黒き死の宣告
無極殿の大広間に満ちる空気は、一瞬にして氷点下へと叩き落とされた。
「教主様、ずいぶんと見事な知略だ。我が教団の内部をこれほど鮮やかに引っかき回すとはな……。ならば、その武功も先代様に劣らぬものか、この老骨が直々に確かめて進ぜよう!」
左長老・鉄鬼(てっき)の咆哮と共に、漆黒の「鉄血斬魔刀」が引き抜かれ、大理石の床を切り裂くような凄まじい風圧が沈青言(しんせいげん)を襲う。周天境(しゅうてんきょう)の達人が放つ赤黒い殺気が、無極殿の灯火を激しく揺らしていた。
沈青言は「冥夜(めいや)」の鉄の半面の奥で、冷徹に「絶対の観察眼」を起動した。鉄鬼の右肩のわずかな強張り、踏み込んだ左足の角度。一撃でこちらの息の根を止めんとする、狂気的なまでの殺意が視覚情報として脳内に流れ込んでくる。だが、現在の沈青言の体内は、左肩の毒傷と朝廷の毒「骨蝕丹(こつしょくたん)」の相乗暴走により、内力が一割以下に制限されていた。まともに受ければ、一撃で経絡が爆裂し即死する。
その時、沈青言の前に、鋼のような巨躯が立ち塞がった。右護法・鉄心(てっしん)である。
「鉄鬼! 教主様の前で刃を抜くとは、反逆と同義! この鉄心が相手になってやる!」
鉄心の全身の骨関節から「パキパキ」と凄まじい音が響き渡り、皮膚が鈍い黒光りを帯びる。「金剛鉄骨功」の絶対防御の気が、鉄鬼の放つ赤黒い風圧を正面から受け止めた。一触即発、無極殿が崩壊しかねないその瞬間――大広間の重い扉が、血相を変えた伝令の信徒によって荒々しく押し開けられた。
「ほ、報告いたします! 左長老の斥候部隊が、黒月峰の崖下にある『死人沼(しじんぬま)』から、不審な死体を引き揚げました!」
伝令の悲鳴のような叫びに、鉄鬼の動きがピタリと止まった。彼は大刀を構えたまま、不気味な笑みを浮かべて沈青言を見つめた。
「ほう……死人沼から不審な死体だと? 伝令、その死体はどのようなものだ」
「そ、それが……衣服の裏に、朝廷の隠密組織『影衣衛(えいえい)』の紋様が刻まれており、さらには我が教団の極秘暗号が記された書状を所持しておりました!」
無極殿にどよめきが広がった。鉄鬼はゆっくりと大刀を収め、わざとらしく嘆息してみせた。
「我が黒月峰の足元に、朝廷の犬が紛れ込んでいたとはな。しかも、教団の極秘暗号を握っていたということは、内部に手引きした裏切り者がいるということだ。……教主様、ずいぶんと耳の痛い話ではございませぬか? 周平を処刑し、規律を叫ばれたばかりのあなたが、この事態をどう釈明される?」
(鉄鬼め……、この死体を使って私を揺さぶる気か)
沈青言は、喉の奥の声帯調整用の骨針がきしむ激痛をこらえ、掠れた低い声で冷酷に言い放った。
「……釈明など不要。朝廷の鼠が紛れ込んでいたのなら、我が手でその息の根を完全に止めるだけだ。鉄心、幹部会を一時中断する。私は直々に死人沼へ赴き、その鼠の正体を検分する」
「教主様、危険にございます! 私めもお供いたします!」
鉄心が叫ぶが、沈青言はそれを片手で制した。
「不要だ。教主の威厳を汚した鼠だ。私が直々に、その魂を冥府へと送ってやる」
