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足跡の罠

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夜が、天照山を深く冷たい闇で包み込んでいく。嵐が去った後の山門は、不気味な静寂に支配されていた。昼間の熱気は消え失せ、残されたのは湿った土の匂いと、暗闇の奥から漂う張り詰めた殺気だけだ。


 榊夜叉丸は、門番小屋の薄暗い影の中に佇んでいた。衣服の下で、右足の砕けた骨が絶え間なく熱い疼きを放っている。毒島竜二の身体検査を欺くために自らさらに粉砕し、猪俣暴山との死闘で限界を超えて酷使した右足は、すでにどす黒く腫れ上がり、慢性的な化膿が進行していた。お蘭の調合した泥染めの包帯で強固に固定してはいるものの、一歩動くたびに脳髄を突き刺すような激痛が走る。


「……はぁ、はぁ……」


 夜叉丸は細く冷たい呼吸を吐き出し、痛みを内功の巡りで強引に抑え込んだ。今夜、どうしても山を下り、山麓の無法地帯である『黒霧街』のお蘭の店へ向かわねばならない。右足の激痛を一時的に麻痺させ、門番としての日常を維持するための劇薬『寒氷草』の湿布薬が、完全に底を突いていたからだ。明日の朝、足を引きずることすらできなくなれば、その瞬間に「無能な門番」としての仮面は剥がれ落ち、すべてが崩壊する。


 だが、小屋の窓から外を見下ろした夜叉丸の瞳が、冷たく細められた。


 月光に照らされた大山門の地面は、異様な白さに染まっていた。昼間、黒川長老が放った狡猾な密偵、斑蛇の巳之助が撒き散らした『石膏の粉末』だ。それは門番小屋の出口から、砂利道、そして森へと続く泥濘の境界線にまで、執拗なほど隙間なく敷き詰められていた。


 巳之助は昼間、白い石膏の型を掲げて高らかに宣言した。


『犯人は、この大山門の内部にいる。それも、右足に不治の障害を持つ者だ』


 あの執念深い猟犬は、夜叉丸が夜間に動くことを見越している。一歩でも地面に足を下ろせば、濡れた石膏粉が泥と混ざり合い、犯人の「引きずり足」の形状を、体重の沈み込みの深さに至るまで完璧に記録するだろう。翌朝、巳之助がそれを型取りすれば、夜叉丸の変形した右足の骨格と完全に一致し、正体が白日の下に晒されるのは火を見るより明らかだった。


「地面を踏めば、終わりか……」


 般若面の下で、夜叉丸は冷酷な笑みを浮かべた。ならば、答えは一つしかない。


 地面を一切踏まずに、この包囲網を突破する。


 夜叉丸は泥染めの黒衣の紐を固く締め直した。光を一切反射せず、霧と同化するその闇の装束は、夜間の隠密行における彼の皮膚そのものだった。床下から取り出した『錆びた薪割り刀』を手に取る。一見すれば、刃こぼれした粗末な農具に過ぎない。しかし、その錆びた外殻を指先で僅かにスライドさせると、内部から吸音金属『天照黒鋼』で鍛え上げられた、漆黒の細身の刀身が音もなく現れた。衝撃を完全に分子レベルで吸収し、風切り音すら消し去る伝説の刃だ。


 夜叉丸は小屋の小さな窓枠に、唯一五体満足な左足をかけた。右足は冷たい鉄の棒のように力なく垂れ下がっている。彼の視線の先には、大山門の石壁を越え、炭焼き窯の森へと繋がる巨木の枝が、夜風に揺れていた。


 距離は二丈(約六メートル)。常人であれば、不可能な跳躍。ましてや、片足の不自由な門番にとっては、奈落への身投げに等しい。


(天照心経・静地、運気――)


 夜叉丸は左足の親指一箇所に、全身の残された気と力を完全に集中させた。爆発的なバネが、彼の華奢な肉体の奥底で凝縮される。右足の痛覚を脳から強引に遮断し、ただ「最初の一歩」にすべてを賭ける。


 瞬間、夜叉丸の身体が闇を裂いて跳んだ。


 窓枠から直接、大山門の砂利道を踏むことなく、宙へとその身を投げ出した。滞空する一瞬、眼下には白い石膏粉が不気味に広がり、彼を絡め取ろうとする網のように見えた。夜叉丸は風を切り裂き、炭焼き窯の森の入り口にそびえる、巨大な杉の枝へと向かって滑空する。


