猪俣暴山の処刑夜
拷問部屋の天井裏から、漆黒の影が音もなく舞い降りた。
赤塗りの般若面。雨水と炭で染め上げられた泥染めの黒衣。そして、その手に握られているのは、昼間は不自由な右足を支える杖代わりとして泥に突き立てられていた、あの錆びた薪割り刀だった。
新之助の細い指に、錆びついた鉄ペンチの刃が噛み合おうとした、まさにそのコンマ一秒の瞬間。
猪俣暴山の禿げ頭の真上から、般若の牙が牙を剥いた。重力と落下の勢いを全て乗せた、音なき一突き。風を切り裂く音すらしない。それこそが、先代宗主・榊宗山が遺した『無音の太刀』の真髄であった。
しかし、暴山はただの荒くれ者ではなかった。百五十キロを超える巨躯に似合わぬ、戦場で培われた野生の勘。泥酔し、サディスティックな愉悦に浸りきっていたはずの脳髄が、頭上の「空気の急激な気圧変化」を本能的に察知した。
「ぬおっ!?」
暴山は獣のような短い咆哮を上げ、新之助の髪を掴んでいた手を離すと、机の上に置かれていた巨大な肉切り包丁を反射的にひったくった。凄まじい怪力によって振るわれた厚い鉄塊が、頭上へと掲げられる。
キィィン――!
極めて微細な、耳鳴りのような金属の擦れ合いの音が、物置小屋の狭い空間に響いた。夜叉丸が放った必殺の突きは、暴山が掲げた肉切り包丁の腹に滑り、その喉元を守る分厚い『黒鉄の喉当て』をかすめて軌道を逸らされたのだ。刃先が喉当ての鋼鉄を数ミリだけ削り、火花が散る。
(浅い――)
般若面の下で、夜叉丸は冷静に状況を分析していた。暴山の喉を確実に一撃で貫くはずの突きは、敵の驚異的な反応速度と頑強な防具によって防がれた。だが、夜叉丸の右足は、お蘭の『寒氷草』によって完全に感覚を失っている。着地の衝撃すら脳には届かないが、物理的な限界は確実に肉体を蝕んでいた。着地の瞬間、右膝の関節が不自然な角度にねじれ、鈍い骨の摩擦音が夜叉丸の体内だけで響いた。凄絶な負荷が左足へと集中する。
「何奴だぁっ!?」
暴山は目を血走らせ、泥酔の赤い顔をさらに怒怒しく歪めて立ち上がった。その巨躯は、梁の低い小屋の中で圧倒的な威圧感を放っている。目の前に立つ般若面の怪異が、昼間、自らの足元で干し飯を踏みにじられて泣き喚いていた、あの無力な門番・夜叉丸であるとは、暴山は夢にも思っていない。
「泥棒猫の仲間か! ぶっ殺してやる!」
暴山は巨大な肉切り包丁を両手で握り直し、その巨体を弾丸のように突進させた。床板が自重で激しく軋み、割れる。怪力無双の一撃が、夜叉丸の脳天を縦に真っ二つに引き裂くべく、凄まじい風圧を伴って振り下ろされた。
逃げ場はない。夜叉丸の右足は凍りついた鉄の棒のようであり、素早い回避運動は物理的に不可能だった。避ければ、背後に縛り付けられている新之助が肉塊にされる。
夜叉丸は、錆びた薪割り刀を斜めに掲げ、その剛撃を正面から受け止める姿勢を取った。
(『鉄喰い』――)
内功の運気を逆流させ、刀身の内部に仕込まれた伝説の吸音金属『天照黒鋼』の分子構造を極限まで活性化させる。先代宗主が夜叉丸のために鍛え上げたその刃は、外部からの物理的な衝撃を完全に吸収し、無へと帰す特性を持っていた。
暴山の肉切り包丁が、夜叉丸の黒い刀身に激突した。
――無音。
本来ならば、小屋全体を震わせるはずの凄絶な金属音が、一切響かなかった。それどころか、暴山が放った渾身の衝撃波すらも、泥沼に大石を投げ込んだかのように、夜叉丸の刀身に吸い込まれて消え去った。
「なっ……!?」