鉄鬼の蛇のような視線を感じながら、沈青言は無極殿を後にした。彼の背中には、冷たい脂汗が流れていた。死人沼で見つかった影衣衛の死体――それは、朝廷が自分に無断で送り込んでいた別の潜入工作員「幽影(ゆうえい)」に違いなかった。
***
黒月峰の崖下、年中、幻覚性の猛毒霧が立ち込める「死人沼」。
腐敗した泥と、歴代の敗者たちの骸が放つ陰惨な血臭が、重苦しい夜気の中に充満していた。沈青言は「冥夜」の装束のまま、音もなく沼の畔へと降り立った。泥の中に、半ば埋もれるようにして横たわる死体がある。顔は潰され、喉元は極薄の「影の糸(玄鉄糸)」によって一撃で切り裂かれていた。紛れもない、影衣衛の暗殺術の痕跡。そして、その傷口の周囲には、鉄鬼派の幻蛇が好む精神毒「蛇影散(じゃえいさん)」の紫色のシミが浮かび上がっていた。
(やはり、幽影だ。鉄鬼の部下に正体を見破られ、消されたのだ。そして鉄鬼は、この死体を使って私と朝廷の繋がりを暴こうとしている……)
沈青言が幽影の死体を見つめ、思考を巡らせたその時――背後の毒霧が、不自然に波打った。
血の臭いと、獣のような圧倒的な威圧感が、闇の中から静かに這い出てくる。
「沈青言(しんせいげん)――」
不気味な狼の仮面をつけ、血のように赤い外套をまとった大柄な男が、霧の向こうから姿を現した。影衣衛の冷酷な千戸(上級将校)であり、高景徳の忠実な猟犬、「血狼(けつろう)」だった。
「お前が同僚を殺したのか、それとも……完全に魔教の怪物に染まったのか?」
血狼の背負った「血狼大刀」が引き抜かれ、鈍い金属音が死人沼に響き渡る。沈青言は「絶対の観察眼」を極限まで研ぎ澄ませた。血狼の肩の筋肉の微動、大刀を握る指先の力。彼は本気だ。沈青言が少しでも不審な動きを見せれば、その場で首を刈るつもりだ。
沈青言の右手が、無意識のうちにサッシュの奥に隠された「影の細剣(えいのさいけん)」の柄へと伸びかける。一瞬にして周囲の音を完全に遮断する「無声の領域」を展開し、血狼の喉元を貫く――そんな極限の思考が脳裏をよぎった。
しかし、彼の観察眼が、血狼のベルトに装着された奇妙な真鍮の鈴を捉えた。「骨蝕丹共鳴鈴」――それを鳴らされれば、体内の毒素が共鳴し、瞬時に全身の経絡が破裂して死亡する。朝廷が猟犬を縛るための、絶対的な死の罠だった。
その瞬間、激しい熱毒が沈青言の五臓六腑を駆け巡った。内力を高めようとした反動で、骨蝕丹の毒が活性化したのだ。全身の骨が「みしみし」ときしむ凄まじい激痛に襲われ、沈青言はたまらず泥の上に膝をつき、激しく黒い血を吐き出した。
「がはっ……!」
血狼は冷酷に笑い、懐から小さな硝子瓶を取り出して指先で弄んだ。沈青言の命を繋ぐ、骨蝕丹の解毒剤だった。
「哀れな犬め。自らの立場を忘れたか? お前がどれだけ魔教主の真似事をしようと、その首輪は我らの手の中にあるのだ」
血狼は大刀の先を沈青言の喉元に突きつけ、冷酷な宣告を下した。
「趙無極(ちょうむきょく)様からの最後通告だ。三日以内に、正道の白雲剣派の次期掌門候補・柳雪楓(りゅうせつふう)の首を持ってこい。正道連合を皆殺しにし、魔教との全面戦争を引き起こすのだ。従わねば、この解毒剤は二度と与えん。お前の骨は、三日以内に泥となって溶け去るだろう」
(柳雪楓を……殺せだと?)
