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波紋と下男の危機

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荒れ狂う嵐の雨音の奥、深い霧が立ち込める大山門の暗闇から――カサリ、と、濡れた砂利が擦れ合う、極めて微細で不自然な足音が聞こえた。


 夜叉丸の身体が、氷のように静止した。


(誰だ……?)


 般若面の下で、夜叉丸の呼吸が完全に止まる。「寒氷呼吸法」により心拍数を極限まで下げた彼の耳に、嵐の豪雨を突き抜けて、砂利を踏む足音が近づいてくるのが聞こえた。カサリ、カサリ。不均等で、どこかおぼつかない、だが迷いのない足音。


 夜叉丸は音もなく「錆びた薪割り刀」の黒い刀身を衣服の陰に隠し、気配を完全に消して岩影の死角へと滑り込んだ。嵐の激しい雨水が般若の仮面を伝い落ち、冷たい泥水が彼の指先を濡らす。張り詰めた緊張感の中、霧の奥から現れたのは、松明の代わりに古い提灯を掲げ、ずぶ濡れになりながら歩く老いた女性の影だった。


「夜叉丸……夜叉丸、そこにいるのかい?」


 掠れた、だが温かみのある声。天照宗の厨房を長年守る老メイド、よね婆さんだった。提灯の微かな灯りが、濡れた砂利の上を頼りなげに照らしている。


 夜叉丸は胸の内で小さく息を吐いた。彼は瞬時に般若面を外し、衣服の奥へと忍ばせると、ずぶ濡れのボロ布を纏った「無能な門番」の姿へと戻った。そして、右足を引きずり、わざと「ゴキ、ゴキ」と痛々しい関節音を響かせながら、霧の中から姿を現した。


「よ、よね婆さん……? こんな嵐の夜に、どうして……」


 夜叉丸は怯えた声を出し、猫背になって震えながら提灯の灯りの前に進み出た。よね婆さんは彼を見つけると、安堵の溜息を漏らし、抱えていた漆塗りの小さな木桶を差し出した。


「お前が真壁の馬鹿どもに汚物を浴びせられたと聞いてね。居ても立ってもいられなくて、厨房の残り物の骨と薬草を煮込んだ温かい薬膳スープを持ってきたんだよ」


「よね婆さん……」


「ほら、早くお飲み。それからね、その頭の酷い悪臭だけど……うちの厨房にある『特製の糠床(ぬかどこ)』を少し分けて持ってきた。これで頭を洗うと、不思議と汚物の臭いが綺麗に落ちるんだよ。お前みたいな優しい子が、あんな酷い目に遭うなんて、本当に神様は不公平だよ」


 夜叉丸の胸に、冷徹な復讐心とは異なる、微かな温もりが広がった。彼は震える手でスープの温もりを受け取り、一気に喉へと流し込んだ。寒氷呼吸法で凍りつきかけていた五臓六腑が、じんわりと温められていく。よね婆さんがくれた糠の匂いが、真壁俊介たちに浴びせられた強烈な汚物の悪臭を優しく包み込み、消し去っていくようだった。


「ありがとうございます、よね婆さん……本当に、温かいです」


「さあ、早く小屋に戻って温まるんだよ。風邪をひいたら大変だからね」


 よね婆さんは彼の頭を優しく撫でると、再び霧の奥へと去っていった。夜叉丸はその背中を見送りながら、糠を使って頭を洗い流した。先代宗主を裏切った犬どもが支配するこの地獄で、この老婆の優しさだけが、彼の人間性を繋ぎ止める最後の錨だった。


 ◇


 翌朝。


 嵐は嘘のように去り、大山門の周囲には抜けるような青空が広がっていた。しかし、嵐が残した濡れた泥と水溜りは、門下生たちの足元を汚していた。


「ひ、悲鳴だ! 捨て石の崖の底で、誰か死んでいるぞ!」


 早朝の静寂を切り裂くように、下級弟子の絶叫が響き渡った。


 門番小屋の前で、夜叉丸はいつものように錆びた薪割り刀を杖代わりにし、泥だらけの地面を箒で掃く演技をしていた。彼の耳に、崖下からの騒ぎが届く。


「杉原健太だ! 健太の死体だ! 首が……首が千切れかかっているぞ!」


「嵐の夜に足を踏み外して落ちたんだ。岩に何度も激突したに違いない。骨がバラバラだ!」


 騒ぎを聞きつけ、鉄剣会の荒くれ者たちが崖際に集まっていく。夜叉丸は前髪の隙間から、冷徹にその光景を観察していた。死体遺棄の工作は完璧だ。喉元の鋭利な刀傷は、崖の花崗岩の角で徹底的に削り潰してある。誰が見ても、泥酔した健太が嵐の夜に足を踏み外し、岩壁に激突しながら落下した「不慮の事故」にしか見えないはずだった。


