濁酒の誓い、裏切りの足音
静心寺をあとにした鉄猛一行は、霧雨に煙る孤境の裏路地を影のように進んでいた。だらりと垂れ下がった左腕には全く感覚がなく、一歩歩くごとに左肩の裂けるような痛みが脳髄を激しく刺す。右手一本で九環大刀を握り締め、もう一方の手で小空の小さな手を引く。阿飛はまだ胸元の打撲に呼吸を乱し、頑石は時折、肺の奥から絞り出すような重い咳を漏らしていた。雨に濡れた砂が、彼らの足取りを重く引きずる。
向かったのは、町の中心から外れた一角に佇む、怪しげな灯りを放つ酒楼「酔仙居(すいせんきょ)」であった。ここは辺境のならず者、西域の密輸商人、そして賞金稼ぎたちが交錯する無法の吹き溜まり。そして、その主である十三娘(じゅうさんじょう)は、かつて鉄猛が鏢局の全盛期に幾度も窮地を救った、数少ない信頼に足る女であった。
「酔仙居」の重い木扉を押し開けると、安価な小米酒のツンとする香りと、羊脂の焦げる匂いが熱気と共に立ち込めていた。店内は薄暗く、粗野な男たちの怒号や笑い声が渦巻いている。十三娘は帳場に立ち、妖艶な笑みを浮かべて客をあしらっていたが、鉄猛の血濡れた茶色の革鎧と、だらりと下がった左腕を目にした瞬間、その切れ長の瞳に鋭い光が走った。彼女は表情を崩さぬまま、目配せ一つで彼らを二階の奥まった個室へと導いた。
個室に入ると、十三娘はすぐに扉を閉め、閂をかけた。彼女のまとう紅の絹衣から、微かにジャスミンの香りが漂う。
「……馬鹿な男。本当に死に損ないを連れて戻ってきたのね。町中が太守府の州兵と大山魁の山賊どもで溢れ返っているというのに」
「十三娘、すまない。長居はせん。砂漠を越えるための足と、最低限の食料が欲しいのだ」
鉄猛がかすれた声で言うと、十三娘は深くため息をつき、温められた濁酒(だくしゅ)の入った陶器の徳利を差し出した。
「まずはこれを飲みなさい。あんたのその青白い顔、見ていられないわ」
白濁した酒が喉を焼き、鉄猛の冷え切った内臓を微かに温める。喉の奥に溜まっていた鉄の味が、酒の渋みと共に洗い流されていく。小空は仏像の陰に隠れていた時と同様、木彫りの小刀を両手で固く握りしめ、鉄猛の膝の陰に怯えた様子で隠れていた。十三娘はその様子に気づくと、そっとしゃがみ込み、皿に盛られた干し肉を差し出した。
「可愛いお坊ちゃん。ここでは誰も手を出さないから、安心してお食べ」
小空は恐る恐る干し肉を受け取り、小さな口で噛み締めた。十三娘は優しくその頭を撫でたが、鉄猛に向き直ったとき、その表情から温もりは消え失せていた。
「鉄猛。あんたの義兄弟、陸大兄のことだけど……」
彼女がもたらした情報は、鉄猛の魂を根底から揺るがすものだった。
「陸大兄がこの孤境に辿り着く一ヶ月も前から、中原の『天岳門(てんがくもん)』の密偵どもが彼の足取りを完全に把握していたわ。それだけじゃない。陸大兄は国境を越える前、天岳門の執事である白無瑕(はくむか)と密かに接触していたという噂がある。あんたの鏢局がこれほど正確に襲われたのは、陸大兄自身が情報を漏らしていたからではないかって……」
「黙れ!」
鉄猛の口から、割れ鐘のような一喝が漏れた。しかし、その声は彼自身の激しい動揺を隠しきれていなかった。
陸大兄が裏切った? あの、戦場で幾度も背中を預け合い、忠義一徹を絵に描いたような男が、自らの命を捨ててまで託した小空と鉄匣の情報を、事前に売っていたというのか。
(あり得ん。奴は命に代えても小空様を守ると誓ったはずだ。だが……ならばなぜ、大山魁どもはあれほど正確に我らを待ち伏せできた?)
疑念という名の毒が、鉄猛の丹田を駆け巡る。激しい精神の乱れに伴い、抑え込んでいた内力が暴走を始め、傷ついた経絡がミシミシと音を立てて軋んだ。喉の奥から黒い血がせり上がる。
「お師匠様!」阿飛が叫び、身を乗り出す。
鉄猛は即座に右手を掲げて阿飛を制し、深く息を吸い込んだ。彼は目を閉じ、独特の逆腹式呼吸を用いて、暴走する内力を経絡に沿って静かに循環させる「調息調気法(ちょうそくちょうきほう)」を試みた。丹田に意識を集中し、乱れた気の奔流を一本の清流へと整えていく。数分の後、呼吸は静まり、喀血は免れたが、彼の胸に刻まれた「義への迷い」という傷は、脇腹の傷よりも深く彼を蝕んでいた。
そこへ、西域馬喰同盟(さいいきばくろどうめい)の頭領である張(チョウ)が姿を現した。日焼けした頑健な体躯に、馬の汗の臭いを漂わせた実務的な男だ。
「鉄の頭領、十三娘から話は聞いている。砂漠を走り抜けるための西域産の駿馬を五頭、裏口の厩舎に用意した。だが、太守府の目が厳しい。この状況で馬を出すのは、俺にとっても命がけだ」
鉄猛は懐から、会計士の銭先生が命がけで火の海から持ち出した「官銀(かんぎん)」の重い銀塊を取り出し、机の上に静かに置いた。鈍い光を放つ銀が、部屋の緊張感を僅かに和らげる。
「これで足りるか」
張は銀塊を手に取り、その重さを確かめると、満足げに頷いた。
「さすがは鉄骨鏢局、話が早い。裏口から出れば、すぐに馬に飛び乗れるようにしてある。急いで立ち去るがいい」
取引が完了した、まさにその瞬間だった。
一階の帳場から、ドタバタという騒がしい足音と、金属が擦れ合う不気味な音が響いてきた。
「州兵だ! 太守府の兵たちが店を取り囲んでいるぞ!」
十三娘の使用人の少年が、青ざめた顔で部屋に飛び込んできた。阿飛が即座に廊下へ出て、一階の様子を窺う。しかし、すぐに戻ってきて首を振った。
「お師匠様、正面玄関は完全に封鎖されています。鎧を着た兵士たちが、客を一人ずつ引きずり出して調べています。強行突破しかありません!」
鉄猛は立ち上がり、九環大刀を右手で引き寄せた。
「いや、ここで暴れれば、十三娘とこの店が灰になる。張、裏口の厩舎へ案内しろ。我らは馬を奪い、そのまま趙大刀(ちょうだいとう)の鍛冶場へ向かう。大刀の刃こぼれを直さねば、この先の砂漠は越えられん」
十三娘は鉄猛の袖を強く掴んだ。その瞳には、いつもの妖艶さはなく、ただ一人の男を深く案じる情が揺れていた。
「死なないでよ、鉄猛。あんたに死なれたら、私の濁酒を誰が美味そうに飲むのさ」
「恩にきる、十三娘」
鉄猛は短く答えると、小空を背負う阿飛を先頭に、裏手の階段へと急いだ。まさにその時、一階から激しい怒号と、食器が粉々に砕け散る凄まじい音が響き渡った。兵士たちが、ついに二階へと階段を駆け上がり始めていた。
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