喉元に冷たい刃を突きつけられ、全身の骨がきしむ激痛に耐えながら、沈青言の脳細胞は高速で回転していた。ここで血狼を殺すことはできない。だが、柳雪楓を殺せば、正邪の全面戦争は避けられず、朝廷の陰謀が完成してしまう。自らの「義」と「生存」の狭間で、彼は一筋の光明を見出すための知略を絞り出した。
沈青言は口元の血を拭い、鉄の半面の奥から、不敵な冷笑を漏らした。
「……ふん、血狼千戸。あなたともあろうお方が、これほど浅薄な策を趙無極様に進言されるとはな」
「何だと?」
「幽影が死んだのは、私が殺したからではない。左長老・鉄鬼の部下、鉄蜘蛛(てつくも)の毒に侵されたからだ。幽影は、鉄鬼が朝廷の李監察官と交わしていた『武器の密輸ルート』に近づきすぎた」
沈青言は右袖の奥から、周平の死体から極秘裏に回収した「鉄血谷の地図」と、鉄鬼の密約書の写しを取り出し、血狼の足元へと投げつけた。
「鉄鬼は朝廷の金塊を使い、独自の私兵を武装させて教団の簒奪を狙っている。もし今、私が柳雪楓を殺せば、正道は怒りに狂って団結し、教団は鉄鬼の軍事力によって統合されるだろう。それは朝廷にとって最悪のシナリオではないか?」
血狼は狼の仮面の奥で、怪訝そうに沈青言を見つめた。
「私が描いているのは、より巨大な破滅だ」
沈青言は掠れた声をさらに低くし、冷酷な猟犬としてのペルソナを完璧に演じきった。
「私はこの幽影の死を逆手に取り、鉄鬼が朝廷と内通しているという大義名分を捏造する。全信徒の前で鉄鬼を裏切り者として合法的に粛清し、彼の持つ数千の武装兵力と私鉄鉱山の利権を、すべて私の支配下に置く。その後、魔教全体の武力を朝廷に丸ごと献上してやる。柳雪楓の首など、その後にいくらでも差し出してやる」
血狼は沈黙した。投げつけられた密約書と地図を拾い上げ、その内容を吟味する。沈青言の提示した「教団全体の兵力を無傷で朝廷に引き渡す」という計画は、趙無極にとってもこれ以上ない極上の果実だった。
「……面白い。さすがは高景徳様が育てた最高の猟犬だ」
血狼は冷笑を浮かべ、大刀を収めた。そして、解毒剤の薬瓶を懐へと戻す。
「ならば、数日間の猶予を与えよう。だが忘れるな、沈青言。鉄鬼を排除し、教団を掌握したその瞬間、お前が最初に成すべきは柳雪楓の処刑だ。もし裏切れば、お前だけでなく、帝都の貧民街にいる陸風(りくふう)の盲目の老母の命もないと思え」
血狼の姿は、不気味な赤黒い霧と共に、死人沼の毒霧の中へと消え去っていった。
***
深夜、満身創痍の肉体を引きずり、沈青言は黒月峰の山頂へと這い登った。
骨蝕丹の毒蝕によるきしみが全身の骨を苛み、一歩進むたびに肺から血が溢れそうになる。誰にも頼れない。朝廷からは使い捨ての犬として脅され、魔教からは偽者として命を狙われる。この圧倒的な孤独のなかで、沈青言はただ、胸元に隠された「錆びた十手」の冷たい鉄の感触だけを信じていた。
(私は……朝廷の犬としても、魔教の怪物としても死なない。柳雪楓も、この教団の無辜の信徒たちも、私の手で守り抜いてみせる)
無極殿の広場に到達したその瞬間、山頂に設置された巨大な青銅の銅鑼が、重々しく、そして狂ったように鳴り響いた。
「ゴォォォン……! ゴォォォン……!」
深夜の静寂を破るその音は、教団の非常事態を示すものだった。広場には、松明を手にした数千人の信徒たちが、異様な殺気を放ちながら集結していた。その中央、日の出前の紫色の闇に包まれた「祭天壇(さいてんだん)」の上に、左長老・鉄鬼が巨大な大刀を掲げて立っていた。
鉄鬼の傍らには、死人沼から引き揚げられた幽影の死体が晒されており、彼の配下たちが教主の寝殿を完全に取り囲んでいた。
鉄鬼は、登ってきた沈青言(冥夜)の姿を捉えると、地鳴りのような咆哮を黒月峰の夜空へと響かせた。
「信徒たちよ、聞くが良い! 先代教主の崩御に乗じて玉座を盗んだこの若造は、我らを騙し続けてきた! 彼の体には、先代様の高貴な『冥月玄功』の気配など微塵もない! この男は、我らを滅ぼすために朝廷が送り込んだ偽者、薄汚い影衣衛の鼠だ!」
信徒たちの間に、嵐のような動揺と怒号が広がっていく。
「私はここに、教団の血の掟に従い、教主の正統性を問う『武闘審判(ぶとうしんぱん)』を祭天壇にて執り行うことを要求する! 冥夜、お前が真の教主ならば、この老骨の刃の前に、その血の正統性を証明してみせよ!」
鉄鬼の「鉄血斬魔刀」が、日の出前の不気味な紫色の光を浴びて、ぎらりと輝いた。沈青言の前に、逃げ場のない「死の決戦」の幕が引き上げられようとしていた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!