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無音の最初の一閃

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バタン! と、小屋の粗末な扉が乱暴に押し開けられ、冷たい雨風と共に、松明を持った男の影が入り込んできた。


「おい、夜叉丸! 生きてるか死んでるか吐き出しやがれ!」


 怒鳴り込んできたのは、大山門の直接の監督官である鬼瓦権三(おにがわら・ごんぞう)だった。鬼瓦のような醜悪な顔を松明の赤い光に照らし、だらしなく太った体躯を揺らしながら、部屋中に立ち込める強烈な悪臭に鼻をひくつかせる。


「くせえ! 肥水まみれの犬め、死に損ないの分際で部屋を汚しやがって!」


 夜叉丸は瞬時に、汚物まみれのボロ布を頭から被り、藁布団の上でガタガタと震え上がってみせた。口元に溜まっていた黒い血を、ボロ布の裏側で密かに拭い去る。先ほど『無音剣譜・上巻』の運気経路を試した際、砕けた右足の経絡に無理やり気を通したことで生じた喀血――その血の匂いを、真壁俊介らに浴びせられた汚物の強烈な悪臭が覆い隠してくれたのは、皮肉な幸運だった。


「ご、権三様……! 申し訳、ございませぬ……! 寒さが骨に染み、動けずにおりました……!」


 夜叉丸は怯えきった声を出し、泥だらけの床に額を擦りつけた。その卑屈な姿を見下ろし、権三は不愉快そうに舌打ちをする。


「怠け者の言い訳はいらん! 門番の分際で居眠りとはいい度胸だ。これで頭を冷やしやがれ!」


 権三は足元にあった水桶を蹴り上げ、冷たい雨水を夜叉丸の頭から容赦なく浴びせた。さらに、手にした木刀で夜叉丸の背中や肩を容赦なく殴打する。ゴツッ、ゴツッという鈍い音が小屋の中に響き渡る。夜叉丸は一切の抵抗を見せず、ただ背中を丸めて殴打を受け止め、涙を流して命乞いをする「哀れな障害者」を完璧に演じ続けた。


「ひいいっ! お許しを、お許しください、権三様! 二度と居眠りはいたしませぬ!」


「ふん、ゴミめが。今夜は大山門・夜間外出禁止令(おおやもん・やかんがいしゅつきんしれい)が出ている。一歩でも外に出たら、その不自由な足を完全に叩き切って崖に放り投げてやるからな!」


 権三は吐き捨てるように言うと、松明を翻して小屋を出て行った。乱暴に閉められた扉の隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。


 ……静寂が戻った瞬間、夜叉丸の身体から震えがピタリと止まった。泥と冷水に濡れた顔をゆっくりと上げ、前髪の隙間から覗くその瞳には、先ほどまでの怯えなど微塵もない、極限まで研ぎ澄まされた冷徹な光が宿っていた。


(杉原健太……まずは、お前からだ)


 夜叉丸は静かに立ち上がった。右足の砕けた骨が悲鳴を上げるが、彼は表情一つ変えない。床板を外し、隠し空洞から錆びた薪割り刀を取り出す。昼間は杖代わりに使っているその農具は、夜間、その錆びた外殻をスライドさせることで、内部に隠された伝説の吸音金属「天照黒鋼」の黒い刀身を露わにする。


 彼は小屋の窓から外の様子を窺った。嵐の雨はさらに激しさを増し、視界を遮っている。この悪天候こそが、夜間外出禁止令を逆手に取るための最高の友だった。


 夜叉丸は音もなく小屋を抜け出した。大山門の周囲には鋭い砂利が敷き詰められており、普通に歩けば必ず石同士が擦れ合う音が響く。しかし、夜叉丸は「砂利道歩行術(じゃりみちほこうじゅつ)」を用いた。不自由な右足を完全に脱力させ、残された左足の親指一箇所に全体重を静かに乗せる。滑るように移動するその足元からは、砂利の音一つ聞こえない。嵐の豪雨と暴風が、彼の極限の無音歩行を完全に闇へと同化させていた。


 大山門のすぐ外側、底の見えない暗黒が広がる「捨て石の崖(すていしのがけ)」。


 その崖際に、一人の男が立っていた。昼間、真壁の腰巾着として夜叉丸に汚物を浴びせた杉原健太だ。彼は夜間巡回の当番だったが、この嵐の中、酒の入った徳利を片手に、寒さを凌ぐために崖際で用を足していた。


「ちっ、こんな嵐の夜に見回りなんてやってられるかよ。俊介の野郎、自分は奥の院で温かい酒を飲んでやがるくせに……」


 杉原はぶつぶつと不満を漏らしながら、泥酔した頭で崖下を見下ろしていた。彼には、自分の背後から音もなく近づく死神の気配など、万に一つも気づく由はなかった。


 夜叉丸は、杉原の背後三歩の距離まで肉薄していた。雨水が般若の仮面のような彼の冷酷な顔を伝い落ちる。右足は寒氷呼吸法によって一時的に痛みを遮断され、氷のように冷たくなっている。左足に全ての重心を置き、薪割り刀の柄を静かに握りしめた。


(無音の太刀――)


 夜叉丸は息を完全に吐き出し、心拍数を極限まで落とした。手首を特定の角度で旋回させ、空気の抵抗を物理的にゼロにする軌道を描く。


 抜刀。


 一閃。空気を切り裂く「ヒュッ」という風切り音すら、一切しなかった。ただ、刃が通過した軌道上の雨粒と空気の埃が、一瞬だけ真空の気流に吸い込まれるように不気味に歪んだ。音を喰う天照黒鋼の特性と、無音剣譜の極意が融合した、完全なる真空の斬撃。


 杉原健太は、自分が斬られたことすら気づかなかった。首元に冷たい感覚が一瞬走ったと思った次の瞬間、彼の視界は不自然に回転し、地面の泥濘が目の前に迫ってきた。


 ドサリ、と頭部が砂利の上に落ち、続いて首を失った胴体が崩れ落ちる。噴き出す鮮血は、激しい嵐の雨によって瞬時に薄められ、泥水と共に崖下へと流れ落ちていった。


 夜叉丸は刀身に付着した血を雨水で洗い流し、即座に「死体遺棄の隠蔽規則(したいいきのいんぺいきそく)」に則った工作を開始した。この暗殺を、単なる「嵐の夜に足を踏み外した転落事故」に見せかけねばならない。


 彼は杉原の生首を拾い上げ、その切り口(喉元の刀傷)を、崖際に突き出た鋭利な花崗岩の角に何度も強く擦りつけた。肉を引き裂き、骨を砕き、刃物による綺麗な切創を、岩に激突した際の「凄絶な裂傷」へと完全に偽装する。胴体の切り口にも同様の工作を施した後、夜叉丸は杉原の遺体と生首を、底の見えない「捨て石の崖」の深淵へと静かに突き落とした。


 ゴロゴロと音を立てて闇に消えていく死体。これで翌朝、彼が発見されたとしても、夜間外出禁止令を破って泥酔し、崖から足を踏み外して転落死したと処理されるはずだった。完璧な完全犯罪の成立に、般若面の下で夜叉丸の唇が微かに歪んだ。


 しかし、その瞬間。


 荒れ狂う嵐の雨音の奥、深い霧が立ち込める大山門の暗闇から――カサリ、と、濡れた砂利が擦れ合う、極めて微細で不自然な足音が聞こえた。


 夜叉丸の身体が、氷のように静止した。

HẾT CHƯƠNG

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