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泥濘に這う鬼

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天照山(てんしょうざん)の秋雨は、骨の髄まで凍てつかせる冷気を含んでいる。赤錆びた大山門の瓦から滴り落ちる雨水は、容赦なく地面の土を抉り、深い泥濘(でいねい)を作り出していた。

 かつて関東武林にその名を轟かせた剣術名門「天照宗(てんしょうそう)」の威容は、今や見る影もない。山門の左右には、宗門を暴力で占領した武闘派集団「鉄剣会(てっけんかい)」の不気味な黒い旗が、濡れそぼって垂れ下がっている。

「おい、這いつくばれ。犬が道を塞いでいるぞ」

 冷酷な嘲笑が、雨音を切り裂いた。

 大山門の脇、雨漏りのする粗末な門番小屋の前で、一人の男が泥の中に膝をついていた。榊夜叉丸(さかき・やしゃまる)――二十八歳。煤けた灰色のボロ布を纏い、乱れた前髪の間から泥水を滴らせている彼の右足は、不自然な角度にねじ曲がっていた。三年前の内乱の際、鉄剣会の頭領によって徹底的に粉砕された骨は、不完全な形で固まり、今や一歩歩くたびに激痛を伴う廃人の足と化している。

 夜叉丸は、赤錆びて刃こぼれした「錆びた薪割り刀」を杖代わりに泥に突き立て、辛うじて身体を支えていた。その彼の前に立ちはだかったのは、天照宗の新体制下で頭角を現した内門弟子の真壁俊介(まかべ・しゅんすけ)と、その腰巾着である日和見の凡才、杉原健太(すぎはら・けんた)であった。

「俊介様、この廃犬め、今日も門の前に這いつくばって、我々の靴を汚そうとしておりますな」

 杉原が、真壁の顔色を伺いながら卑屈に笑う。真壁は豪奢な青い道着の裾を汚れぬように持ち上げ、夜叉丸の泥だらけの頭を見下ろした。その瞳には、弱者をいたぶることを純粋な娯楽とするサディスティックな光が宿っている。

「夜叉丸よ。鉄剣会の掟・『犬の服従』を忘れたわけではあるまいな?」

 真壁の冷たい声が響く。掟は絶対だ。外門の使役役は、支配者とすれ違う際、泥の中に両膝をつき、顔を地面に擦りつけて通り過ぎるのを待たねばならない。抵抗すれば、その場で叩き殺される。

「ひっ……! し、俊介様、健太様! どうか、どうかお許しを……! この通りでございます!」

 夜叉丸は、涙と泥水にまみれた顔を歪め、大声で命乞いを始めた。彼は錆びた薪割り刀を放り出し、冷たい泥の中に両手を突き、額を地面に擦りつけた。泥の冷たさが額から脳へと突き刺さるが、彼の顔には卑屈極まりない笑みが張り付いている。

「ほう、相変わらず見事な這いつくばりだ。かつて『天照宗の神童』とまで呼ばれた男が、今や泥水を舐める犬か。実に見苦しい」

 真壁は満足げに鼻を鳴らし、夜叉丸の背中に容赦なく泥だらけのブーツを乗せた。ぐりぐりと体重をかけられ、夜叉丸の砕けた右足の骨が軋み、凄絶な激痛が全身を走る。しかし、夜叉丸の口から出たのは、さらなる卑屈な懇願だった。

「うぐっ……! あ、ありがたき幸せ……! 俊介様の靴底の泥を払えるなら、この夜叉丸、いかなる屈辱も喜びにございます!」

「ふん、本当に壊れた廃人め。興が削がれたわ。おい、健太。例のものを片付けさせろ」

 真壁の合図を受け、杉原が不気味な笑みを浮かべながら、用を足した後の汚物が入った木桶を夜叉丸の頭上に掲げた。

「さあ、門番の仕事だ。綺麗に片付けろよ」

 次の瞬間、生温かい汚物が夜叉丸の頭から容赦なく浴びせられた。強烈な悪臭が鼻腔を突き刺し、泥水と混ざり合って彼の顔を覆う。真壁と杉原は、その無残な姿を見て腹を抱えて大笑いした。周囲の衛兵たちも、嘲笑の声を上げる。

「ぎゃははは! 汚物まみれの門番だ! よく似合っているぞ!」

 夜叉丸は、泥の中に額を押し付けたまま、わなわなと震え、涙を流して命乞いを続けた。その姿は、誰もが「完全に精神まで破壊された廃人」と確信するに十分な無様さであった。

 やがて、真壁たちは笑い疲れたように山門の奥へと消えていった。周囲の衛兵たちも、汚物まみれの夜叉丸を忌避するように視線を逸らし、関心の対象から外した。


 嵐のような嘲笑が去り、大山門に静かな雨音だけが戻ったとき。

 泥の中に這いつくばっていた夜叉丸の身体から、震えがピタリと止まった。

 ゆっくりと頭を上げた彼の顔から、先ほどまでの卑屈な笑みは完全に消え去っていた。泥と汚物にまみれた前髪の隙間から覗くその瞳は、深淵の底に燃え盛る、極限まで冷え切った憎悪と冷徹な光を宿している。

(真壁俊介……杉原健太……)

 夜叉丸は心の中で、その二人の名前を冷酷に復讐の暗殺リストへと書き加えた。三年前、養父であり先代宗主の榊宗山(さかき・そうざん)を毒殺し、自分の右足を鉄槌で粉砕した裏切り者たち。その犬どもに、同じ苦痛と死を与えるその日まで、この屈辱はただの『防具』に過ぎない。

