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頭上の死神

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夜叉丸の身体が、一瞬にして氷のように静止した。


 狭い門番小屋の内部には、先ほど床にぶちまけられたよね婆さんの特製薬膳スープの、強烈な薬草の香りが未だ濃く立ち込めている。その湿った熱気の下で、夜叉丸はボロ布団に身を横たえたまま、呼吸の音さえも完全に消し去っていた。右膝を包むお蘭特製の泥染めの包帯は、氷のように冷たく患部を麻痺させているが、それは同時に、骨髄を蝕む寒氷草の毒素がさらに深部へと沈み込んでいる証拠でもあった。皮膚のすぐ下で、砕けた骨の破片が肉を内側から突き刺すような、鈍い疼きがじわじわと這い上がってくる。


 だが、その肉体的な苦痛を、夜叉丸の研ぎ澄まされた神経は完全に無視していた。彼の意識は、雨漏りのする古びた天井裏――煤けた低い梁の暗闇へと、すべての感覚を集中させていた。


 ――ササ、カサリ。


 それは、夜風が屋根の瓦を揺らす音でも、飢えた野ネズミが這い回る音でもない。極めて微細で、かつ意図的に殺された「羽ばたき」の残響。まるで巨大な怪鳥が、その漆黒の翼を畳んで闇に潜むかのような、冷酷な意思を孕んだ気配だった。


(……来たか)


 夜叉丸は前髪の隙間から、天井の隙間を睨みつけた。般若面は床下に隠してあるが、彼の瞳の奥には、夜の処刑人としての冷徹な光がすでに灯っている。天井裏に潜む者の正体は、大山門の周囲を上空から監視している黒川長老の直属スパイ――「闇鴉の梟(やみからすのふくろう)」に違いなかった。


 梟は巨大な黒マントを羽織り、木々の間を滑空しながら、大山門を出入りするすべての影を監視している。昨夜、夜叉丸が「般若面の鬼」として猪俣暴山を処刑し、地面を踏まずに空中を移動した際、その僅かな空気の揺らぎを、この頭上の死神に察知された可能性があった。


 現在の夜叉丸は、一歩も動くことができない。毒島竜二の身体検査によって右膝の骨格は完全に再崩壊しており、強引に立ち上がろうとすれば、骨同士が擦れ合って不気味な関節音を響かせてしまう。それは、この密室において、自らの正体を「隠れた達人」であると暴露するに等しい自殺行為だった。動けぬまま、この至近距離の暗殺者を仕留めなければならない。


 夜叉丸は、布団の傍らに転がっている「錆びた薪割り刀」へと、布団の中でゆっくりと右手を伸ばした。一見すれば、刃こぼれした粗末な農具。だが、そのみすぼらしい鞘の内部には、先代宗主・榊宗山が極秘に鍛え上げた吸音金属「天照黒鋼」の刀身が眠っている。


 彼は刀を抜かなかった。ただ、鞘に収まったままの薪割り刀の柄を掴み、床板の僅かな隙間へとその先端を音もなく突き立て、さらに深く、湿った大地の泥の中へと押し込んだ。


(天照心経・静地、運気――)


 夜叉丸は、唯一五体満足な左足の親指から、大地の微細な「気」を静かに吸い上げた。体内の経絡を巡る気が、薪割り刀の黒鋼を通じて、地面から伝わるすべての振動と共鳴し始める。脳裏に、小屋全体の三次元の地図が鮮明に浮かび上がった。これが、感覚の覚醒――振動感知「地耳(ちじ)」の極地だった。


 天井裏の瓦が、梟の僅かな体重移動によってコンマ数ミリ沈み込む。その振動が、梁を伝い、柱を抜け、床板から薪割り刀を通じて夜叉丸の脳へと直接、立体的な波紋となって伝わってきた。


 梟の足位置がわかる。奴は、夜叉丸の寝床の真上、ちょうど胸元の直上にあたる天井の隙間に、その不気味なカラスのマスクを近づけている。その手には、光を一切反射しない漆黒の吹き矢が握られていた。マントの隙間から取り出されたのは、触れるだけで肉体を内側から腐らせる、黒川長老特製の毒針だ。


