玄鉄を叩く槌音
馬の蹄音が、霧雨に煙る孤境の朝を切り裂いていた。酔仙居の裏口から脱出した鉄猛たちは、張が用意した西域産の駿馬を駆り、町の北へと向かっていた。鉄猛の左腕は、だらりと下がったまま微動だにしない。手綱を右手一本で握り締め、馬の背に揺られるたびに、左肩の古傷から骨が軋むような激痛が脳髄を突き刺す。だが、老鏢頭の顔は鉄の仮面のように無表情だった。背中には、太い鉄鎖で固定された漆黒の「天啓の鉄匣」が、その重みを不気味に主張している。
「お師匠様、本当にあそこへ行くのですか?」
小空を前に抱きかかえた阿飛が、馬を並べて不安げに問いかけた。阿飛の胸元には、先ほどの緋沙雨との戦いで負った打撲の痛みが残っている。その後方を、巨大な大盾を背負った頑石が、肺の奥から漏れる重い咳を堪えながら追っていた。
「大刀の刃こぼれが限界だ」鉄猛はかすれた声で答えた。「大山魁の槌を受け、さらにあの女暗殺者の刃を弾いた。このまま砂漠に入れば、次の関門を越える前に刀が砕ける。孤境の外れに、趙大刀(ちょうだいとう)の鍛冶場がある。あいつの腕と、あいつが持つ玄鉄がなければ、この鏢路(ひょうろ)はここで途絶える」
やがて、荒涼とした砂塊の合間に、黒い煙を吐き出す古びた石造りの建物が見えてきた。趙大刀の鍛冶場だ。中に入ると、ツンとする硫黄の臭いと、赤く燃える炉の凄まじい熱気が押し寄せてきた。上半身を裸にし、岩のように頑強な筋肉を汗で濡らした大柄な男――趙大刀が、巨大な槌を振るっていた。
「誰だ!」趙大刀が鋭い眼光を向けたが、それが鉄猛だと気づいた瞬間、その顔に驚愕と喜びが広がった。「鉄猛! 生きていたのか! 鏢局が襲撃されたと聞いて、てっきり……」
「大刀を鍛え直してほしい」鉄猛は挨拶もそこそこに、右手で背中の大刀を引き抜き、鉄床の上に置いた。刃先は無残にこぼれ、細かな亀裂が走っている。
趙大刀はその刃を見つめ、深くため息をついた。「大山魁の『砕骨大槌』か。これほどの衝撃を受けて、よく折れなかったものだ。だが、普通の鋼ではもう修復できんぞ」
「お前が西域の密輸商人から手に入れた『玄鉄の削り粉』があるはずだ」鉄猛の目が趙大刀を射抜いた。「あれを炉で溶かし、この刃に焼き入れを施してくれ。不義の徒どもを切り裂く、不滅の刃に鍛え直すのだ」
趙大刀は一瞬、躊躇するように炉の炎を見つめたが、すぐに豪快に笑った。「いいだろう! 鉄骨鏢局には、俺の命を救ってもらった大恩がある。太守府の犬どもが何と言おうと、この趙大刀、あんたの大刀を天下無双の刃に仕上げて見せる。だが、焼き入れには少なくとも一刻(約二時間)の時間がかかる。その間、炉の温度を極限まで保ち、槌を叩き続けねばならん。途中で火を絶やせば、玄鉄は不純物と化し、大刀は二度と使い物にならなくなるぞ」
「頼む」鉄猛は静かに頷き、鍛冶場の隅にある木製の長椅子に腰を下ろした。
炉の火が白熱の色を帯び、趙大刀の叩く槌音が「トン、トン、トン」と重厚に響き始めた。鉄猛は目を閉じ、自らの内力を整えようとした。しかし、丹田から気を引き出そうとした瞬間、全身の関節、特に左肩の古傷から「ミシッ」と嫌な音が響き、猛烈な激痛が走った。限界だった。長年の激戦と老い、そして度重なる無理な戦闘により、彼の肉体は「筋骨限界(きんこつげんかい)」に達していた。「鉄骨功」の維持時間は、全盛期の半分以下に縮まっている。右手一本で戦うことの物理的な負荷が、彼の老いた肉体を内側から確実に破壊しつつあった。
「おじさん、痛むの?」
小空が、鉄猛の傍らにそっと寄り添い、小さな手で彼の煤けた革鎧を掴んだ。その手には、鉄猛が渡した木彫りの小刀が固く握りしめられている。小空の利発だが怯えた瞳を見た瞬間、鉄猛の胸に、かつて救えなかった実の息子・鉄嵐の姿が痛烈に重なった。あの時、自分は任務を優先し、息子の死に目に立ち会えなかった。その悔恨が、今、この血の繋がらぬ幼子を守り抜くという、狂気的なまでの守護衝動へと彼を突き動かしている。
「心配ない、小空。ただの古い傷だ」鉄猛は不器用に微笑み、小空の頭を撫でた。
その頃、孤境の宿場町の暗い裏路地では、強欲な商人・張三(ちょうさん)が、太守府の役人たちを前に卑屈な笑みを浮かべていた。彼の懐には、太守府から渡された重い官銀の袋が収まっている。
「間違いございません、旦那様。鉄猛の一行は、外れの趙大刀の鍛冶場へ逃げ込みました。今頃、大刀の修理をしておるはずです。今行けば、袋のネズミでございますよ」
役人の一人が冷酷に頷き、背後の暗闇に向かって手を挙げた。闇の中から現れたのは、身長二・二メートル、全身を分厚い鉄板の鎧で覆った無言の巨漢――太守府が誇る最強の盾、狂戦士「鉄槌(テッツチ)」であった。その手には、大人の頭部ほどもある巨大な鉄槌が握られている。言葉を話さず、ただ破壊の命令にのみ従う殺人機械が、静かに歩みを進めた。
鍛冶場の中では、趙大刀が「玄鉄の削り粉」を赤く焼けた大刀の刃に振りかけていた。金属の火花が美しく飛び散り、玄鉄の黒い粒子が鋼の奥深くに吸い込まれていく。だが、焼き入れの最も繊細な瞬間が迫っていた。炉の温度は限界まで達し、鍛冶場全体が息ができないほどの焦熱の空気に包まれている。
「あと少しだ……」趙大刀が息を荒くしながら、槌を振り下ろす。その時、外の砂地を踏みしめる、異常に重い足音が鉄猛の「殺気感知」に引っかかった。
(――来たか!)
鉄猛の首筋の産毛が逆立ち、背中の「天啓の鉄匣」が微かに共鳴した。刀がない今、敵を迎え撃つ手段は己の肉体しかない。
「阿飛、小空を連れて炉の影に隠れろ! 頑石、防衛の陣を!」
鉄猛が叫んだ、まさにその瞬間だった。
「あと一刻……あと一刻、炉の火を絶やすな!」
趙大刀が顔中を汗と煤で汚しながら、絶叫した。その瞬間――鍛冶場の分厚い木壁が、雷鳴のような轟音とともに粉々に打ち砕かれた。爆風のごとき木片の嵐の中、現れたのは、全身を分厚い鉄板で覆った、二メートルを超える巨大な影。太守府の放った狂戦士、鉄槌(テッツチ)であった。その手にある巨大な鉄槌が、容赦なく振り下ろされようとしていた。
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