無響の引き鉄
肺腑の奥底から込み上げる鉄の味を、泥まみれの喉奥で強引に飲み下す。一呼吸置くたびに、右膝の砕けた骨が包帯の内側で不気味に軋み、脳髄を直接針で突き刺すような激痛となって全身を駆け巡った。
だが、榊夜叉丸の瞳に宿る冷徹な光は、いささかも揺らいではいなかった。般若面の下、彼の視界はすでに「鳴らずの谷」を支配する白濁とした霧の深淵を捉えている。
大山門の床下から繋がる隠し通路を、夜叉丸は腕の力と左足のバネだけで這い進んできた。右足はすでに、お蘭の調合した「寒氷草」の冷気によって完全に凍りつき、感覚を失った一本の冷たい鉄杭のようになっている。動くたびに骨が肉を削る微細な振動だけが、杖代わりに握りしめた「錆びた薪割り刀」の柄を通じて伝わってくる。
谷の入り口に到達した瞬間、世界のすべての「音」が不自然に消失した。
鳴らずの谷――。古代の隕石落下によって形成されたと言われるこの渓谷は、周囲の壁面を「黒吸石」と呼ばれる多孔質の特殊な黒石に覆われている。風の囁きも、滴る水滴の音も、この石が持つ無数の微細な穴に吸い込まれ、二度と反響することはない。鳥一匹羽ばたかず、獣の足音すらも無に帰す、絶対的静寂の特異点。
常人であれば、この無響の空間に数分佇むだけで三半規管が狂い、平衡感覚を失って転倒するだろう。しかし、動けぬ身体を黒吸石の岩陰に潜めた夜叉丸にとって、この静寂は自らの武技を研ぎ澄ますための最高の間合いだった。
(来たか……)
夜叉丸は「錆びた薪割り刀」の先端を、音もなく黒吸石の泥土へと突き立てた。
内功「天照心経・静地」の波紋が、刀身の「天照黒鋼」を通じて周囲の空間へと拡張される。視覚に頼らず、大地の微細な振動から周囲を捕捉する「地耳」の極地。さらに「寒氷呼吸法」を極限まで深め、自らの心拍数を毎分三十回以下へと引き下げた。体温は周囲の濡れた泥と完全に同調し、生物としての気配は完全に消滅する。いまや夜叉丸は、この無音の谷に転がる一つの岩石と同化していた。
頭上の深い霧の奥から、かすかな空気の「歪み」が伝わってきた。
闇鴉の梟――黒川長老が放った密偵が、巨大な黒マントを翼のように広げ、滑空術「闇鴉飛翔」を用いて音もなく降下してきている。奴は天照宗の門番である夜叉丸が「般若面の鬼」の正体ではないかと疑い、その証拠を掴むために追跡してきたのだ。この鳴らずの谷に逃げ込んだのも、高所からの視覚的優位を活かして暗殺者を逆にあぶり出すためだった。
梟は上空の霧の中を旋回しながら、不気味なカラスのマスクの奥から鋭い視線を地上へと向けていた。だが、熱気も生命の気配も完全に消し去った夜叉丸の位置を、上空から特定することは不可能だった。
焦燥が、梟の心拍を僅かに速めた。その鼓動の乱れを、夜叉丸の「心音同調」が冷徹に捉える。ドクン、ドクンという敵の心音が、夜叉丸の脳内で正確な拍動となって同期していく。
しびれを切らした梟が、マントの隙間から一対の吹き矢を構えた。奴は夜叉丸がこの岩場のどこかに潜んでいると確信し、広範囲に向けて、触れるだけで肉体を腐らせる毒針を盲目的に掃射し始めた。
――シュッ、シュッ、シュッ!