 だが、事態は夜叉丸の予想を超える方向へと歪み始める。


「どけ! どきやがれ!」


 地響きのような怒声と共に、群衆を押し分けて現れたのは、鉄剣会の幹部であり、残虐無比な巨漢として恐れられる猪俣暴山(いのまた・ぼうざん)だった。身長二メートル近く、体重百五十キロを超えるその体躯は、まるで動く肉の砦。禿げ頭にびっしりと黒い剛毛を生やし、顔には野獣のような凶悪な皺を刻んでいる。腰には革の鞭と、血の滲んだ巨大な肉切り包丁をぶら下げていた。


 暴山は崖下から引き揚げられた健太の無残な遺体を見下ろし、怒りで顔を真っ赤に染めた。


「健太が事故死だと? ふざけるな! 健太の懐にあったはずの、俺たちから預かっていた関所通行税の財布が消えている! これは事故じゃねえ、強盗だ!」


 暴山は周囲を見回し、牙を剥き出しにして吠えた。


「下男どもの仕業に決まっている! あの泥棒猫どもめ、健太が泥酔しているのをいいことに、金を奪うために崖から突き落としやがったんだ!」


「しかし、暴山様、下男たちにそんな度胸が……」


「うるせえ! 下男部屋のゴミどもを全員引きずり出せ! 吐くまで叩きのめしてやる!」


 暴山の命令により、鉄剣会の衛兵たちが「雑役の下男部屋」へと乱暴に踏み込んでいった。怯え、震える最底辺の使役労働者たちが、泥だらけの「外門練武場」へと次々に引きずり出されていく。


 その中に、まだ十五歳にも満たない雑役の少年、新之助の姿があった。新之助は、普段から夜叉丸を「兄貴」と慕い、自分が虐められて得た僅かな握り飯を分けてくれる、純粋で心優しい少年だった。彼の鼻筋には一本の傷があり、その大きな澄んだ瞳は恐怖に泳いでいた。


「おい、このガキが一番怪しい! 健太の部屋の近くをうろついていたのを見たぞ!」


 衛兵の一人が、新之助の細い腕を掴んで暴山の前に突き出した。新之助は泥の上に膝をつき、必死に頭を振った。


「ち、違います! 僕はただ、厨房の薪を運んでいただけです! 盗みなんて、健太様の死なんて、何も知りません!」


 新之助は涙を流して必死に抗弁したが、暴山は耳を貸さなかった。その醜悪な顔にサディスティックな笑みが浮かぶ。


「嘘を吐くな、泥棒のガキめ! 体で覚えさせてやりゃあ、すぐに本当のことを吐く!」


 暴山は新之助の細い体を練武場の木柱に強引に縛り付けると、腰から鋼線が編み込まれた特製の拷問鞭を引き抜いた。ビシィッ! と空気を切り裂く鋭い音が響き、新之助の粗末な着物が破れ、背中に赤い血の筋が走った。


「ああっ……! 痛い! 痛いよお!」


 新之助の悲鳴が、青空の下に虚しく響き渡る。


「吐け! 金はどこへ隠した! 誰が健太を突き落とした!」


 ビシィッ! ビシィッ! と容赦のない鞭が何度も新之助の小さな体を打ち据える。新之助の皮膚が裂け、鮮血が飛び散り、砂利を赤く染めていく。下男部屋の他の奴隷たちは、恐怖のあまり目を背け、ただガタガタと震えることしかできなかった。


(新之助……)


 門番小屋の前に立ち尽くす夜叉丸の胸の中で、凄絶な殺意が爆発しかけていた。彼の指先が、杖代わりに握っている薪割り刀の柄に、白くなるほど力を込める。今、ここで刀を抜けば、この場にいる暴山も衛兵たちも、一瞬で無音の刃の錆にできる。だが、それをすれば、天照宗を実質的に支配する新宗主・柳生宗玄(やぎゅう・そうげん)に「隠れた達人」の存在が知れ渡る。そうなれば、自分だけでなく、琴音やよね婆さん、そして下男たち全員が、逆賊として根絶やしにされるだろう。


