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鉄壁の包囲網

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嵐が去った後の大山門は、不気味なほどに静まり返っていた。薄明の霧が濡れた岩肌にまとわりつき、門番小屋の隙間から這い入る冷気が、榊夜叉丸の全身を容赦なく冷やしていく。


 夜叉丸は、粗末な藁布団の上で荒い呼吸を繰り返していた。肺腑からせり上がる鉄の味を、泥まみれの喉奥で強引に飲み下すたびに、右膝の粉砕された骨が包帯の内側で悲鳴を上げる。お蘭から施された「泥染めの包帯」の冷却効果は激痛を一時的に麻痺させているものの、その代償として右足の経絡は急速に壊死へと向かっていた。すでに、膝から下は冷たい丸太のように感覚を失いつつある。


(まだ……ここで倒れるわけにはいかない)


 夜叉丸は痛みに震える腕で床板を音もなく外し、その床下の隠し空洞に、夕べ「鳴らずの谷」で「闇鴉の梟」から奪い取った「秘密製鉄炉の地図の断片」を収めた。血と煤に汚れたその革の端切れは、天照宗を支配する裏切り者たちを内部から引き裂くための、最良の「毒」となるはずだった。


 ふと、夜叉丸の鋭敏な目が床の泥の一部に留まった。梟の放った毒針が突き刺さり、泥を黒く焦がした痕跡――「梟の毒針の痕跡」が、かすかに残っている。巳之助のような鋭い密偵がここを捜索すれば、この一滴の毒の残香すらも見逃さないだろう。


 夜叉丸は這いつくばりながら、囲炉裏の冷え切った灰と大地の土を掴み、その黒い染みの上に擦りつけた。よね婆さんの特製薬膳スープの強烈な薬草の香りと混ざり合い、不審な酸の匂いは湿った泥の底へと沈んでいく。完璧な隠蔽工作。だが、その作業を終えた瞬間、山門全体を揺らすように、重々しい鐘の音が連打された。


 ゴォォォン、ゴォォォン、ゴォォォン……。


 夜明け前の深い霧を切り裂くその音は、門派の非常事態を告げる響きだった。


「山門戒厳令だ! 全員、持ち場を離れるな!」

「不審な暗殺者が内部に潜んでいる! 巡回を通常の三倍に増やせ!」


 外門を支配する鉄剣会の荒くれ者たちの怒号が響き渡る。猪俣暴山に続き、黒川長老の放った密偵である梟までもが消息を絶ったのだ。黒川長老が「手練れの暗殺者」の存在を確信し、大山門周辺の完全封鎖を命じたのは明白だった。


 そして、大山門の防衛ラインの新たな指揮官として、一人の男が着任した。――元侍の用心棒、荒川十兵衛。


 すり切れた灰色の袴を纏い、無精髭を蓄えた中年の男。その佇まいは、戦場を幾度も生き抜いてきたプロの軍人そのものだった。腰には、数多の首を斬り落としてきた重鋼剣「大般若」が不気味に鎮座している。十兵衛が構築した巡回パターンは、これまでの鉄剣会の荒くれ者たちのそれとは一線を画していた。無駄のない隊列、死角のない交代時間。彼らは大山門の唯一の出入り口を完全に封鎖し、その監視の矛先は、山門の脇にある、雨漏りのする狭い門番小屋へと向けられた。


「……中にいるのは、足の不自由な門番だけか」


 十兵衛の冷徹な声が、小屋の外から聞こえた。夜叉丸は即座に「雑役・跛行の門番」の演技へと精神を切り替えた。全身の筋肉を極限まで弛緩させ、怯えた犬の呼吸を作る。心拍数を「心音同調」で制御し、自らの内功を「天照心経・静地」によって地面へと完全に逃がした。いまや彼の体内には、武芸者としての気の澱みは一切存在しない。


 バタン! と、小屋の粗末な木扉が乱暴に押し開けられた。


 十兵衛が、数人の衛兵を引き連れて這入ってくる。小屋の中に漂う、湿気とこぼれたスープの薬草の匂い、そして微かな血の残香に、十兵衛の鼻腔がピクリと動いた。その鋭い目は、床の泥や、夜叉丸の足元の包帯を執拗に観察している。


「汚い小屋だな。お前がここの門番か」


 十兵衛の氷のような視線が、藁布団の上で震える夜叉丸を射抜く。夜叉丸は「鉄剣会の掟・「犬の服従」」に従い、即座に泥だらけの床に両膝をついた。右足の粉砕された骨が悲鳴を上げ、凄絶な激痛が走るが、彼はその激痛を「怯えの震え」へと変換し、涙を流して命乞いを始めた。


「ひっ、ひぃぃ……! じゅ、十兵衛様……! どうか、どうか命ばかりは……! わたくしめは、ただのしがない門番にございます!」


 泥の中に額を擦りつけ、十兵衛の汚れた革ブーツの先を見つめる。その姿は、誰もが「完全に精神まで破壊された廃人」と確信するに十分な無様さであった。十兵衛は鼻で笑い、夜叉丸の前に立ちはだかった。


