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鉄槌の予兆

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「おや……、失礼するよ、門番の旦那。朝早くから、ずいぶんと仲睦まじいことだ」


 開け放たれた扉から吹き込む冷気と共に、斑蛇の巳之助がずるずると這うような足取りで門番小屋の中へと侵入してきた。その細い蛇のような瞳は、部屋の隅々に鋭い視線を走らせている。手元で怪しく光る拡大鏡が、夜叉丸の布団の周りを冷酷に照らし出した。


「な、何ですか、あなたたちは……! お兄様は病気なのです、急に押し入るなんて無礼ですよ!」


 白石琴音が夜叉丸を庇うように立ち塞がり、細い肩を震わせながら叫んだ。だが、巳之助は彼女を鼻で笑い、泥だらけの足でさらに一歩、踏み込んでくる。


「無礼、かね。我々は黒川長老の命を受け、宗門を脅かす『跛行の暗殺者』を捜しているのだよ。昨夜、外門の物置小屋で猪俣暴山様が何者かに殺害された。その犯人の足跡が、この周辺にまで続いているのだ」


 巳之助の言葉に、琴音の顔が恐怖で青ざめた。だが、夜叉丸は布団の中で、極限の脱力状態を維持したまま、怯える落ちこぼれ門番の仮面を完璧に被り直した。


「ひ、ひぃぃ……! 暴山様が殺された……!? そ、そんな、俺は何も知りません! 昨夜からずっと、足が疼いて一歩も動けなかったんです!」


 夜叉丸は涙を浮かべ、ガタガタと震えながら布団を頭から被ろうとした。その卑屈な姿に、巳之助は不気味な薄笑いを浮かべ、夜叉丸の足元へと視線を落とした。


「ふむ……。だが、この部屋からは妙な匂いがするな。血の匂いを隠すための、薬草の匂いが……」


 巳之助が鼻をひくつかせ、拡大鏡を床にぶちまけられた薬膳スープの残骸へと向けた。よね婆さんのスープの強烈な薬草の香りが充満しているが、巳之助の執念深い嗅覚は、その奥に隠された微かな「鉄錆のような匂い」――夜叉丸の右足から滲み出た血の匂いを嗅ぎ取ろうとしていた。


「お、お兄様がスープをこぼしてしまったのです! 私が不器用なばかりに……!」


 琴音が必死に言い訳をしながら、床の泥を拭い取ろうとする。巳之助はその様子を冷ややかに見つめ、ついに夜叉丸の右足の包帯へと手を伸ばした。包帯の中には、血と泥にまみれた泥染めの黒衣が無理やり詰め込まれており、不自然に大きく膨らんでいる。もしこれを解かれれば、一瞬で正体が露呈する。


(天照心経・静地、運気――)


 夜叉丸は布団の中で、残された左足から大地の「気」を密かに吸い上げ、体内の経絡の流れを完全に沈静化させた。無明の探知を欺いたときのように、自らの肉体を「気の空っぽな器」へと変える。そして、巳之助の指が包帯に触れた瞬間、夜叉丸は肺が破れんばかりの凄絶な悲鳴を上げた。


「ぎゃあああああっ! 痛い、痛い! 触らないでくれ! 骨が、骨が砕けるぅぅ!」


 その絶叫は演技ではなかった。包帯の下で、骨折した骨同士が直接擦れ合い、脳髄を焼き尽くすような激痛が夜叉丸の全身を貫いていた。脂汗が滝のように流れ、夜叉丸の顔は死人のように真っ白に染まる。


 巳之助は夜叉丸のあまりにも本物の狂気じみた悲鳴に、一瞬だけ眉をひそめて手を引いた。拡大鏡で包帯の表面を観察するが、そこに浮かび上がっているのは、スープに濡れた泥と、化膿した傷口から滲み出た黄色い膿だけだった。達人が偽装しているような「気の防壁」も、筋肉の不自然な緊張も一切感じられない。ただの、本物の、壊れ果てた障害者の肉体。それが、巳之助の目に映ったすべてだった。


「チッ……。本当にただの廃物か。興が削がれたな」


 巳之助は忌々しげに吐き捨て、小屋の中をもう一度見回した後、無言で立ち去った。扉が閉まる音と共に、小屋の中に張り詰めていた死の緊迫感が一瞬だけ弛緩する。琴音は崩れ落ちるように床に膝をつき、激しい呼吸を繰り返した。


「お兄様……、お兄様、大丈夫ですか……!?」


「あぁ、大丈夫だ、琴音……。少し、休ませてくれ……」


 夜叉丸は掠れた声で答え、布団の中で包帯の中の黒衣をそっと探った。危機は去った。だが、それは一時しのぎに過ぎない。巳之助が引き下がったとしても、鉄剣会の幹部である暴山の死は、天照宗の中枢を揺るがす大事件だ。柳生宗玄がこのまま黙っているはずがなかった。


 その予感は、数時間後に最悪の形で現実となった。


 大山門の鐘が、不気味な音色で連打された。それは、外門の全下男、雑役、そして障害を持つ使役者たち全員に対する「緊急招集」の合図だった。


 門番小屋から這い出た夜叉丸は、錆びた薪割り刀を杖代わりにして、砂利道を引きずりながら外門練武場へと向かった。練武場には、冷たい風が吹き荒れる中、怯えた表情の雑役たちが一列に並べられていた。その前方に佇んでいるのは、天照宗の新宗主・柳生宗玄の直属の側近であり、冷酷無比な執行官として恐れられる男――毒島竜二だった。


 毒島は漆黒の長いコートのような道着を纏い、顔の半分を不気味な鉄の仮面で覆っている。その手には、経絡の反応を強制的に引き出すための特製の重い「鉄警棒」が、鈍い光を放ちながら握られていた。彼の傍らには、先ほど小屋に押し入った巳之助が、蛇のような薄笑いを浮かべて控えている。


