霧雨の廃寺、影を追う刃
老胡の掘立小屋を蹴破って雪崩れ込んできた太守府の州兵どもを、老胡の無音の点穴と阿飛の決死の短剣によって辛うじて沈黙させた一行は、夜明け前の混濁した闇に紛れ、孤境の町を脱出した。目指したのは、町外れの岩山にひっそりと佇む荒れ寺――「静心寺」である。
夜明けと共に降り始めた霧雨が、砂塵にまみれた辺境の荒野を濡らしていく。冷たい雨滴は、廃寺の崩れかけた瓦を叩き、静まり返った本堂に低く単調な雨音を響かせていた。
「……すまない、浄雲住職。不義の徒に追われる身でありながら、仏門の静寂を汚してしまった」
本堂の煤けた床に腰を下ろし、鉄猛は隻腕――動かぬ左腕をだらりと下げたまま、静かに頭を下げた。彼の左肩は、大山魁の放った砕骨大槌の衝撃によって経絡が引き裂かれ、今なお焼けるような激痛が走っている。丹田の内力を練り上げようとするたびに、内傷の血が喉元までせり上がってくるのを、彼は強靭な意志で押し留めていた。
「鉄の頭領、案ずるな。仏の慈悲は、追われる者、傷ついた者にこそ開かれる。ここには我ら以外、誰も来ぬ」
静心寺を一人で守る老僧・浄雲は、穏やかな笑みを浮かべ、傷ついた阿飛の肩にすり潰した薬草を塗り、麻布を巻き直した。阿飛は痛みに歯を食いしばりながらも、隣で小さく丸まっている小空を気遣うように視線を送る。
小空は、鉄猛から渡された木彫りの小刀を小さな両手で固く握りしめ、本尊の剥げかけた仏像の足元にうずくまっていた。その瞳は恐怖で小刻みに揺れていたが、鉄猛の背中に縛り付けられた「天啓の鉄匣」の黒い光を見つめる時だけは、不思議な静けさを取り戻していた。
隅に控える副頭領の頑石は、巨大な玄鉄の大盾を壁に立てかけ、深く息を吐き出した。その呼吸には、微かに湿った重い喘鳴が混じっている。鉄猛はその音に気づいていたが、戦友のプライドを傷つけまいと、敢えて何も言わずに己の「九環大刀」を膝の上に横たえた。九つの鉄環が、冷たい空気の中で「チリン……」と微かな乾いた音を立てる。
(陸大兄の情報が、出発前にすでに漏れていた……。太守府のあの執拗な先回り、ただの山賊の夜襲ではない。誰かが、我らの歩みを正確に売ったのだ)
鉄猛は目を閉じ、乱れる息を「調息調気法」によって整えようとした。しかし、その静寂は長くは続かなかった。
雨音が、僅かに変わった。
屋根を叩く霧雨の音の中に、一瞬だけ、雨粒が弾ける周期とは異なる「無音の隙間」が生じたのだ。それは、風の揺らぎすら発生させぬほどに極限まで気配を消した、一流の暗殺者だけが用いる「百鬼消息術」の残影だった。
(――来る!)
