をかけてくる。その澄んだ瞳には、教主に対する盲目的な忠誠心と、同時に隠しきれない不安が揺れていた。


「案ずるな、阿飛。ただの瞑想の不足だ」


 沈青言は掠れた声で冷たく遮った。阿飛は純粋に自分を心配してくれている。だが、その純粋さこそが、この張り巡らされた監視の網の中では最大の「正体露見の罠」になり得るのだ。無極殿の陰からは、今も筆頭侍女の小梅が、その鋭い観察眼で教主のわずかな歩幅の乱れを監視している気配がする。誰にも、この肉体の崩壊を悟られてはならない。


 無極殿の広場へと差し掛かったその時、前方から重々しい足音が響いた。


 立ち塞がったのは、燃えるような赤い戦衣を纏い、背に巨大な「黒龍破陣槍」を背負った若者――左長老・鉄鬼の息子、鉄斬であった。その虎のような鋭い眼光には、若き覇気と、教主に対する隠しきれない不遜さが満ちていた。


「これは教主様。周平の処刑、実に見事でございました。しかし……」


 鉄斬は一歩踏み出し、あえて教主との距離を詰めてきた。その体躯からは、一流境界の瞬発力を秘めた筋肉の緊張が伝わってくる。


「処刑の際、教主様の内力が微かに乱れていたように見えましたが? 先代様の『冥月玄功』を継ぐ者にしては、少々、息が荒いご様子。武闘審判を前に、お体の調子でも崩されたか?」


 あからさまな挑発。鉄斬の言葉に、周囲の見張りの信徒たちの視線が再び沈青言へと集まる。鉄斬は、教主の体調不良――すなわち「武功の衰え」をこの場で力ずくで確かめようとしているのだ。もしここで沈青言が弱みを見せれば、鉄斬はその場で「黒龍破陣槍」を突き立て、教主の正体を暴きにかかるだろう。


 阿飛が瞬時に「無音匕首」の柄に手をかけ、鋭い殺気を放った。


「無礼者、鉄斬! 教主様の前でその不遜な態度、万死に値するぞ!」


 鉄斬は冷笑を浮かべ、槍の柄を握る指先に力を込める。一触即発の緊張が広場を支配した。


(待て……。ここで阿飛を戦わせれば、鉄鬼派にこちらの動揺を確信させるだけだ。それに、私の現在の内力では、鉄斬の剛力を正面から受け止めることはできん)


 沈青言は「絶対の観察眼」を起動した。世界が引き伸ばされたように遅くなる。鉄斬の右肩の微かな沈み込み、踏み込んだ左足の親指にかかる体重。彼は、こちらの出方次第でいつでも槍を突き出せるよう、全身の気を極限まで引き絞っている。


「下がれ、阿飛」


 沈青言は、喉の骨針がきしむ激痛をこらえ、掠れた低い声で制止した。阿飛は一瞬驚いた表情を見せたが、教主の絶対的な命令に従い、悔しげに一歩退いた。


 沈青言は、冥夜の鉄の半面の奥から、冷酷極まりない眼光を鉄斬へと向けた。そして、腰に下げた黒鉄の令牌「幽冥令」を左手の指先でカチ、カチと弄びながら、不敵な笑みを浮かべた。


「鉄斬。お前は相変わらず、父親に似て思慮が浅いな」


「何だと……?」


 鉄斬の眉が不快げに跳ね上がる。


「お前たちが『鉄血谷』の私鉄鉱山で、朝廷の李監察官と交わしている裏の取引……。その帳簿が、すでに私の手元にあることを忘れたか?」


 沈青言は、右袖の奥に隠された周平の地図を思い描きながら、冷酷なブラフを投げかけた。その言葉に、鉄斬の全身の筋肉が一瞬にして硬直した。彼の呼吸が、わずかに乱れるのを沈青言の観察眼は見逃さなかった。鉄鬼一派にとって、李監察官との癒着が公になることは、教規によって即座に一族皆殺しになることを意味する。


「教主様……、何のことでございますか?」


「とぼけるな。お前たちが鉱山から盗み出した金塊の行方、すべて私は把握している。武闘審判を前に、自ら一族の首を絞めるような真似は避けるべきだと思うが?」


 沈青言は一歩、鉄斬に向けて踏み出した。鉄の半面の奥から放たれる圧倒的な威圧感。鉄斬は、教主が自らの最大の弱点を完全に握っていることを確信し、その場から一歩も動けなくなった。


 しかし、その精神的な集中が、沈青言の体内で骨蝕丹の熱毒を限界まで活性化させてしまった。丹田の気が激しく衝突し、沈青言の胸元を鋭い激痛が貫く。


(がはっ……!)


 沈青言の呼吸が一瞬、不自然に乱れ、口内に血の味が広がった。喉の骨針から溢れた鮮血が、鉄の半面の隙間から顎へと伝わり落ちそうになる。鉄斬の鋭い目が、その教主の「一瞬の綻び」を捉えようと引き絞られた。


 だが、沈青言は強引にその激痛を表情から消し去り、鉄の半面の奥から、さらに深く、冷酷な嘲笑を漏らしてみせた。


「……ふん、その程度の脅しで怯えるか。やはり、お前は私の敵ではない」


 沈青言は、口内の血を飲み込み、鉄斬の横を平然と通り過ぎた。鉄斬は教主の底知れぬ恐怖と、自らの不正発覚の恐れに完全に気圧され、大刀を抜くこともできずに、ただその背中を見送るしかなかった。


 一時的な退散には成功した。しかし、沈青言の右手の指先は、骨蝕丹の毒蝕によって、微かに黒ずみ始めていた。祭天壇での武闘審判という、逃げ場のない死の舞台が、刻一刻と迫っていることを、彼はそのきしむ骨の痛みと共に自覚していた。

HẾT CHƯƠNG

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