(まだだ……まだ、正体を明かすわけにはいかない。力ではなく、智謀で救うしかない)


 夜叉丸は、自らのプライドを完全に粉砕し、脳内の殺意を氷の奥深くに封じ込めた。


「あ、あ、あああ……!」


 夜叉丸は、怯えきった悲鳴を上げながら、錆びた薪割り刀を杖にして、泥濘の中に倒れ込んだ。そして、砕けた右足を引きずりながら、砂利の上を這い進み始めた。「ゴキ、ゴキ」と、変形した骨が擦れ合う痛々しい音が響く。彼は泥まみれになりながら、暴山の足元へと這い寄った。


「お、お許しください、暴山様! 新之助は、本当に何も知りませぬ!」


 夜叉丸は「視線誘導の卑屈笑い」を起動した。泥だらけの顔に涙と鼻水を流し、怯え震えながら、わざと自分の「不自然に変形し、化膿しかけている右足」を暴山の目の前に晒し、自らの怯えきった顔に暴山の視線を釘付けにした。手元の筋肉の動きや、刀を握る指先のタコから意識を逸らすための、極限の演技。


「この子は、ただの臆病な雑役でございます! 健太様のようなお強いお方を、崖から突き落とすなど、天地がひっくり返ってもできませぬ!」


「うるせえ、足の不自由なゴミめ! すっこんでろ!」


 暴山は夜叉丸の背中を、泥だらけの重いブーツで容赦なく蹴り飛ばした。ドガッ! という鈍い衝撃が夜叉丸の背骨を襲い、彼は砂利の上を数メートルも転がった。背中の打撲傷から内出血が広がり、激しい痛みが走る。喉の奥から鉄の味が競り上がってくる。彼は激しく咳き込み、泥を吐き出しながらも、再び這いつくばって暴山の足元に縋り付いた。


「お、お怒りはごもっともでございます! ですから、どうか、これをお受け取りください!」


 夜叉丸は震える手で、自らの懐から、今日一日の唯一の食料である、硬く薄汚れた「干し飯」の塊を差し出した。


「私の、私の今日の昼飯でございます! これを差し上げます! ですから、どうか……どうか新之助の命だけは、お助けくださいぃぃ!」


 暴山は夜叉丸の差し出した干し飯を泥の中に踏みにじり、「今夜までに犯人が出なければ、このガキを大山門に吊るし首にする」と宣告する。


「がははは! おい、見ろよ! このゴミ門番、俺に泥だらけの干し飯を差し出しやがったぞ! こんな泥だらけのゴミが、健太の命と盗まれた金の代わりになるかよ、ええ!?」


 周囲の衛兵たちも、一斉に下劣な嘲笑を上げた。暴山の重いブーツが干し飯をぐりぐりと踏みつぶし、泥水と同化させていく。夜叉丸は泥の中に顔を押し付けたまま、ただガタガタと震え、涙を流すことしかできなかった。


「今夜までに犯人が出なければ、あるいは盗まれた金が戻らなければ……明日の朝、このガキを大山門に吊るし首にする!」


 暴山の冷酷な宣告が、青空の下に響き渡った。新之助は血まみれのまま意識を失いかけており、だらりと頭を垂れている。暴山は鞭を腰に戻し、部下たちを引き連れて練武場を去っていった。


 砂利の上に這いつくばったままの夜叉丸。泥水と、踏みにじられた干し飯の残骸が、彼の顔のすぐ横にあった。


「夜叉丸兄貴……ごめん、なさい……」


 木柱に縛られたままの新之助が、微かな声で、自分をかばって蹴られた夜叉丸を気遣い、涙を流した。


 夜叉丸はゆっくりと頭を上げた。泥に濡れた前髪の隙間から覗くその瞳には、先ほどまでの卑屈な怯えなど、微塵も残っていなかった。深淵の底に眠る、極限まで冷え切った、絶対の死刑執行人の瞳。


(猪俣暴山――)


 夜叉丸は心の中で、冷酷にその名前を復讐のリストの最上部へと書き加えた。


(今夜、お前を無音の地獄へ送ってやる)


 彼の手が、泥にまみれた錆びた薪割り刀の柄を、静かに、だが決して離さぬように握りしめた。

HẾT CHƯƠNG

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