断崖の泥痕
嵐が去り、夜明けの光が天照宗大山門の濡れた瓦を白く照らし始める頃、榊夜叉丸は門番小屋の冷たい床板の上に這いつくばっていた。
「ぐっ……、あ……」
喉の奥から、押し殺した悲鳴が漏れ出る。右足に施した『寒氷草』の麻痺が完全に切れ、凍りついていた経絡に凄絶な激痛が逆流していた。砕けた骨同士が擦れ合い、化膿した肉が内側から焼かれるように熱い。激痛のあまり全身から脂汗が噴き出し、ボロ布の衣服をぐっしょりと濡らしていく。夜叉丸は震える手で床板の一箇所を押し、隠し空洞を開けた。雨水と炭で染め上げた泥染めの黒衣と、恐るべき赤塗りの般若面をその中に押し込む。暴山の懐から奪った『鉄剣会の血銭』の巾着も、黒鋼の刀身の傍らに深く秘匿した。
お蘭から貰った消炎作用のある『泥染めの包帯』を、変形した右足のふくらはぎから足首にかけて強固に巻き直す。布が擦れるだけで、脳髄を直撃するような痛みが走るが、夜叉丸は歯を食いしばって表情を殺した。ここで声を上げれば、門外の衛兵に怪しまれる。
夜明けの鐘が厳かに響く。夜叉丸は錆びた薪割り刀を杖代わりに握りしめ、泥だらけの身体を引きずりながら門番小屋の外へと這い出た。大山門の周囲には、昨夜の猛烈な嵐が残した泥と小枝が散乱している。彼は卑屈な笑みを顔に張り付け、猫背になって箒を動かし始めた。砂利の上に残った微細な血痕を、風雨の跡に見せかけて泥で覆い隠すためだ。
「ひ、悲鳴だ! 捨て石の崖の底に、誰か倒れているぞ!」
早朝の冷たい静寂を切り裂き、下級弟子の絶叫が大山門に響き渡った。
砂利を踏み荒らす無数の足音が、一斉に崖際へと向かっていく。夜叉丸は箒を握る手に体重を預け、怯えたように肩をすくめながら、群衆の背後を盗み見た。鉄剣会の衛兵たちが、崖下を見下ろして顔を青ざめさせている。
「猪俣様だ……! 猪俣暴山様が、崖の底で首を折って死んでいる!」
「杉原健太に続いて、二日連続で幹部が転落死だと!? そんな馬鹿なことがあってたまるか!」
大山門は一瞬にしてパニックに陥った。宿場町警備隊の腐敗した役人たちも駆けつけたが、彼らは鉄剣会からの賄賂に慣れきっており、厄介な殺人事件に関わるのを嫌って「嵐の夜の不慮の事故」として処理しようとした。だが、その怠惰な空気を切り裂くように、冷徹な一言が放たれた。
「愚か者が。二日連続で同じ崖から幹部が落ちるなど、天の配剤にしては出来が良すぎるわ」
現れたのは、天照宗の外門を裏で支配する邪派長老、黒川巌門だった。その鋭い狐眼は、転落死という仮面に隠された「人為」を確実に見抜いていた。黒川の背後から、一人の男が静かに歩み出る。
「我が雇った密偵、斑蛇の巳之助だ。この男の目に留まれば、泥の中の蛇の這い跡すらも白日の下に晒される」
夜叉丸は、前髪の隙間からその男を注視した。心臓の鼓動が、一瞬だけ鋭く跳ね上がる。
巳之助。常に薄汚れた着物を纏い、腰に拡大鏡と石膏の袋を下げた小柄な男。その蛇のように細い瞳には、武人としての気配は皆無だったが、異様なまでの執念と知性が澱んでいた。巳之助は一言も発さず、ずるずると這うような歩調で『捨て石の崖』の泥濘へと近づいていった。
彼は泥の上に膝をつき、着物の汚れなど気にする様子もなく、顔を地面すれすれまで近づけた。懐から取り出した『特製の粉末』を泥の上に薄く撒き、拡大鏡を覗き込む。
「……ふむ」
巳之助の指先が、濡れた粘土質の土をそっと撫でた。夜叉丸は門番小屋の陰から、その捜査プロセスを冷徹に観察していた。胸の奥で、冷たい悔恨が広がる。
(弥平の舟さえ、昨夜の嵐で遅れなければ……)
