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黒霧街の毒と薬

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彼の手が、泥にまみれた錆びた薪割り刀の柄を、静かに、だが決して離さぬように握りしめた。


 大山門の脇に佇む、雨漏りのする狭い門番小屋。夜の帳が下り、昼間の喧騒が完全に消え去った静寂の中で、榊夜叉丸は泥だらけの床に座り込んでいた。

 昼間、猪俣暴山に蹴られた背中の打撲傷が、呼吸をするたびに鋭く痛む。だが、その痛みなど、右足に渦巻く凄絶な激痛に比べれば、羽毛に撫でられているようなものだった。

「う、ぐ……っ」

 夜叉丸は歯を食いしばり、声を押し殺して呻いた。額から溢れ出た冷たい脂汗が、汚物を洗い流したばかりの濡れた髪を伝い、床に滴り落ちる。

 ズキズキと、脈打つたびに脳を直接灼くような白熱した苦痛。三年前、堂本剛蔵に鉄槌で徹底的に粉砕された右足の骨は、あえて正しい位置に戻さずに固定されている。骨折痕は無残に変形し、鋭く尖った骨の破片が、皮膚の内側で主要な経絡と神経を直接圧迫していた。さらに昼間の屈辱の這いつくばり、そして昨夜の暗殺行による無理な無音歩行の代償が、今になって一気に押し寄せていた。

 夜叉丸は震える手で、よね婆さんから貰った薬膳スープの温もりを体内に残しながらも、お蘭から以前手に入れた通常の消炎用の傷薬を患部に塗り込もうとした。しかし、どれだけ塗り込んでも、皮膚の表面が一時的に冷えるだけで、骨の芯から突き上げてくる激痛は一向に衰えない。

(通常の薬では、この歪んだ骨が神経を直接押し潰している苦痛は抑えられん……。このままでは、最初の一歩を踏み出すことすらできん)

 今夜、猪俣暴山を仕留めなければ、新之助は明日の朝、大山門に吊るし首にされる。暴山は百五十キロを超える怪力の巨漢。一撃でその息の根を止め、声を上げる暇すら与えずに処理するには、完璧な「踏み込み」から放たれる「無音の太刀」が不可欠だ。だが、今のこの足では、踏み込もうとした瞬間に激痛で膝が折れ、地面に無様に這いつくばるのが関の山だった。

(時間が、ない。……行くしかない、黒霧街へ)

 夜叉丸は覚悟を決め、床板を外して隠し空洞から「錆びた薪割り刀」を取り出した。昼間はみすぼらしい杖として自らの無力をカモフラージュしているその農具を、今夜は文字通りの杖として使い、小屋の窓から音もなく這い出した。


 外門は夜間外出禁止令が厳格に敷かれ、鉄剣会の衛兵たちが目を光らせている。しかし、山門の裏手には、炭焼きの勘吉の窯がある。

 夜叉丸が小屋の影に滑り込んだ瞬間、裏山から湿った夜風に乗って、濃密な白い煙が流れてきた。勘吉が炭焼き窯の温度を調整し、わざと不完全燃焼の煙を大量に発生させているのだ。この煙は、天照山特有の深い夜霧と混ざり合い、大山門周辺の視界を数歩先すら見えないほどの白濁の闇へと変えていた。

「おい、なんだこの煙は! 前が見えんぞ!」

「勘吉の爺め、また湿った薪を使いやがったな! 後で叩きのめしてやる!」

 衛兵たちの罵声が霧の向こうで響く。夜叉丸はその混乱の隙を突いた。左足の親指一箇所に全体重を乗せる「砂利道歩行術」を使い、音もなく砂利の上を滑るように移動する。右足は完全に脱力し、引きずりながらも地面に触れさせない。だが、一歩進むたびに、右足の骨折痕が内側から肉を裂くように軋み、鋭い激痛が走る。

「はぁ、はぁ……」

 夜叉丸は「寒氷呼吸法」を使い、肺の奥深くに冷たい空気を送り込んで心拍数を下げ、痛覚の伝達を強引に遅らせようとした。だが、それも気休めに過ぎない。肉体はすでに、悲鳴を上げる限界を超えていた。深い霧と煙の闇に紛れ、這うようにして山を下りた夜叉丸は、山麓の無法地帯「黒霧街」へと潜入した。


 黒霧街は、昼夜の区別がない闇の巣窟だ。湿った路地裏には、安酒の匂いと、行き場を失った浪人たちの殺気が漂っている。夜叉丸はボロ布のフードを深く被り、足を引きずりながら、街の最奥にある薬種店へと向かった。古びた木の扉を、三回、不規則な間隔で叩く。

 ギィ……と、錆びた蝶番が音を立てて開き、乾燥した薬草の強い香りが夜叉丸の鼻腔を突いた。

「遅かったわね、夜叉丸」

 店内に佇んでいたのは、紫の小袖を艶やかに着こなした美女、お蘭だった。彼女の切れ上がった涼しげな目元には、普段の勝ち気な表情ではなく、深い憂いと焦燥が宿っていた。夜叉丸が部屋に入った瞬間、彼の右足から漂う、微かな血と化膿の匂いを嗅ぎ取ったからだ。

「その足……また無理をしたのね」

 お蘭は夜叉丸を店の奥の隠し部屋へと促し、手際よく扉を閉めて閂をかけた。夜叉丸は崩れ落ちるように木の椅子に座り込み、荒い息を吐いた。お蘭は無言で夜叉丸の前に跪き、彼の泥だらけの袴の右足をナイフで切り裂いた。

