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影の楔

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床板の隙間から這い上がってきたのは、煤と泥にまみれた小柄な影――雑役の少年、新之助だった。息を切らし、恐怖に肩を震わせながら、少年は這いつくばったまま夜叉丸の足元にしがみついた。

「夜叉丸兄貴……! 大変だ、早く逃げてくれ……!」

 夜叉丸は懐に偽の密通書を素早く隠し、いつもの「無能な門番」の顔へと一瞬で切り替えた。怯えたように目を泳がせ、震える手で新之助の肩を支える。

「し、新之助……? どうしたんだ、こんな夜更けに。十兵衛様の衛兵たちに見つかったら、ただじゃ済まないぞ」

「そんなこと言ってる場合じゃないんだ! さっき、裏の物置の影で衛兵たちが話してるのを聞いちまった……。鉄剣会の奴らが、兄貴の門番小屋の周囲に『毒針の罠』を仕掛けてる! 一歩でも外に出たら、目に見えない細い鋼線に引っかかって、毒針が飛び出す仕組みだ。十兵衛の旦那が、暗殺者をあぶり出すために仕掛けさせたんだ!」

 新之助の小さな声は、恐怖で細かく震えていた。自分の身が危険に晒されるのも顧みず、夜叉丸を救うためだけに、冷たい床下の排水溝を這って知らせに来たのだ。その純粋な忠誠心が、夜叉丸の胸を鋭く締め付ける。

(新之助……。お前をこんな泥濘に巻き込むわけにはいかない)

 夜叉丸は、新之助の泥だらけの頭を優しく撫でた。その指先には、いつもの卑屈な門番の脱力はなく、静かで揺るぎない温もりがあった。

「教えてくれてありがとう、新之助。でも、大丈夫だ。俺はただの足の不自由な門番だ。小屋から出なければ、罠に引っかかることもない。お前は早く下男部屋に戻るんだ。見つかれば、今度こそ暴山に殺されてしまう」

「でも、兄貴……!」

「いいから、行くんだ。ほら、よね婆さんから貰った干し飯だ。これを持って、静かに床下を戻れ」

 夜叉丸は懐から、よね婆さんが密かに残してくれた干し飯の塊を新之助の手に握らせた。新之助は夜叉丸の静かな眼光に圧されるように頷き、名残惜しそうに再び床下の闇へと消えていった。床板が音もなく閉じられ、小屋の中に再び張り詰めた静寂が戻る。


 新之助が去った瞬間、夜叉丸の瞳から卑屈な光が完全に消え失せた。深淵のような冷徹な憎悪が、その双眸に宿る。

(荒川十兵衛……。やはり、ただの用心棒ではないな。大山門を完全に封鎖した上で、俺の小屋の周囲に毒針の罠まで張り巡らせるとは)

 だが、その徹底した包囲網こそが、夜叉丸の「離間計」を完成させるための最高の舞台でもあった。

 夜叉丸は、奥の院の小間使いであるお咲から、洗濯物の受け渡し時に極秘裏に渡されていた手書きのメモを取り出した。そこには、新宗主・柳生宗玄が今夜、奥の院の最深部で武林盟の使者と密会する詳細なスケジュールが記されていた。そして、外門統括である堂本剛蔵もまた、その会議に出席するため、深夜に私室を留守にすることが確定していた。

(堂本が部屋を空ける時間は、四半刻(約三十分)。この隙に、偽の密通書を奴の引き出しの最深部に滑り込ませる)

 問題は、小屋を取り囲む十兵衛の衛兵たちと、新之助が警告してくれた毒針の罠だった。夜叉丸は、床の泥の中に深く突き立てていた「錆びた薪割り刀」を引き抜いた。一見すれば刃こぼれした鉄くずだが、その内部には衝撃を完全に吸収する「天照黒鋼」の刀身が隠されている。


 夜叉丸は「天照心経・静地」の内功を起動した。左足の親指から大地の微細な「気」を吸い上げ、薪割り刀の黒鋼を通じて、小屋の周囲の振動を脳内へと直接伝達させる。感覚の覚醒――振動感知「地耳」の領域だ。

 目を閉じると、小屋の周囲の闇が、大地の振動を通じて三次元の立体地図として脳内に浮かび上がった。風に揺れる草木の擦れ合い、衛兵たちの規則正しい呼吸音。そして、小屋の周囲の地面から、わずかに浮いた位置に張られた、極細の鋼線の「張り」が、空気の微細な対流の乱れとして脳裏に白い線となって浮かび上がった。

(東側に三本、南側の窓の下に二本。すべて、草の根や石の隙間に巧妙に固定されている。だが、地耳の目からは逃れられない)

 夜叉丸は「無音の歩行」を開始した。不自由な右足を完全に脱力させ、残された左足のバネだけで、滑るように窓枠へと移動する。砂利を踏みしめる音も、衣擦れの音も、一切発生しない。夜霧が立ち込める中、夜叉丸は窓から音もなく這い出した。脳裏の地図に従い、毒針のワイヤーのわずかな隙間を、自らの変形した右足をミリ単位でコントロールしながら、完璧にすり抜けていく。一歩進むたびに、右足の砕けた骨が内側から肉を裂くように軋むが、彼は「寒氷呼吸法」で痛覚神経を強引に麻痺させ、表情一つ変えずに進んだ。


