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謀略の偽書

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十兵衛の指先が、錆びた薪割り刀の柄頭――二重底のラッチが隠された場所に、ゆっくりと触れようとしていた。


 その冷徹な指先が鉄の凹凸をなぞる。夜叉丸の喉の奥が、凍りつくような緊張感で張り詰めた。もし、あと一厘でも深く押し込まれれば、隠された天照黒鋼の刀身が滑り出し、その異様な美しさと吸音特性が白日の下に晒される。そうなれば、この大山門で繰り広げられてきた連続不審死の犯人が、目の前の「這いずり回る犬」であることは一瞬で看破されるだろう。


「……十兵衛、様……!」


 夜叉丸は、自らの喉を締め上げるような悲鳴を上げながら、激しく泥の床に頭を打ち付けた。蹴り砕かれた右膝の骨同士が、包帯の内側で不気味な軋み音を立てる。激痛は脳髄を焼き尽くすほど本物だったが、彼はその痛みをすべて、卑屈な道化の叫びへと変換した。


「どうか、どうかその鉄くずだけはお残しくだせえ! それがないと、わたくしめは立ち上がることすらできねえのです! 薪割りも、門番の仕事も、それがないと……!」


 十兵衛は眉をひそめ、手の中の錆びた柄を鋭く見つめたまま、低く問い詰める。


「黙れ。貴様、この刀の重心の偏りはなんだ。ただの薪割り用にしては、手元があまりにも重すぎる。刃身の錆に対して、柄の内部の質量が不自然極まりない」


「そ、それは……!」


 夜叉丸は泥水を顔に浴びながら、涙と鼻水にまみれた顔を上げた。前髪の隙間から覗く瞳は、恐怖に完全に怯えきっている。


「わたくしめの、この動かねえ右足のせいでございます! 三年前、堂本様に足を砕かれて以来、薪を割る際、どうしても右足で踏ん張ることができねえのです。左手一本で斧を支え、全身の体重を乗せねばならず……。それで、柄の底を削り、中に鍛冶場の鉄くずや鉛の端切れを無理やり詰め込んで、手元を重くしてあるのです! そうしねえと、刃が丸太に当たった瞬間に、遠心力で刀が手から吹っ飛んでちまうのでございます!」


 それは、物理的な力学と、身体障害者の苦肉の策に基づいた完璧な嘘だった。薪を割る際、軸足が使えない者が一本の刃を制御するためには、手元の質量を増やして重心を近くに置くのは、泥臭いながらも極めて理にかなった工夫である。


 十兵衛は、無精髭を撫でながら、手の中の薪割り刀を再び軽く上下に振った。確かに、名剣の洗練された重心バランスとは程遠い、歪で、ただ手元だけが重い不恰好な重量感だ。さらに、床に転がった際に覗いた刀身は、赤錆びだらけで刃こぼれした鉄くずに過ぎなかった。


「……くだらん知恵を」


 十兵衛は吐き捨てるように言うと、薪割り刀を夜叉丸のすぐ横の泥濘へと無造作に投げ捨てた。鉄が泥に沈む鈍い音が響く。十兵衛にとって、目の前の跛行の男は、自らのブーツを踏む価値すらない、骨の髄まで壊れ果てた「ゴミ」だった。武人としてのプライドが、それ以上の関心を失わせたのだ。


「巡回を強化しろ。ネズミ一匹、この門から出すな。暗殺者は必ず、この閉ざされた門の内側で焦れているはずだ」


 十兵衛は衛兵たちに冷酷に命令し、二度と夜叉丸を見ることなく、大山門の衛兵所へと去っていった。木扉がバタンと閉まり、小屋の中に不気味な静寂が戻る。


 十兵衛が去った瞬間、夜叉丸の身体から、先ほどまでの怯えと震えがピタリと消失した。泥にまみれた顔をゆっくりと上げ、前髪の隙間から覗くその瞳には、深淵の底に燃え盛る、極限まで冷え切った憎悪が宿っていた。


(荒川十兵衛……。やはり、これまでの荒くれ者とは違う。一瞬の油断も許されない)


 夜叉丸は泥の中に転がった薪割り刀を引き寄せ、その錆びた柄を愛おしそうに撫でた。十兵衛のブーツによって踏み砕かれた右膝の骨が、内側から激しく脈打ち、熱い血が包帯を赤く染めていく。だが、彼は表情一つ変えず、静かに息を吐き出した。