「っ……!」

 夜叉丸の口から、短い呻きが漏れる。露わになった彼の右足は、常軌を逸した状態だった。ふくらはぎから足首にかけて、皮膚は紫色に変色して異常に腫れ上がり、骨折して変形した骨の尖端が、皮膚を内側から突き破らんばかりに盛り上がっている。熱を持ち、化膿した傷口からは、黄色い膿と黒い血が混ざり合って滴り落ちていた。

「骨が完全に歪んで、主要な経絡を圧迫しているわ」

 お蘭はその傷口を細い指先で慎重に触診した。指が触れるたびに、夜叉丸の身体がビクッと痙攣する。彼女は顔を上げ、夜叉丸の濁った瞳を凝視した。

「これじゃあ、激痛で一歩も動けないはずよ。通常の消炎剤や湿布薬なんて、何の意味もないわ。神経が直接、骨に押し潰されているんだから。……今夜、あの男をやるのね?」

 夜叉丸は答えなかった。ただ、前髪の隙間から、氷のように冷たい視線を彼女に返した。その沈黙こそが、絶対の肯定だった。

「新之助という少年が、明日の朝吊るし首にされる。暴山を今夜、無音で屠らねば、あの部屋の下男たちは全員皆殺しだ」

 掠れた、だが鉄のように強固な意志を宿した夜叉丸の声。お蘭は深くため息をつき、立ち上がると、部屋の奥の頑丈な鉄の薬箱から、厳重に密閉された小さな陶器の壺を取り出した。

「これを使うしかないわ。……『寒氷草(かんぴょうそう)』よ」

 その名前を聞いた瞬間、夜叉丸の瞳が僅かに細くなった。天照岳の北斜面、年中太陽の光が届かない極寒の氷晶の谷にのみ自生する、最悪の劇薬。

「知っているでしょう? これは痛みを和らげる薬じゃない。痛覚の神経そのものを、物理的に『凍らせて殺す』劇薬よ。これを使えば、数時間は右足の痛みを完全に忘れて、一瞬の爆発的な踏み込みが可能になる。……でも、その代償は大きすぎるわ」

 お蘭は陶器の壺を握りしめ、夜叉丸を睨みつけるように言った。

「寒氷草の毒性は、使用するたびに神経の壊死を太ももへと進行させる。経絡が氷のように冷たくなり、やがて全身の血が凍りついて、三年以内に確実に死に至るわ。これは、自分の寿命を切り売りして、一瞬の動力を得るための『悪魔の契約』よ。……本当に、そこまでする価値があるの?」

「価値はある」

 夜叉丸は迷いなく答えた。そして、懐から、以前暗殺した杉原健太の懐から奪った汚れた銀貨――「血銭(ちぜに)」の入った巾着を取り出し、お蘭の前の机に置いた。

「先代宗主の無念を晴らし、門派の弱者たちを守るためなら、この足の一本や二本、命ごとくれてやる。……お蘭、お前も裏切り者たちへの復讐を望んでいるはずだ」

 お蘭はその巾着を見つめ、それから夜叉丸の揺るがぬ瞳を見た。彼女もまた、裏切り者たちに家族を殺された復讐の徒。夜叉丸の目にある「鬼」の覚悟を、誰よりも理解していた。

「……本当に、馬鹿な男ね」

 お蘭は悲しげに微笑み、陶器の壺を開けた。中から現れたのは、凍りつくような冷気を放つ、青白い泥状の湿布薬だった。彼女は、消炎作用のある薬泥を塗り込んだ古い布――「泥染めの包帯」を取り出し、その上に寒氷草の薬泥を厚く塗り広げた。

「動かないで。一気にいくわよ」

 お蘭がその包帯を、夜叉丸の腫れ上がった右足の患部に直接、強く貼り付けた。


 次の瞬間。

「お、あ、ぐううううっ……!!」

 夜叉丸の口から、押し殺した凄絶な悲鳴が漏れた。

 それは、想像を絶する衝撃だった。患部に触れた瞬間、骨の芯まで直接、極限の冷気が突き刺さった。まるで、真っ赤に灼けた鉄棒を、冷たい氷水の中に直接突き込まれたかのような、激しい熱と冷気の衝突。夜叉丸は全身を激しく震わせ、傍らにあった椅子の木枠を指が白くなるほど強く握りしめた。木枠がミシミシと音を立てて軋む。彼の額から、大粒の脂汗が滝のように噴き出し、泥だらけの顔を濡らしていく。

 寒氷草の毒素が、壊死しかけた右足の経絡へと急速に侵入し、生きている神経を物理的に凍らせ、破壊していく。骨の芯まで凍りつくような絶対的な冷気と、神経が死滅していく瞬間の、皮膚が内側から破裂するような凄絶な激痛。夜叉丸は声を出すことすらできず、白目を剥きかけながら、ただ歯を食いしばって悶絶した。彼の喉の奥から、ヒューヒューと掠れた呼吸音が漏れる。

 お蘭は涙を浮かべながらも、容赦なくその「泥染めの包帯」を夜叉丸の右足に幾重にもきつく巻き付け、固定していった。

 泥染めの包帯の下で、右足は完全に冷たい「鉄の塊」と化していた。残された時間は、呼吸三回分の極限の戦闘のみ。夜叉丸は、新之助を救い出すため、大山門の闇へと静かに這い戻っていった。

HẾT CHƯƠNG

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