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泥の包帯と潜む蛇

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泥まみれの砂利の上、夜叉丸の指先が、床に転がった錆びた薪割り刀の柄へと、音もなく、死に物狂いで伸ばされた。


 指先が冷たい鉄の感触を捉えた瞬間、夜叉丸は胸の内でかすかに安堵の吐息を漏らした。だが、その安堵はすぐに、骨髄を内側から焼き尽くすような凄絶な激痛によってかき消された。毒島竜二の鉄警棒によって再粉砕された右膝は、もはや人間の関節としての体をなしていない。皮膚の下で、砕けた骨の破片同士が不気味に噛み合い、動かすたびに肉を内側から引き裂いていた。


「う、あ……あ……」


 夜叉丸は泥の中に顔を伏せたまま、掠れた悲鳴を上げた。それは演技ではない。半分は、肉体が限界を迎えたことによる本物の悲鳴だった。しかし、彼はその痛みの奥底で、冷徹な理性を維持し続けていた。大山門の物置小屋の影、揺れる竹林の隙間に、あの男――斑蛇の巳之助が潜んでいる。奴の蛇のような細い瞳が、拡大鏡を握りしめたまま、自分の微細な一挙手一投足を見逃すまいと凝視しているのを、「地耳」がはっきりと捉えていた。


 ここで気絶するわけにはいかない。意識を失えば、呼吸の乱れや、達人としての無意識の「気の防御反応」を奴に見破られる。夜叉丸は死に物狂いで錆びた薪割り刀を泥の中に突き立て、それを支えにして、無様に泥を這いずり回りながら門番小屋へと向かって身体を引きずった。引きずられた右足が砂利の上に太い血の跡を描き、その凄絶な無様さは、誰もが「救いようのない廃人」と確信するに十分な光景だった。


「お兄様……! お兄様!」


 門番小屋の粗末な木扉が勢いよく開き、白石琴音が血の気の失せた顔で飛び出してきた。彼女は泥まみれになり、血を吐きながら這いつくばる義兄の姿を見て、悲鳴のような涙声を上げた。色褪せた桃色の小袖を泥で汚すのも厭わず、琴音は夜叉丸の華奢な身体を抱き起こし、必死の力で小屋の中へと引きずり込んだ。


 バタン、と木扉が閉まり、大山門の喧騒が遮断される。しかし、夜叉丸の緊張は解けなかった。小屋の薄暗い内部に入っても、紙窓の破れ目からは外の気配が感じられる。巳之助はまだ、小屋のすぐ外で息を潜めてこちらの様子を窺っているのだ。


「お兄様、なんてひどい怪我を……! あいつら、本当に人間じゃないわ……!」


 琴音は夜叉丸を藁布団の上に横たわらせ、その変わり果てた右足を見て激しく肩を震わせた。包帯は毒島の打撃によって押し潰され、黒い血と黄色い膿が混ざり合って不気味に濡れている。彼女の手は激しい恐怖と怒りで震えていたが、それでも必死に夜叉丸の額の脂汗を拭った。日々の水仕事で荒れた彼女の手の温もりが、夜叉丸の凍りつきかけた意識をかろうじて現世へと繋ぎ止めていた。


(琴音、すまない……。お前をこんな地獄に巻き込み、嘘を重ねて……)


 夜叉丸の胸に、鋭い自己嫌悪の刃が突き刺さる。この手は昨夜、猪俣暴山を殺めた。先代宗主の仇を討つためとはいえ、自らの手が血に染まっているという事実は変わらない。その血塗られた手で、自分を「優しくて無力な兄」と信じて看病してくれる純真な妹弟子の手を握り返さねばならない。その罪悪感が、右足の激痛以上に彼の心を内側から苛んでいた。


「お兄様、よね婆さんから温かい汁物を分けてもらったの。今、温めるから待っていてね」


 琴音は涙を拭い、囲炉裏の微かな火に木椀をかけた。よね婆さんが厨房の残り物の骨や薬草を数日間煮込んで作った、滋養強壮に優れた特製薬膳スープだ。香ばしくも独特な薬草の香りが、狭い小屋の中にふわりと広がり始める。このスープが、寒氷草の毒素によって衰退しつつある夜叉丸の五臓六腑を温め、彼の生命力を維持する唯一の栄養源だった。


 だが、その香りの奥から、夜叉丸の鋭敏な鼻は、自分の右足から立ち上る「血の匂い」を嗅ぎつけていた。毒島の打撃で包帯の内部に隠した「泥染めの黒衣」が押し潰され、そこに染み込んだ血の匂いが、じわじわと室内に漏れ出しているのだ。もし窓の外にいる巳之助がこの血の匂いに気づけば、昨夜の暴山殺害現場の血痕と照合され、すべてが破綻する。