 だが、着地の衝撃をどう殺すか。僅かでも木々の葉が擦れ合う音が響けば、門外の衛兵や、周囲に潜む巳之助の密偵たちに気づかれる。


 着地の直前、夜叉丸は空中で漆黒の刀身を抜き放ち、杉の太い幹へと正確に突き立てた。


(鉄喰い――衝撃を吸え)


 激突の瞬間、天照黒鋼の分子構造が活性化し、跳躍の凄まじい運動エネルギーと振動を完全に刃身の中へと吸い込んだ。幹を切り裂く金属音も、木々が揺れる葉擦れの音も、一切響かない。ただ、湿った幹に黒い刃が音もなく滑り込む、不気味なほどの「無音」だけがそこにあった。


 夜叉丸は左腕の驚異的な握力だけで、突き立てた刀の柄にぶら下がり、右足を幹に擦らせることなく、静かに枝の上へと着地した。左足の太ももの筋肉が、衝撃に耐えてピキリと悲鳴を上げる。


「うぐっ……!」


 右足を浮かせたまま、左足一本で枝のバランスを保つ。冷や汗が般若面の内側を流れ落ちた。辛うじて着地は成功したが、地面を踏めない移動は、想像を絶する負荷を肉体に強いていた。休む間もなく、夜叉丸は木から木へと飛び移り始めた。


 目指すは、森の奥深く、炭焼きの勘吉が窯を構えるエリアだ。


 大山門の裏手に広がるこの森は、常に勘吉が焼く炭の煙と、天照山特有の深い夜霧が交じり合い、昼間でも視界が非常に悪い。今夜も、勘吉がわざと湿った薪をくべたのだろう、濃密な白い煙幕が木々の間を這うように漂っていた。それは追跡者の視覚を遮る最高の目隠しだったが、同時に夜叉丸にとっては致命的な罠でもあった。


「はぁっ……、ごほっ……!」


 木々を飛び移る跳躍を繰り返すうち、夜叉丸の呼吸が乱れ始めた。気配を消すために『寒氷呼吸法』を維持し、極限まで心拍数を下げて冷たい空気を肺の奥深くに送り込んでいたが、そこに炭の微細な煤と煙が混入したのだ。凍りつきかけていた肺胞が物理的な刺激に耐えかね、激しく拒絶反応を起こす。


 夜叉丸は木の上で立ち止まり、激しく喀血した。喉の奥からせり上がったどす黒い血が、般若面の顎から滴り落ちる。彼は咄嗟に泥染めの黒衣の袖でそれを拭い、地面に一滴の血痕も落とさないよう、細心の注意を払って処理した。泥染めの黒衣は、その血を瞬時に吸収し、闇の中に痕跡を消し去る。


 肺が焼けるように熱く、右足は氷のように冷たい。五臓六腑が内側から引き裂かれるような自己矛盾の痛みに、夜叉丸は木の幹に背を預けて荒い息を吐いた。強くなるほど、肉体は崩壊していく。この不治の障害を抱えたまま戦うことの代償は、彼の寿命そのものを確実に削り取っていた。


(だが、まだ止まるわけにはいかない……。師父の無念を晴らすまでは)


 夜叉丸は再び刀を杖代わりにし、次の枝へと跳躍する準備を整えた。お蘭の店まで、あと数里。このまま木々の天蓋を渡り切れば、巳之助の罠を完全に無力化できるはずだった。


 その時だった。


 上空の雲が流れ、微かな月光が森の天蓋の隙間から差し込んだ。

 しかし、夜叉丸の頭上を照らすはずの光が、突如として不自然に遮られた。


 風が止まり、森の全ての呼吸が静止したかのような、異様な静寂が辺りを支配する。夜叉丸の『天照心経・静地』が、大地の振動ではなく、上空の「空気の微細な対流の変化」を鋭敏に察知した。


 夜叉丸の身体が、氷のように凍りつく。


 ゆっくりと、首を傾げるようにして頭上を見上げた。


 数歩上の、鬱蒼とした杉の枝の影。月光を背に受けて佇む、一人の影があった。その影は、人間の体躯を持ちながらも、顔全体を不気味な『巨大なカラスのマスク』で覆っていた。ガラスで作られたカラスの双眸が、月光を反射して冷たく光り、木の枝の上に微動だにせず直立している。


 闇鴉の梟――。


 黒川長老が放った、滑空と高所監視に特化した隠密密偵。その不気味なガラスの瞳は、暗闇の中で完全に夜叉丸の「般若面」と「泥染めの黒衣」を捉え、冷酷に見下ろしていた。

HẾT CHƯƠNG

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