鉄猛の首筋の産毛が逆立ち、彼の「殺気感知」が、背後の闇から迫る冷徹な敵意を捉えた。同時に、膝の上の九環大刀の鉄環が、空気の微細な振動に共鳴して「チリリ……」と鋭く鳴り響く。「刀鳴感知」の警告だ。
「阿飛、小空を伏せさせろ!」
鉄猛の叫びと同時に、本堂の薄暗い天井裏から、二条の鋭い閃光が音もなく放たれた。緋沙雨の「袖裏飛刀」――光を反射しない漆黒の極薄ナイフが、小空の喉元と鉄猛の眉間を目がけて一直線に飛来する。
「おおおっ!」
鉄猛は右手一本で、重厚な九環大刀を電光石火の速さで薙ぎ払った。金属音が本堂に炸裂し、火花が散る。叩き落とされた飛刀が床に突き刺さるのと同時に、天井の闇から影のような人影が舞い降りた。灰色の外套をなびかせ、身体に密着した黒い革鎧を纏った女――女傭兵、緋沙雨である。
「流石は『鉄腕』の鉄猛。隻腕でありながら、私の不意打ちを完璧に弾くとはね」
緋沙雨の唇に、不敵で冷ややかな笑みが浮かんだ。しかし、彼女の鋭い双眸は、鉄猛の背後にある「天啓の鉄匣」と、怯える小空を冷酷に射抜いていた。
「お師匠様、ここは俺が!」
傷ついた阿飛が、青鋼の短剣を抜いて叫び、左右非対称の軌道を描く「蛇行歩」で緋沙雨の側面へと突進した。だが、緋沙雨は鼻で笑うと、幽霊のように滑らかな軽功「幽冥歩法」でその刃を紙一重でかわし、手首の微細なスナップだけで阿飛の胸元を強く突いた。内力を込められたその衝撃により、阿飛は防ぎきれずに壁際へと弾き飛ばされ、激しく咳き込んだ。
「阿飛!」
鉄猛は叫び、右手一本で九環大刀を構え直した。左腕はだらりと下がったままだ。防御の要である左半身が完全に無防備であることを見逃すほど、緋沙雨は甘い暗殺者ではなかった。
「隻腕の老兵に、その黒い箱とガキは重すぎる。大人しく引き渡せば、命だけは助けてあげるよ。太守府の提示した賞金は、私一人で山分けするには多すぎるからね」
「鏢箱は依頼主の許可なく開けてはならない。それが鏢客の命だ。お前のような金で魂を売る傭兵に、この鏢を渡すわけにはいかん!」
鉄猛は両足を地面に深く沈み込ませ、自らの体を大岩のように固定する「千斤墜」を発動した。動かぬ左腕のハンディキャップを、絶対的な防御の構えで補うためだ。全身の筋肉が鉄板のように硬化する「鉄骨功」の気が皮膚を覆う。
「なら、力ずくで奪うまで!」
緋沙雨の姿が一瞬にして霧の中に消えた。次の瞬間、鉄猛の死角である左側から、無音の飛刀が三振、同時に放たれた。鉄猛は「刀鳴感知」を頼りに大刀を振るい、二振を叩き落としたが、最後の一振が彼の左脇腹をかすめ、衣服を切り裂いた。衣服の下に仕込んだ「鉄骨鎧」に金属的な火花が散り、致命傷こそ免れたものの、強烈な衝撃が鉄猛の傷ついた経絡を激しく揺さぶる。
「ぐっ……!」
鉄猛の口から、微かに黒い血が漏れた。それを見た緋沙雨は、勝利を確信したように至近距離へと踏み込み、袖裏から引き抜いた短剣で鉄猛の喉元を突き刺そうとする。
キィィィン!
右手一本で支えられた大刀の刃と、緋沙雨の短剣が正面から激突した。凄まじい内力の火花が二人の顔を照らし出す。至近距離での鍔迫り合い。視線が、極限の距離で交錯した。
その瞬間、鉄猛は緋沙雨の冷徹な瞳の奥に、ある「翳り」を見た。それは、金に飢えた殺人鬼のそれではない。かつて病床の我が子を救えず、深い悔恨と絶対的な孤独の中で心を閉ざした、自分自身の瞳と同じ「魂の傷」だった。
「……お前の刃は、冷たいが迷っている」
鉄猛は、血の混じった息を吐き出しながら、静かに、しかし重い言葉を投げかけた。
「何だと……?」
「お前は金のために動いていると言ったな。だが、お前の目には、生への執着も、殺戮の悦びもない。ただ、自らの心を殺し、孤独の闇の中で彷徨っているだけだ。かつて、大切な者を守れずに全てを捨てた……あの頃の私と同じ目の色をしている」
その言葉は、緋沙雨の胸の奥深くに隠された、戦乱で家族を失った過去のトラウマを容赦なく撃ち抜いた。彼女の完璧だった内力の流れが、一瞬だけ激しく乱れ、短剣を押し込む手の力が微かに緩んだ。
「黙れ……! お前に私の何がわかる!」
緋沙雨の叫びは、初めて感情を露わにした、傷ついた獣の咆哮のようだった。彼女は強引に刃を引きはがし、霧雨の立ち込める本堂の奥へと飛び退いた。一触即発の緊迫した静寂が、再び廃寺を支配する。二人は互いに武器を構えたまま、霧の中で無言の対峙を続けていた。
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