暴山の目に、初めて驚愕と恐怖の色が浮かんだ。手応えが、完全に「無」だったのだ。渾身の力で叩きつけたはずの一撃は、相手を押し潰すどころか、まるで行き場を失ったように夜叉丸の黒い刃の上で静止していた。物理的な力学の法則を完全に無視された暴山の身体は、自らの放った前進エネルギーの行き場を失い、前のめりに大きく重心を崩した。
その一瞬の隙を、夜叉丸は見逃さなかった。
左足の親指に全体重を乗せ、腰の鋭い旋回運動のみで、不自由な右足を軸にしてコマのようにその場で回転する。薪割り刀の外殻から完全に引き抜かれた、天照黒鋼の黒い刀身が、嵐の気流を味方にして水平に薙ぎ払われた。
空気の抵抗を極限まで逃がし、真空の刃を発生させる『無音の太刀』。
暴山が「手応えのなさ」に困惑し、首を前に傾けたそのコンマ一秒の瞬間、黒い刃先が、彼の厚い『黒鉄の喉当て』のわずかな隙間――顎の下の、無防備な皮膚へと正確に滑り込んだ。
シュッ、と、濡れた薄紙を引き裂くような、微細な音が一度だけ鳴った。
暴山の動きが、完全に静止した。彼の両手に握られていた肉切り包丁が、床に落ち、濡れた泥の中に音もなく沈んだ。暴山の喉元には、一筋の細い、赤い線が浮かび上がっていた。その線は瞬く間に広がり、鮮血の奔流となって噴き出す。
「が、あ……」
暴山は太い首を手で押さえようとしたが、喉の筋肉が完全に切断され、声帯はただの壊れた蛇腹のように虚しい空気を吐き出すのみだった。彼の百五十キロを超える巨躯が、木の柱に寄りかかるようにして、ゆっくりと崩れ落ちていく。その目は大きく見開かれ、般若面を見上げたまま、光を失っていった。
血飛沫が、物置小屋の床と、縛り付けられていた新之助の白い顔を赤く染めた。
夜叉丸は薪割り刀を静かに鞘(薪割り用の外殻)へと戻し、ラッチをカチリと嵌めた。その動作すらも、暴風雨の音にかき消されて聞こえない。彼の右足からは、寒氷草の麻痺の裏で、激しい内出血による腫れがさらに悪化し、骨が軋む凄絶な激痛が、麻痺の防壁を突き破って脳髄へと届き始めていた。肺の奥から、冷たい血の匂いがせり上がってくるのを、夜叉丸は強引に飲み込んだ。
「……しん、のすけ」
夜叉丸は般若面の下から、掠れた声を絞り出した。新之助は恐怖と疲労、そして暴山の拷問による失血で、すでに意識を失いかけていた。夜叉丸は素早く新之助の縄を解き、その小さな身体を自らの頑強な左肩へと担ぎ上げた。右足はすでに一歩も動かない。左足の踏み込みだけで、夜叉丸は小屋の窓から、深い夜霧が立ち込める大山門の影へと音もなく這い出していった。
甚平の居眠りルートを通り、衛兵たちの哨戒の死角を完璧に縫いながら、夜叉丸は新之助を「雑役の下男部屋」の前の暗がりに静かに寝かせた。ここに置いておけば、翌朝、他の雑役たちが彼を発見し、手当をするはずだ。新之助の背中の傷は深いが、命に別条はない。
その時、夜叉丸は、自分の足元に転がり落ちた、あるものに目を留めた。
暴山の死体を担ぎ上げた際、彼の懐から滑り落ちたのであろう、小さな革の巾着袋。泥の中に半ば埋もれたその袋の口からは、汚れた銀貨と、数枚の銅銭が覗いていた。それは、彼らが下級弟子や平民から不当に搾取した『鉄剣会の血銭(ちぜに)』だった。
夜叉丸は静かに手を伸ばし、その汚れた巾着袋を拾い上げた。お蘭への寒氷草の支払いに、この汚れた金が役に立つ。復讐の刃は、彼らの最も愛する「金」によって、次の獲物へと研ぎ澄まされるのだ。
般若面を懐に隠し、夜叉丸は再び、泥だらけの「足の不自由な門番」として、自分の小屋へと引きずりながら歩き始めた。夜明けは、もうすぐそこまで迫っていた。
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