 彼は無言で錆びた薪割り刀を拾い上げ、それを杖代わりにして、激痛の走る右足を引きずりながら立ち上がった。冷たい雨水で髪と顔を洗い流し、汚物の臭いを消す。周囲の衛兵たちは、彼がただの足の不自由な門番として這い戻る姿を、一瞥しただけで視線を戻した。誰も、彼の瞳の奥にある氷の深淵に気づく者はいない。


 夜が更け、大山門が完全に閉鎖された頃。

 夜叉丸は、雨漏りのする狭い門番小屋に戻っていた。小屋の内部は、寒風が吹き込み、小さな囲炉裏には火すら入っていない。彼は粗末な藁布団の上に腰を下ろし、深く息を吐き出した。

 右足が凄絶に疼く。毒島竜二らに怪我の完治を疑われぬよう、あえて骨を歪んだままに固定している右足は、慢性的な激痛を放ち続けている。夜叉丸は自らの感情を押し殺し、呼吸を整えた。

 彼は、床板の一箇所、周囲の砂利と同化するように巧妙に隠された隙間に指をかけ、床板を静かに持ち上げた。そこは、門番小屋の床下に掘られた極小の隠し収納空間。その中から、彼は養父・宗山の唯一の形見である「錆びた薪割り刀」を取り出した。

 一見すると、刃こぼれし、赤錆びた粗末な薪割り用の農具にしか見えない。しかし、その内部には、先代宗主が極秘に鍛え上げた伝説の吸音金属「天照黒鋼(てんしょうくろがね)」で作られた鋭利な細身刀が仕込まれている。衝撃を完全に分子レベルで吸収し、摩擦音を一切発生させない、暗殺に特化した神剣。

 夜叉丸は、刀の柄の金属巻の僅かな歪みに目を留めた。彼の指先が、長年の薪割りによるタコで固くなった皮膚を通じて、柄の底にある極小の「二重底」のラッチを感知する。

(……これは?)

 爪先で微細な突起を強く押し込むと、カチリと無音の感触とともに、柄頭の鉄キャップがスライドして開いた。内部は中空になっており、そこから古びた、極小の羊皮紙の巻物が現れた。

 慎重にそれを取り出し、囲炉裏の僅かな残り火の光にかざす。羊皮紙の表面には、先代宗主・宗山の筆跡で、驚くべき文字が刻まれていた。


『無音剣譜・上巻』


 夜叉丸の息が止まった。天照宗が代々秘匿し、内乱の最中に失われたとされていた究極の隠密抜刀術の極意書。それが、この薪割り刀の柄の中に隠されていたのだ。

「夜叉丸、足を恨むな。闇に潜み、時を待て」という宗山の最期の言葉が、脳裏にフラッシュバックする。宗山は、夜叉丸が復讐のために立ち上がることを予期し、最も安全なこの場所に秘伝を託していたのだ。

 夜叉丸は貪るように羊皮紙を読んだ。そこには、空気の摩擦を極限まで減らし、刀を振るう音を完全に消し去るための、手首の旋回角度と運気経路が詳細に描かれていた。

「音は空気の抵抗。力を抜き、刃が空気を切り裂く『面』を最小限に抑えよ。踏み込みの一歩は、大地の振動と同化させよ……」

 歩行困難な夜叉丸が、最初の一歩だけで勝負を決めるために編み出された、静置の剣。彼は目を閉じ、書かれた運気経路に従って、体内の「気」を循環させ始めた。

 天照心経の呼吸法を使い、冷たい空気を肺の奥深くまで吸い込む。そして、その気を、砕けた右足の経絡へと無理やり流し込もうとした。

「うぐっ……!」

 凄絶な激痛が右足を突き抜け、夜叉丸は激しく喀血した。砕けた経絡に無理やり気を通す代償は重く、喉の奥から黒い血が溢れ出る。しかし、彼は痛みに耐え、唇を拭って再び目を閉じた。ここで諦めれば、師父の無念は永遠に晴らせない。

 彼は錆びた薪割り刀の柄を握り、ゆっくりと立ち上がった。右足は一歩も動かせない。しかし、残された左足の親指一箇所に全体重を完全に集中させ、全身の力を完全に抜く。

 息を吐き出す。心拍数を極限まで落とし、体温を小屋の冷気と同化させる「寒氷呼吸法」。

 そして、手首を旋回させ、薪割り刀を暗闇の中で一閃した。


 ――ヒュッ、という風切り音すら、一切しなかった。


 ただ、刃が通過した軌道に沿って、小屋の埃が一瞬だけ真空の気流に吸い込まれるように歪んだ。吸音金属「天照黒鋼」の特性と、空気抵抗をゼロにした手首の角度が完全に一致した、完全な「無音の一撃」。

 夜叉丸の瞳に、確固たる復讐の確信が宿った。この「無音の太刀」があれば、動けない身体であっても、裏切り者たちの喉元を闇の中で確実に刈り取ることができる。

 その瞬間。

 激しい雨音に紛れるようにして、大山門の砂利を踏みしめる、重く規則的な足音が門番小屋へと近づいてくるのを、夜叉丸の鋭敏な聴覚が捉えた。

 夜間の巡回を統括する、下級衛兵・鬼瓦権三(おにがわら・ごんぞう)の足音だ。居眠りや不審な動きがないか、抜き打ちで見回りに来たに違いない。

 夜叉丸は瞬時に羊皮紙を柄の二重底へと戻し、キャップをロックして、錆びた薪割り刀を床下に隠した。そして、藁布団の上に倒れ込み、汚物まみれのボロ布を頭から被って、寒さに震える「無力な障害者」の姿へと戻った。

 バタン! と、小屋の粗末な扉が乱暴に押し開けられ、冷たい雨風と共に、松明を持った男の影が入り込んできた。

HẾT CHƯƠNG

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