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二つの顔を持つ男

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霧深い断崖絶壁に佇む冥月教の総壇・黒月峰。その最奥にそびえ立つ「無極殿」は、陽の光を頑なに拒むかのように、冷たい黒大理石と深い影に支配されていた。天井の隙間から這い入る冷たい霧が、床を這う黒い蛇のようにうごめいている。


その広大な殿堂の最上段、漆黒の玉座に腰を下ろしているのは、魔教の若き教主「冥夜」――いや、その仮面を被った朝廷の潜入捕吏、沈青言であった。


(くっ……また、このきしみか……)


沈青言は、鉄の半面の奥で密かに奥歯を噛み締めた。胸の奥底から、全身の骨を万力で締め上げるような激痛が這い上がってくる。朝廷の影衣衛に下された毒薬「骨蝕丹」の毒性が、彼の経絡を蝕んでいるのだ。三ヶ月に一度、指揮使の高景徳から与えられる解毒剤がなければ、全身の骨が溶けて泥のようになって死に果てる。この肉体の呪いは、彼が朝廷の忠実な猟犬であり続けねばならない冷酷な首輪そのものだった。


彼は震えそうになる右手を強引に抑え込み、衣服の奥深く、心臓に最も近い裏地に縫い付けられた小さな木彫りの兎に指先で触れた。それは、幼い頃に飢饉で亡くした妹、沈小雨の唯一の形見だった。


(小雨……お前の兄は、まだ生きている。泥をすすり、魂を闇に売ってでも、私は生き延びる)


妹の幻影が、冷酷な魔教主を演じる彼の心に、かすかな人間性の温もりを繋ぎ止める。沈青言は深く呼吸を整えた。現在の彼は、冥月教の先代教主の崩御に乗じて潜入した「偽りの支配者」だ。一瞬の油断、一分隙が、即座に死を意味する。


「教主様、お薬酒の代わりに、本日は温かい薬茶をご用意いたしました」


静寂を破り、細く静かな声が響いた。無極殿の重い扉を音もなく開けて入ってきたのは、先代教主の時代からこの寝殿に仕える若い侍女、小梅だった。彼女はうつむき加減に歩み寄り、手にした銀のトレイを恭しく捧げ持っている。トレイの上には、白い湯気を立ち上らせる磁器の茶碗が載っていた。


沈青言の全身の筋肉が一瞬にして緊張した。彼の「絶対の観察眼」が、小梅の立ち振る舞いを細部まで解剖していく。


(小梅の呼吸……普段よりわずかに速い。肩の筋肉が不自然にこわばっている。そして、トレイを持つ彼女の細い指先が、ほんの一分だけ震えている)


彼女はただの侍女ではない。本物の教主「冥夜」の些細な偏食や生活習慣をすべて知り尽くしている、この無極殿における最大の「正体露見の罠」だ。


そして、この「温かい薬茶」こそが、彼女が仕掛けた音のない踏み絵だった。本物の冥夜は、体内に極寒の陰気「冥月玄功」を宿しているため、極度の熱を嫌う。彼は決して温かい茶など飲まず、常に氷のように冷たい湧水か冷酒しか口にしないはずなのだ。


もし、ここで沈青言が不用意に茶碗を受け取り、口に含めば、その瞬間に「偽者」であることが露見する。だが、逆に過剰な拒絶を示せば、それもまた不自然な変化として彼女の疑念を深めることになる。


沈青言は、喉の奥に鋭い痛みを覚えた。彼の喉には、本物の冥夜の掠れた低い声を再現するため、極細の「声帯調整用の骨針」が深く刺し込まれている。喋るたびに喉が引き裂かれるような激痛が走り、口内には常に鉄の味が広がっていた。


「……誰が、そのような温い泥水をここに持ってこいと言った」


冥夜の、低く、かすれて凍りつくような声が無極殿に響き渡った。沈青言は玉座から一歩も動かず、ただ右手の指先で、玉座の脇に置かれた黒鉄の令牌「幽冥令」を弄んだ。カチ、カチ、と冷たい金属音が不気味に響く。


小梅の体が微かに強張った。彼女は顔を上げず、さらに一歩踏み出そうとする。


「ですが、教主様、最近はお体に障るご様子でしたので、小梅が特別に調合いたしました。一口だけでもお召し上がりくだされば、お体のきしみも和らぐかと……」


(やはり、私を試している。私の体調不良――骨蝕丹の毒の兆候に気づき、揺さぶりをかけているのだ)


沈青言は、顔の皮膚に張り付いた変装の仮面が、焦りによる発汗で剥がれそうになるのを感じた。「易容術の三原則」――熱水を浴びてはならず、過度の発汗を避け、感情の激変による表情の収縮を防がねばならない。もし汗が千面草の接着ゲルを溶かせば、この冷酷な仮面の下から、朝廷の捕吏の素顔が這い出てくることになる。