 現在、大山門の周囲は十兵衛の構築した軍隊式の哨戒網によって完璧に包囲されている。夜間に物理的に外出することは、この壊死しかけた足では不可能に近い。もし強行すれば、その瞬間に「般若面の鬼」の正体が露呈し、すべてが破滅する。


(外に出られないのであれば、敵を内部から自滅させるまで)


 夜叉丸の脳裏で、冷徹な計算が始まった。彼が目をつけたのは、天照宗を支配する新支配者「鉄剣会」の頭領・堂本剛蔵と、裏でその製鉄技術を売却して私腹を肥やしている長老・黒川巌門の間の、極めて脆い利権の亀裂だった。


 堂本は圧倒的な武力と暴力を誇るが、知性に欠け、常に黒川に出し抜かれることを恐れている。一方、黒川は狡猾な知略家であり、鉄剣会を単なる「使い捨ての盾」としか見ていない。この二人の間に、決定的な不信の「楔」を打ち込めば、鉄壁の包囲網は内部から瓦解する。


 夜叉丸は、床板を静かに外し、その下にある「門番小屋の床下の隠し空洞」へと手を伸ばした。冷たい土の底から引き出したのは、お咲が以前、黒川長老の私室から命がけで回収した、黒川の直筆のメモ書きだった。


 そして、夜叉丸は懐から、お蘭を通じて闇市場から仕入れた、古い年代物の羊皮紙を取り出した。それは、数年前から交わされていた古い密約であるかのように偽装するための最適な素材だった。


 深夜。門番小屋の窓の外では、十兵衛の衛兵たちが松明を掲げ、砂利を踏みしめる音が規則正しく響いている。夜叉丸は、囲炉裏の僅かな炭火の残り火だけを頼りに、一本の極細の筆を手に取った。


「天照心経・静地、運気――」


 夜叉丸は、残された五体満足な左足の親指から大地の気を静かに吸い上げ、手首の微細な筋肉を完全に制御した。黒川巌門の筆跡は、まるで毒蛇が泥の上をのたうち回るような、独特のうねりと、文字の終端に不自然な筆圧の「澱み」を持っていた。夜叉丸は、かつて天才剣士として培った圧倒的な運筆の制御力を使い、黒川のその「運気の癖」を完璧に模写し始めた。


 一筆、一筆、呼吸を止め、暗闇の中で文字を刻んでいく。偽造が僅かでも不自然であれば、黒川の鋭い狐眼や、十兵衛の軍人としての直感に看破され、その瞬間に自分の命は潰える。額から冷たい汗が滴り落ち、泥だらけの床に染み込んでいくが、夜叉丸の筆先は一厘の狂いもなく動き続けた。


 書状の内容は、黒川長老が山麓の別の邪派勢力に対し、天照宗の製鉄秘伝「天照鋼」の配合比率を独占売却する密約を交わし、さらにその邪魔者となる「鉄剣会(堂本剛蔵)」を『用済みの木偶(でく)』として近々処分することを約束する、という凄絶な「偽の密通書」だった。


 書き終えた後、夜叉丸は囲炉裏の木酢液と煤を指先で混ぜ合わせ、偽書の表面に薄く擦りつけた。これにより、新しい墨の匂いを完全に消臭し、数年前から引き出しの奥底に眠っていたかのような、古びた質感と匂いを物理的に偽装した。


 完璧な「謀略の偽書」が、今、完成した。


 これを堂本剛蔵の私室に滑り込ませれば、鉄剣会と黒川派閥は互いに裏切りを疑い、血で血を洗う殺し合いを始めるだろう。夜叉丸は、乾きかけた偽書を見つめながら、般若面の下で冷酷な笑みを浮かべた。


 ――その時だった。


 静寂に包まれた床板の底から、地耳を通じて、微かな、だが確かに規則的な振動が伝わってきた。


 それは、小屋を囲む十兵衛の衛兵たちの重い足音ではない。もっと低く、這うような、そして自分に対して「警戒を解いた」極めて親しい者の、泥を這うリズムだった。


 夜叉丸の身体が、一瞬にして氷のように静止した。床下の狭い排水通路を通り、何者かが門番小屋の真下へと近づいてくる。その小さな息遣いが、床板の隙間から、夜叉丸の耳へと届いた。

HẾT CHƯƠNG

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