無数の毒針が霧を切り裂いて降り注ぐ。鳴らずの谷の性質上、その風切り音すらも黒吸石に吸い込まれて消え去るが、夜叉丸の「地耳」は、毒針が空気を切り裂くことで生じる微細な「空気圧の揺らぎ」を完全に感知していた。弾道から梟の滑空高度、速度、そして旋回軌道が、夜叉丸の脳内で一本の線として結ばれていく。
(高度三丈、速度は緩やか。次の旋回で、この岩の直上を通る……)
夜叉丸は、錆びた薪割り刀の柄に添えた指先に気を集中させた。外殻の錆びた鞘を僅かにスライドさせ、内部の「天照黒鋼」の漆黒の刀身を露出させる。衝撃を完全に吸収し、摩擦音をゼロにする伝説の刃。
だが、その瞬間、谷底を不規則な熱気流が吹き抜けた。霧が僅かに渦を巻き、滑空する梟の高度が突如として一尺ほど跳ね上がった。風向きの急変。夜叉丸が狙いを定めていた軌道が、物理的に狂わされた。
(――しまっ――)
一瞬の判断の遅れ。夜叉丸は反射的に「真空の一線」を放とうとしたが、手首の角度が風圧によって僅かにズレた。空気の摩擦をゼロにした無音の斬撃が放たれたが、その見えない真空の刃は、梟の肉体を捉える手前で、奴の黒いマントの端を僅かに切り裂くにとどまった。
バサリ、と不自然にマントの羽毛が引きちぎられ、霧の中に舞い散る。無響の谷において、その物理的な「欠損」は、梟にとって致命的な警告となった。頭上の梟が、自らの直下で「真空の歪み」が発生したことに気づき、カラスのマスクを鋭く夜叉丸の潜伏する岩陰へと向けた。吹き矢の筒が、正確に夜叉丸の頭上へと照準を合わせる。
もはや、二度目の失敗は許されない。猶予は一呼吸分もなかった。
夜叉丸は、感覚の消え去った右足を、黒吸石の岩の割れ目へと強引にねじ込んだ。骨折した骨の破片同士が、鈍い音を立てて噛み合う。凄絶な激痛が脳裏を焼き尽くし、喉奥から再び鮮血が噴き出したが、彼はその痛みを自らの運気を限界まで引き上げるための「薪」とした。右足を強固なアンカーとして地面に固定し、残された左足のバネを極限まで圧縮する。
頭上から、梟が毒針を放つために深く息を吸い込んだ。心音同調が、梟の肺が最大に膨らんだ「完全な静止」の瞬間を告げる。
「――天照一刀――」
夜叉丸の左足が爆発的に地面を蹴った。一歩も歩けぬ肉体が、腰の急激な回転力だけで、その場でコマのように超高速旋回する。錆びた薪割り刀から引き抜かれた天照黒鋼の刀身が、大気そのものを削り取るように振り抜かれた。
放たれたのは、極限の長距離必殺技「真空の一線」。
刃が空気を切り裂く摩擦抵抗が、天照黒鋼の吸音特性によって完全にゼロとなる。切り裂かれた大気は、物理的な「真空の溝」となって上空へと走り抜けた。音もなく、光すらも歪めるような見えない衝撃波が、霧を縦に真っ二つに割りながら、急降下してきた梟を直撃する。
――無響。
肉が裂ける音も、骨が砕ける音も、この谷には響かなかった。ただ、上空を滑空していた梟の黒マントごと、奴の両腕と喉元が、見えない真空の刃によって綺麗に両断された。
「……っ、……あ」
声にならない吐息だけを漏らし、梟の身体が糸の切れた凧のように空中できりもみ状態となり、谷底の黒吸石の地面へと叩きつけられた。両腕を失い、喉から大量の鮮血を噴き出しながら、ピクピクと痙攣する梟。夜叉丸は引きずる右足を泥の中に引きずりながら、音もなく奴の枕元へと近づいた。
般若面の下の瞳は、一切の慈悲を排している。夜叉丸は薪割り刀の先端を、梟の心臓へと正確に突き立て、その息の根を完全に止めた。
周囲に転がる血痕と、散らばった黒い羽毛を、夜叉丸は泥染めの黒衣の袖で完璧に拭い取った。そして、梟の冷たくなった遺体を担ぎ上げ、鳴らずの谷の最奥にそびえる「骸の穴」の淵へと引きずっていった。
骸の穴。底の見えない暗黒の大穴からは、腐敗した死臭と有毒なガスが不気味に立ち上っている。夜叉丸は、梟の死体を奈落の底へと容赦なく突き落とした。ボト、という鈍い音が、数秒の後に微かに聞こえ、すぐに静寂の中に消え去った。これで、黒川長老の放った密偵は、この世から完全に消滅した。
だが、夜叉丸が引き返そうとした、その瞬間だった。
梟が落ちていった穴の淵、濡れた岩肌の上に、一枚の汚れた革の端切れが引っかかっているのが目に入った。それは、梟が落下する直前、彼の懐から滑り落ちたものだった。
夜叉丸は錆びた薪割り刀を杖にして屈み込み、その端切れを拾い上げた。それは、ただの革ではない。裏面に、煤と血を使って詳細に描かれた、天照山の裏手の複雑な渓谷の地図だった。そして、その地図の中央には、黒川長老の筆跡で、こう記されていた。
『黒川巌門 秘密製鉄炉』
夜叉丸の般若面の奥の瞳が、驚愕と、新たなる復讐の予感に鋭く細められた。
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