「おい、門番。昨夜、不審な音を聞かなかったか? あるいは、怪しい影を見なかったか?」

「な、何も聞いておりませぬ……! 嵐の雨音が酷く、わたくしめは怖くて、ずっと布団の中で震えておりました……! 昨夜、十兵衛様が着任されたという噂を聞き、その威風に怯えていただけにございます……!」


 夜叉丸は「視線誘導の卑屈笑い」を使い、わざと十兵衛のブーツの泥を自分の汚れた袖で拭い始めた。十兵衛の視線を、自分の不自由な右足と、怯えきった顔に釘付けにするための心理工作。十兵衛は、そのあまりの卑屈さに嫌悪感を抱きながらも、夜叉丸の手元に鋭い目を向けた。


「手をみせろ」


 十兵衛が夜叉丸の手首を乱暴に掴み、その手のひらを強引に裏返した。剣士の証である「剣ダコ」を探る尋問。夜叉丸の手のひらには、確かに固いタコが存在していた。十兵衛の目が一瞬にして鋭くなる。


「ほう……このタコ、ただの雑役のものにしては、いささか位置が良すぎるな。剣の柄を握り慣れたタコに見えるが?」


 十兵衛の指先が、夜叉丸の親指の付け根のタコをなぞる。夜叉丸は、心臓の鼓動を完全に押し殺しながら、さらに卑屈な声をあげて泣き喚いた。


「ひっ、それは、毎日の過酷な薪割りのせいでございます……! 与作と一緒に、一日に丸太五十本を割るよう暴山様から命じられ、この不自由な右足を踏ん張るために、毎日毎日、斧を握りしめていたからにございます……! 薪割り用のタコにございます、どうかお信じください……!」


 これは「薪割りを利用した重心移動鍛錬」によって出来たタコだったが、夜叉丸はそれを「過酷な奴隷労働の痕跡」として涙ながらに主張した。十兵衛は夜叉丸の体内から「気」の反応が一切検出されないことを確認し、僅かに疑念を和らげた。だが、十兵衛の視線は、壁に立てかけられた「錆びた薪割り刀」へと移った。


「……その薪割り刀、見せてみろ」


 十兵衛が手を伸ばし、薪割り刀を掴んだ。夜叉丸の胸に、冷たい汗が流れる。その刀の内部には、衝撃を完全に吸収する「天照黒鋼」の黒い刀身が隠されている。もし十兵衛が刀を引き抜き、その重量やバランスを確かめれば、一瞬で「名剣」であることが看破される。


 十兵衛が刀の柄に手をかけ、ゆっくりと引き抜こうとした。その瞬間、夜叉丸はわざと体勢を崩し、十兵衛の足元へと倒れ込んだ。


「あ、足が、足がぁぁっ!」


 夜叉丸の身体が十兵衛の腕にぶつかり、十兵衛の手から薪割り刀が滑り落ちた。ガシャリ、と音を立てて床に転がった刀。その衝撃で、みすぼらしい外殻の鞘が僅かにズレ、中から現れたのは、赤錆びだらけの、刃こぼれした無残な鉄の塊だった。夜叉丸は床に何度も頭を打ち付け、血が滲むほどに謝罪した。


「申し訳ございませぬ、申し訳ございませぬ! 十兵衛様のお体に触れてしまうなど、万死に値いたします……!」


 十兵衛は床に転がった錆びだらけの刃を一瞥し、鼻で笑った。


「ふん、ただの鉄くずか。使い物にならん」


 だが、十兵衛の冷酷な目は、まだ完全に曇ってはいなかった。彼は夜叉丸の右足の包帯をじっと見つめ、その不自然な変形を凝視した。


「本当に、その足は動かないのだろうな?」


 次の瞬間、十兵衛は容赦なく、夜叉丸の不自由な右足をその重いブーツで踏みにじり、力任せに蹴り飛ばした。――ゴキ、と、包帯の内側で骨同士が再び激しく噛み合い、砕ける。


「ぎゃああ(あ)あああああああっ!」


 夜叉丸の口から、本物の絶叫が迸った。喉の奥から鮮血が噴き出し、砂利と泥の上にぶちまけられる。銀針による麻痺すらも貫通する、肉体そのものの崩壊。夜叉丸は全身を激しく痙攣させ、白目を剥いて泥の中にのたうち回った。その凄絶な「本物の激痛」と「無力さ」を見て、十兵衛の顔から完全に警戒が消え去った。


「……ただの虫ケラだな。時間の無駄だった。おい、行くぞ」


 十兵衛は汚いものを見るような目で夜叉丸を見下ろし、踵を返して小屋から出て行こうとした。だが、十兵衛は扉の前に立ち止まった。何か引っかかるものがあったのか、彼はゆっくりと振り返り、床に転がっていた「錆びた薪割り刀」を再び拾い上げた。


 十兵衛はその刀を片手で持ち、重心を確かめるように、軽く上下に振った。その瞬間、十兵衛の無精髭に覆われた顔が、不気味に引き締まった。十兵衛の鋭い眼光が、血反吐を吐いて這いつくばる夜叉丸の背中を、無慈悲に射抜いた。

HẾT CHƯƠNG

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