「静粛に」


 毒島の冷徹な声が、練武場全体を支配した。その声には、一切の慈悲も、妥協も存在しない。彼は並べられた下男たちを一瞥し、冷酷な宣告を下した。


「昨夜、猪俣暴山様が何者かに暗殺された。犯人は、右足を引きずりながら移動する手練れの剣士である。巳之助の捜査により、犯人はこの大山門の内部に潜んでいる可能性が極めて高い。……よって、これより、門派内のすべての足の不自由な者を対象とした『肉体検査』を執行する」


 その宣告に、雑役たちの間に絶望的な動揺が広がった。夜叉丸は列の最端で、静かに頭を垂れながら、脳内で激しい計算を開始した。


(肉体検査……。毒島は『経絡の反応』を調べるつもりだ。達人がどれほど無能を装おうとも、打撃を受けた瞬間に、身体は無意識に『気』を使って肉体を保護しようとする。筋肉の微細な収縮、経絡の気の乱れ……それらを、あの鉄警棒で見極めるつもりか)


 もし普通に打撃を受ければ、どれだけ痛みに耐えて悲鳴を上げようとも、達人としての肉体反射(膝蓋腱反射や気の無意識の防御)が毒島の鋭いセンサーに感知され、その瞬間に正体が暴かれる。それは、自分だけでなく、琴音やよね婆さん、新之助の死を意味していた。


(反射を完全に殺さねばならない。気の防御を一切行わず、骨が粉砕される衝撃をそのまま受け止める。……そのためには、この足を本物の『死んだ肉体』にするしかない)


 夜叉丸は、衣服の下に隠していた手をそっと動かした。彼の懐には、深夜の襲撃で蛇骨衆から奪取した禁忌の毒薬『骨砕き粉(こつくだきこ)』が隠されていた。この毒は、塗布された部位のカルシウムや経絡を脆くし、骨を内側から崩壊させる遅効性の劇薬だ。さらに、彼は指先に極小の銀針を隠し持っていた。『針治療による痛覚遮断』の秘術。脳への痛覚伝達を一時的に完全に遮断するための、自傷の道具だ。


 夜叉丸は、毒島が他の下男たちの検査を始めるのを見つめながら、衣服の隙間から右足のふくらはぎへと手を滑らせた。ふくらはぎの包帯の隙間に、骨砕き粉を素早く塗り込み、さらに銀針を右足の主要な経絡、痛覚を支配するツボへと深く、深く突き刺した。


「ぐぅっ……!」


 脳裏が真っ白になるほどの、内側から肉体が破裂するような異様な感覚が夜叉丸を襲った。銀針が神経を物理的に切断し、右足の感覚が急速に、氷のように冷たく、完全に消失していく。骨砕き粉が骨髄へと浸透し、かつて堂本に砕かれた右足の骨が、物理的にさらに脆く、ボロボロの粘土のようになっていくのが分かった。これで、肉体反射を起こすための「神経」も「骨の強度」も、完全に破壊された。


 練武場では、毒島の冷酷な検査が進行していた。彼は下男たちの前に立ち、無言で鉄警棒を振り下ろしていた。重い鉄の棒が下男たちの右足の膝を強打するたびに、鈍い骨折音が響き、凄絶な悲鳴が練武場に響き渡る。ある下男は、打撃の瞬間に無意識に筋肉を緊張させたため、毒島によって即座に「経絡の反応あり」とみなされ、その場で衛兵たちに首を撥ねられた。


「次だ」


 毒島の冷徹な声が、ついに夜叉丸を指し示した。衛兵たちによって、夜叉丸は列の前方へと引きずり出された。彼は錆びた薪割り刀を床に落とし、泥まみれの砂利の上に無様に両膝をついた。右足は添え木を剥ぎ取られ、変形して化膿した肉が剥き出しになっている。


 毒島は夜叉丸の前に立ち、鉄の仮面の奥から、凍りつくような視線で見下ろした。その手にある鉄警棒が、ゆっくりと持ち上げられる。


「お前が、あの有名な『跛行の門番』か。三年前、堂本に足を砕かれ、それ以来ずっと大山門を守っていると聞くが……」


 毒島は冷笑を浮かべ、鉄警棒の先端で夜叉丸の顎を乱暴に持ち上げた。夜叉丸は涙と鼻水に顔を汚し、全身を激しく震わせながら、卑屈な笑みを浮かべて命乞いをした。


「ひ、ひぃぃ……! 毒島様、お許しください! 俺はただの、足の不自由な門番です! 剣なんて、もう三年間も握っていません! お願いです、これ以上足を叩かないでください、死んでしまいますぅぅ!」


 夜叉丸の必死の懇願を、毒島は一切無視した。彼の目は、夜叉丸の右足の経絡の流れを冷酷に観察している。だが、夜叉丸の体内からは、気の残滓も、生命の鼓動すらも感じられない。完全に、神経が死に絶えた廃人の肉体。だが、毒島は自らの「砕骨勁」を鉄警棒に微かに纏わせ、夜叉丸の右膝へと正確に狙いを定めた。


「本当に動かん足なら、もう一度叩き折っても悲鳴は上がらんな?」


 毒島の冷酷な言葉と共に、重い鉄警棒が、暴風のような風圧を伴って夜叉丸の右膝へと振り下ろされた。夜叉丸は目を閉じ、自らの右足の骨が、そして残された人間としての肉体が、完全に崩壊するその瞬間を、静寂の中で迎える覚悟を決めた。もし、ここで一瞬でも筋肉が反応すれば、すべてが終わる。鉄槌が、彼の肉体へと迫っていた。

HẾT CHƯƠNG

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