 罠の包囲網を突破した夜叉丸は、大山門の影に潜んだ。十兵衛の哨戒網を抜けるため、彼は事前に「買収された穴」を用意していた。

 大山門の裏手の暗闇に、赤い鼻をした下級衛兵、甚平が立っていた。寒さに震えながら、周囲をそわそわと見回している。夜叉丸は影から音もなく近づき、甚平の背後に立った。

「甚平様……。お約束の、闇市場の特製安酒『霧隠れ』にございます」

 甚平は飛び上がるように驚き、慌てて振り返った。般若面を懐に隠し、みすぼらしい門番の姿をした夜叉丸が、泥だらけの手で一徳利の濁り酒を差し出している。甚平はその徳利をひったくるように奪い取り、目を輝かせた。

「お、おお! 夜叉丸か! よく持ってきてくれた。この寒さじゃ、酒でもなきゃやってられんからな」

「はい……。十兵衛様の警備は大変厳しゅうございますから。この酒を飲めば、五分間は身体が芯から温まります。その間、裏門の監視を少しだけ緩めていただければ、わたくしめも薪の整理がはかどるのですが……」

 夜叉丸は卑屈な笑みを浮かべ、泥だらけの頭を下げた。甚平は酒の匂いに完全に理性を奪われており、夜叉丸のような障害者が何かを企んでいるとは微塵も疑っていなかった。

「わかってる、わかってる。五分だけだぞ。俺はあっちの物置の影で温まってるからな。十兵衛の旦那に見つかるなよ」

 甚平は徳利を懐に抱え、そそくさと持ち場を離れていった。大山門の防衛ラインに、完璧な「五分間の空白」が生まれた。


 夜叉丸はその空白の瞬間を逃さなかった。再び「無音の歩行」を使い、嵐の霧が立ち込める大山門を抜けて、新宗主たちの本陣である「奥の院」へと侵入した。お咲のメモにあった通り、堂本剛蔵の私邸の周囲は、警備兵が奥の院の会議へと動員されたため、極めて手薄になっていた。

 庭師の吾作が剪定した、不自然なほど大きな植木の死角を利用し、夜叉丸は堂本の私室の窓の下へと到達した。窓の鍵は、かつて義賊の半兵衛から教わった「特製の針金」を使い、音もなく解錠した。錆びた窓枠が軋む微細な音すらも、薪割り刀の天照黒鋼がその振動を完全に吸い込み、無音のまま隙間を作り出した。


 夜叉丸は音もなく室内に滑り込んだ。

 堂本の私室は、夜叉丸の雨漏りのする小屋とは対極にある、傲慢な豪華さに満ちていた。床には高級な獣皮が敷き詰められ、壁には金の装飾が施された屏風が立てかけられている。空気中には、鉄剣会の荒くれ者たちが昼間に食い散らかした焼き肉の脂臭さと、強烈な安酒の匂いが澱んでいた。その下品な豪華さが、夜叉丸の復讐心をさらに冷酷に研ぎ澄ます。

(堂本剛蔵……。三年前、俺の足を鉄槌で粉砕し、師父の門派を蹂躙した男。お前の破滅は、この一枚の紙から始まる)

 夜叉丸は、堂本の重厚な黒檀の机へと近づいた。引き出しの鍵を針金で音もなく開け、その最深部、重要書類が保管されている二重底の隙間を探る。指先の微細な感覚だけで、夜叉丸は黒川長老の筆跡を完璧に模写した「偽の密通書」を、最も自然に発見される位置へと滑り込ませた。

 黒川が鉄剣会を切り捨て、製鉄利権を独占売却しようとしていると記された偽書。これが堂本の目に触れた瞬間、天照宗を支配する二つの巨大な牙は、互いの喉元を食い破るために激突するだろう。敵の心臓部に、破滅の楔が完全に打ち込まれた。


 工作を終え、夜叉丸が窓から脱出しようとした、まさにその瞬間だった。

 床板に突き立てていた薪割り刀を通じて、地耳が、大地の異様な振動を捉えた。

 ――ズ、ン。ズ、ン。

 それは、十兵衛の衛兵たちの規則正しい足音ではない。百五十キロを超える圧倒的な巨体が、怒りに任せて地面を踏みしめる、あの獰猛な肉食獣の足音だった。堂本剛蔵が、予定よりも大幅に早く、奥の院の会議を切り上げて戻ってきたのだ。歩数はすでに、私邸の廊下のすぐ手前まで迫っている。


 廊下の奥から、堂本剛蔵自身の重い足音が響き渡る。脱出する時間は、もう一秒もない。正面から出れば確実に鉢合わせる。夜叉丸は、自らの動かぬ右足を左足のバネだけで強引に跳ね上げ、梁(鴨居)のわずかな影へと飛び上がった。天照黒鋼の薪割り刀を梁の隙間に突き立てて衝撃を完全に殺し、夜叉丸は「死体偽装呼吸」を起動して、心拍と呼吸を完全に停止させた。

 ギィ……と、私室の重い扉が乱暴に押し開けられ、松明の赤い光が室内に差し込んできた。

HẾT CHƯƠNG

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