彼は「絶対の観察眼」をさらに研ぎ澄ませた。小梅の視線は、彼の喉元と、茶碗を持つ彼の手元に集中している。


「くどい」


沈青言は、声をさらに一段と冷たく沈めた。彼は右手を伸ばし、茶碗を受け取る動作を見せた。その瞬間、彼の指の角度が、影衣衛として訓練された「捕吏の独特の構え」になりかけた。指先が茶碗の縁に触れる直前、彼は脳裏で強引にその動きを修正し、冥夜の持つ傲慢でだらしのない、だが力強い指の形へと変化させた。


しかし、彼は茶碗を掴まなかった。ただ、トレイの端を指先で冷酷に弾いたのだ。


ガシャァン!


激しい音を立てて、磁器の茶碗が黒大理石の床に砕け散り、温かい茶の液体が湯気を立てて四方に飛び散った。熱い飛沫が沈青言のブーツの先にかかる。彼は「易容術の原則」を守るため、表情を一切変えず、ただ物理的に足を数寸だけ引いて、熱い湯気が顔の仮面に触れるのを防いだ。


「私の言葉が聞こえぬ耳なら、削ぎ落としてやろうか、小梅」


喉の骨針が肉を突き刺し、沈青言の口内に血が溢れた。彼はその血を飲み込み、鉄の半面の奥から、凍りつくような眼光を放った。


その時、無極殿の巨大な正門の前に立っていた巨漢の門番、巨岩が、異変を察知して重い足音を立てて一歩踏み込んできた。身長二メートルを超える彼の巨躯は、背負った百二十斤の大鉄槌と共に、沈青言の頭上に巨大な影を落とす。


巨岩の濁った瞳が、玉座の沈青言をじっと見つめている。彼は頭は良くないが、先代教主への盲目的な忠誠心を持っており、教主の「正統性」に対して本能的な野生の不信感を抱くことがある。


沈青言は、一切の動揺を見せなかった。彼は左手に持った黒鉄の「幽冥令」を、巨岩に向けて静かに提示した。黒い令牌が、薄暗い殿内で鈍い光を放つ。それは、全信徒に対する絶対的な命令権の証明だった。


「巨岩、お前も私の裁定を疑うのか?」


沈青言の眼光が、巨岩の視線と正面から衝突した。気迫の戦いだった。内力を使えば、体内の骨蝕丹の毒が暴走する。沈青言は純粋な精神の威圧感と、影衣衛の地獄の訓練で培った「死を恐れぬ眼光」だけで、巨漢の武人を圧倒した。


巨岩は一瞬たじろぎ、やがてその巨躯を深く折り曲げて平伏した。


「……滅相もございません、教主様。巨岩はただ、殿内の安全を案じたのみにございます」


小梅もまた、砕け散った茶碗の破片の前に跪き、激しく震えながら床に額を擦り付けた。


「教主様、小梅の不調法をお許しください! 二度とこのような真似はいたしません!」


「下がれ。二度と私の前に温い泥水を持ってくるな」


沈青言は冷酷に言い放ち、手を振った。小梅は破片を素早く回収し、巨岩と共に無極殿の重い扉の向こうへと退散していった。


扉が閉まり、静寂が戻った瞬間、沈青言は玉座の背もたれに深く体を預け、激しい呼吸と共に口から一筋の黒い血を吐き出した。喉の骨針による傷と、体内で暴れる骨蝕丹の毒熱が、彼の経絡を引き裂くかのように暴れている。彼は懐から、妹の木彫りの兎を取り出し、その不器用な輪郭を強く握りしめた。手のひらに木の感触が食い込み、痛みが彼に「沈青言」としての意識を繋ぎ止める。


小梅のその場の疑念は辛うじて晴らした。だが、彼女はこれからも彼のわずかな変化を監視し続けるだろう。潜入はまだ始まったばかりであり、この黒月峰のすべてが彼の敵だった。


その時、静まり返った無極殿の廊下の奥から、地鳴りのような重々しい足音が近づいてきた。


ガチャ、ガチャ、と冷たい鉄の鎧が擦れ合う音が、静まり返った殿堂に響き渡る。その足音と共に、沈青言の皮膚を物理的に圧迫するような、凄まじい内力(周天境)の圧迫感が押し寄せてきた。


無極殿の重い扉が、再びゆっくりと開かれる。そこに立っていたのは、教主就任を激しく拒絶する魔教の武闘派首領、左長老の鉄鬼だった。彼の背負った漆黒の大刀が、薄暗い霧の中で不気味な光を放っている。沈青言の前に、最大の壁が立ち塞がろうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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