 梟のガラスの瞳が、天井の隙間から夜叉丸のボロ布団を凝視している。夜叉丸は「死体偽装呼吸」を維持し、胸の上下運動を極限まで不規則にしながら、死を待つ瀕死の門番を演じ続けた。だが、梟の指先が、吹き矢の筒へと毒針を装填する微細な摩擦音が、地耳を通じて夜叉丸の鼓膜を震わせた。


(……ここだ)


 夜叉丸は、布団の中に隠した左手で、小屋の柱の影に密かに張り巡らせておいた「極細の鋼線」の端を、指先に絡めた。この鋼線は、かつて先代門番の兵吾から教わった、大山門防衛用の罠の一部だった。鋼線のもう一端は、天井裏の腐りかけた梁の支柱へと繋がっている。


 夜叉丸は、自らの呼吸を完全に停止させ、精神を周囲の空間へと拡張した。発動するのは、精神制御「心音同調」。天井裏の暗闇の中、梟の胸が僅かに膨らみ、肺に空気を吸い込む「ドクン……」という心臓の鼓動が、夜叉丸の耳には大音響の波となって同調してきた。梟が吹き矢を放つため、深く息を吸い込んだ、まさにそのコンマ一秒の瞬間――。


 夜叉丸は、左手の指先に絡めた鋼線を、一気に引き絞った。


 ギィ、と天井裏の腐った梁の支柱が、鋼線の張力によって僅かに歪んだ。その瞬間、梟が足を乗せていた瓦の一枚が、足元で不自然に滑り落ちた。完璧な隠密を誇る梟にとって、それは想定外の力学的な「崩れ」だった。


「……っ!」


 梟の心拍が跳ね上がり、吸い込んだ空気が肺の中で僅かに乱れた。吹き矢の筒から放たれた極細の毒針は、その僅かな重心のブレによって軌道を大きく狂わされ、夜叉丸の頬をかすめて、藁布団のすぐ横の泥床へと音もなく突き刺さった。泥が、毒の酸によって一瞬にして黒く変色し、微かな泡を立てる。


 間一髪。だが、梟は自らの狙撃が完全に「予期されていた」ことに、即座に気づいた。天井裏の闇の中で、カラスのマスクの奥のガラスの瞳が、驚愕と冷酷な警戒心に染まる。この狭い小屋の内部では、自慢の滑空マントも、空中からの圧倒的な地の利も機能しない。獲物はただの不自由な門番ではなく、自らの気配を完全に捉えている怪物だと、梟の暗殺者としての本能が告げていた。


 梟は、次の針を装填することを諦め、巨大な黒マントを翻した。瓦を蹴り、夜の深い霧が立ち込める大山門の裏手――「鳴らずの谷」へと向かって、風のように滑空して逃れようとする羽音が、夜叉丸の地耳から遠ざかっていく。


「が、はっ……!」


 夜叉丸は布団の上で激しく身悶えし、口から一筋の鮮血を吐き出した。極限の「静地」の運気と、心音同調による脳への過度な負担が、彼の衰弱した五臓六腑を内側から引き裂いていた。右足の包帯から、再び黄色い膿と黒い血がじわりと滲み出し、泥染めの古い布を汚していく。


 だが、彼の瞳は、逃げていく死神の軌道を完全に見据えていた。梟をこのまま生かして返せば、翌朝には柳生宗玄や黒川長老に「門番の夜叉丸こそが暗殺者である」という真実が伝わり、琴音も、新之助も、この山門の弱者たちも全員が皆殺しにされる。


 夜叉丸は、震える手で錆びた薪割り刀を引き寄せ、それを杖にして、床の上に激しく喀血しながらも、静かに、だが冷酷な復讐の決意を固めた。


 逃がしはしない。あの音が響かない地獄、鳴らずの谷がお前の墓場だ。

HẾT CHƯƠNG

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