「あ、温かいな、琴音……」


 夜叉丸はわざと手を震わせ、琴音が差し出した木椀を受け取ろうとした。そして、指先を滑らせる演技をしながら、温かいスープを床の泥の上に思い切りこぼした。


 ――ジュウ、と泥が熱い汁を吸い込み、強烈な薬草と骨髄の匂いが一気に室内に充満する。


「きゃっ! お兄様、大丈夫!?」


「す、すまない、琴音……。手が、震えてしまって……」


 夜叉丸は怯えたように肩をすぼめ、涙ぐむ演技をした。琴音は慌てて床を拭き始めたが、夜叉丸の狙い通り、こぼれたスープの強烈なハーブの香りが、包帯から漏れ出る微かな血の匂いを完全に覆い隠した。窓の外で拡大鏡を覗き込んでいた巳之助が、不審そうに鼻をひくつかせた気配が「地耳」を通じて伝わってきたが、薬草の匂いにかき消され、奴はそれ以上の追及を断念したようだった。


「いいのよ、お兄様。よね婆さんからまた貰ってくるから。それよりも、お蘭さんから預かったこれを……」


 琴音は懐から、湿った古い布を取り出した。お蘭が山麓の薬草店で極秘に調合した、消炎・鎮痛作用のある特殊な薬泥を塗り込んだ「泥染めの包帯」だ。琴音は夜叉丸の ruined な右足の包帯を慎重に解き、その傷口に薬泥の包帯を優しく巻き付けた。


 ――冷たい。


 包帯が皮膚に触れた瞬間、氷のような冷気が夜叉丸の右足を包み込んだ。それは、熱を持って腫れ上がった患部を急速に冷却し、骨が軋む凄絶な激痛を一時的に和らげる物理的な効能を持っていた。しかし、同時にその冷気は、体内に残された「寒氷草」の毒素を患部に凝固させ、右足の壊死をさらに進行させるという致命的な代償を伴っていた。夜叉丸は、自らの命が削り取られていく感覚を覚えながらも、その冷たい救済を無言で受け入れた。


 その時、窓の外の巳之助の気配が、さらに小屋の壁へと近づいた。奴は、夜叉丸の「呼吸の乱れ」を観察している。打撃を受けた瞬間の、あの一瞬の呼吸の停止。達人が内功を運気する際の微細な兆候を、巳之助はまだ疑っていたのだ。


(蛇め、まだ疑っているか……)


 夜叉丸は布団の中で静かに息を吐き出した。発動するのは、隠密術『死体偽装呼吸』の応用だ。心拍数を極限まで落とし、呼吸を極めて浅く、不規則なものへと変化させる。肺が完全に潰れ、呼吸器が機能していないかのような、瀕死の重病人の呼吸を物理的に作り出した。


 巳之助は窓の隙間から拡大鏡を覗き込み、夜叉丸の胸の上下運動を凝視していた。しかし、夜叉丸の呼吸はあまりにも不規則で、時折数十秒間も停止し、その後で浅く喘ぐような無様なものだった。気の流れも完全に途絶えており、達人が息を整えている兆候は微塵も感じられない。


「チッ……。本当にただの死にかけか。あの打撃の瞬間の一瞬の停止は、単に痛みのあまり息が詰まっただけだったか」


 巳之助は不気味な呟きを漏らし、ようやく監視の位置を数歩下げた。奴の気配が大山門の警備所の方へと遠ざかっていくのを、「地耳」が確認する。最大の危機は、かろうじて去ったのだ。


「お兄様、少しは痛みが和らぎましたか?」


 琴音は泥染めの包帯を巻き終え、夜叉丸の顔を覗き込んだ。夜叉丸は力なく微笑み、頷いた。


「あぁ……。お蘭さんの薬は、よく効く。少し、眠れそうだ……」


「よかった……。私、よね婆さんにお礼を言って、お兄様の着替えを持ってくるわね」


 琴音は安堵の涙を浮かべ、空の木椀を持って静かに小屋を出て行った。室内に一人残された夜叉丸は、ようやく般若面を被る前の「影の執行人」としての冷徹な目を取り戻した。右足の感覚は、泥染めの包帯の冷気によって完全に麻痺している。だが、このままでは寒氷草の毒素が骨髄に溜まり、右足が完全に腐り落ちてしまう。


(今、毒を排出しなければ……)


 夜叉丸は布団の中で、残された左足から大地の「気」を密かに吸い上げ、内功『天照心経・静地』を起動した。そして、泥染めの包帯の下で、体内に残された寒氷草の毒素を経絡の循環によって一時的に特定の経絡に集め、呼吸とともに体外へ排出する『毒素中和の排気法』を行おうとした。


 彼が深く、冷たい息を吸い込み、運気を開始しようとした、まさにその瞬間。


 ――ササ、カサリ。


 門番小屋の雨漏りのする天井裏、古い梁の暗闇から、極めて微細で、不気味な羽音が夜叉丸の「地耳」に届いた。それは風の悪戯でも、野ネズミの足音でもない。明らかに、意志を持った何者かが天井裏に潜み、自分の寝床を見下ろしている気配だった。


 夜叉丸の身体が、一瞬にして氷のように静止した。

HẾT CHƯƠNG

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