本来ならば、暴山の死体はお蘭のルートを使い、弥平の平田舟で急流の川底へと沈めるはずだった。しかし、嵐による増水で舟の手配が間に合わず、やむを得ず健太と同じ『捨て石の崖』への遺棄を選択したのだ。暴山の百五十キロを超える巨体を引きずり、崖際まで運ぶ過程で、泥の上にどうしても微細な痕跡が残ることは避けられなかった。
「やはりな」
巳之助が不気味な笑みを浮かべ、泥の中から立ち上がった。彼の視線の先には、夜叉丸が『砂利道歩行術』を駆使して歩いたはずの、泥濘の跡があった。
「犯人は、猪俣暴山の巨体を引きずってここまで運んでいる。これほどの重さを運べば、どれほど歩法を極めた達人であっても、足跡の深さに異常が生じる。見てみろ」
巳之助は、泥の上に敷いた石膏の粉末が、特定の場所だけ深く沈み込んでいるのを指し示した。
「引きずられた暴山の自重を支えるため、犯人の左足には、通常の三倍以上の重力がかかっている。この左足の沈み込みの深さから逆算すれば、犯人自身の体重は約七十キロ。そして、問題はもう一方の足だ」
巳之助は拡大鏡を動かし、左足の足跡の傍らに残された、かすれた一筋の線をなぞった。
「右足の足跡が、どこにもない。あるのは、泥を引きずったような、かすかで不自然な摩擦痕だけだ。これは滑った跡ではない。体重を支えることができず、ただ地面を擦りながら移動した痕跡……。つまり、犯人は右足に不治の障害を持つ『跛行の者』だ」
その宣告が下された瞬間、大山門を取り囲む空気が凍りついた。
夜叉丸は、箒を握る指先が僅かに強張るのを感じた。激痛に耐えるために『天照心経・静地』の呼吸を整え、全身の筋肉を弛緩させて「無力な門番」の気配を維持する。しかし、巳之助の追跡はそれだけでは終わらなかった。
巳之助は立ち上がり、這うような足取りで、大山門の周囲を調べ始めた。彼の視線は、砂利道から泥濘へと移り、そして、夜叉丸が佇む門番小屋の方向へとゆっくりと向かってくる。
ザッ、ザッ、と、巳之助の足音が近づく。夜叉丸はわざと右足を不自然に震わせ、錆びた薪割り刀を杖代わりに深く泥に突き立てて、怯えたように身を縮めた。
巳之助は夜叉丸の目の前で立ち止まった。その細い蛇のような瞳が、夜叉丸の顔から、泥に突き立てられた薪割り刀の先へと落ちる。薪割り刀が泥に食い込み、夜叉丸の右足の体重を支えるために残した「深い丸い穴」を、巳之助は凝視した。その深さと角度は、先ほど崖際で見つかった「引きずり足の痕跡」の重心移動パターンと、物理的に酷似していた。
夜叉丸は卑屈な笑みを浮かべ、涙を浮かべて命乞いをするように声を震わせた。
「ひ、ひぃ……! お、お代官様、どうかお許しを……! わ、私はただの使えない門番でございます! 何も、何も見ておりませぬ!」
巳之助は何も答えず、ただ不気味な笑みを深め、手にした石膏の袋から白い粉を泥の足跡へと流し込み始めた。石膏が昨夜の雨水を含み、夜叉丸の「引きずり足」の形状を完璧に写し取っていく。
やがて、白く固まった石膏の型を泥から引き剥がした巳之助は、それを天照宗の衛兵たちと、黒川巌門の前に高く掲げた。その白い型には、右足を引きずり、左足だけに異常な重心をかけて歩く、歪んだ人間の歩行の轍が、残酷なほど鮮明に刻まれていた。
「犯人は、この大山門の内部にいる」
巳之助の鋭い声が、大山門の全員の脳髄へと突き刺さった。
「それも、右足に不治の障害を持つ者だ」
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