死線を這う牙
地蛇道の暗闇は、湿った泥と腐植の臭いに満ちていた。背後の石扉が完全に閉ざされてから、どれほどの時間が経ったのだろうか。地の底から響くような鈍い衝撃音が、閉ざされた石扉の向こうから幾度も伝わってくる。大山魁率いる山賊どもが、力任せに扉を叩き割ろうとしているのだ。その不気味な響きが、細く狭い地下通路の壁を伝って鉄猛の耳朶を揺らした。
「……進むぞ。立ち止まれば、ここで生き埋めだ」
鉄猛の声は低く、掠れていた。彼の右手は使い古された九環大刀の柄を固く握りしめていたが、その指先は微かに震えていた。左肩の古傷は、大山魁の放った砕骨大槌の衝撃を受け止めたことで、肉が焼け焦げるような激痛を放ち続けている。さらに、無理に内力を引き出した代償として、喉の奥には鉄錆に似た血の味がじわりと広がっていた。だが、彼は決して弱音を吐かない。背中に太い鉄鎖で固定された「天啓の鉄匣」の冷たい感触と、その下に隠れるようにして彼にしがみついている小空の小さな体温だけが、老兵の肉体を動かす唯一の楔だった。
小空は鉄猛の背中で、声も出せずにガタガタと震えていた。その小さな手は、鉄猛が渡した亡き息子・鉄嵐の形見である木彫りの小刀を、指先が白くなるほど強く握りしめている。鏢局を包囲した紅蓮の炎、そして鉄三が自らの肉体を盾にして崩れ落ちる天井を支え、仁王立ちのまま息絶えたあの凄惨な最期――六歳の幼子にとって、それは魂を削り取るほどの恐怖であったに違いない。
「お師匠様……前方の空気、微かに動いています。出口が近い」
闇の中を進んでいた阿飛が、低く押し殺した声で告げた。彼の持つ青鋼の短剣が、わずかな湿気を含んだ冷気を受けて鈍く光る。阿飛の足取りには、自らの未熟さゆえに仲間を死なせてしまったという悔恨と焦燥が滲んでいた。
彼らの後ろを歩く副頭領の頑石は、巨大な玄鉄の大盾を構えたまま、暗闇の中で一度だけ低く咳き込んだ。その音には、微かに湿った重い響きが混じっている。鉄猛はその音に眉をひそめたが、今はそれを問い詰める猶予はなかった。頑石の身体を蝕む不治の病の影は、静かに、しかし確実にその命の灯火を削りつつあった。
地蛇道の終端に達すると、頭上に錆びついた鉄格子が見えた。孤境町の隅に放置された、干上がった古い大井戸の底だ。鉄猛は右手一本で大刀を背中に回し、片腕だけで鉄格子を押し上げた。軋む音が夜の静寂に響かないよう、細心の注意を払いながら、彼らは一人ずつ這い出た。
夜明け前の孤境町は、乾燥した冷たい風が吹き荒れ、砂嵐の残骸が路地に薄く積もっていた。だが、町を包む空気は異常なほどに張り詰めている。遠くの主要街道からは、松明の赤い光が無数に揺らめき、甲冑の擦れる金属音が風に乗って聞こえてきた。
「……ちっ、やはりか」
鉄猛は目を細めた。町の主要な交路や裏路地の入り口には、すでに太守・趙廷蘭が放った辺境太守府の州兵たちが立ち塞がっていた。彼らは「三流武芸者(泥足)」と呼ばれる、内力を持たぬ粗野な兵卒たちであったが、その数は通常の十倍以上。手にした長槍と弓矢の群れは、個人の武勇を物理的に圧殺するには十分な脅威だった。町全体が、鉄猛たちの首に賭けられた巨額の懸賞金を狙う官憲の手によって、完全に封鎖されていたのだ。
「お師匠様、裏口の厩舎から馬を奪うのは不可能です。あそこには太守府の精鋭がすでに陣取っています」
先行して偵察に向かった阿飛が、青ざめた顔で戻ってきた。彼の予測は正しかった。趙廷蘭は鉄猛たちの逃走経路を完全に先読みしている。まるで、出発前から彼らの行動がすべて筒抜けであったかのように。
(陸大兄が辺境に達する前に、すでに情報が漏れていたのか……?)
鉄猛の脳裏に不穏な疑惑がよぎる。しかし、それを考える暇もなく、彼らが潜む裏路地の角から、松明を持った三人組の州兵の足音が近づいてきた。砂を踏みしめる不規則な足音。回避する余地はない。
「誰だ! そこを動くな!」
州兵の隊長が、暗闇の中に佇む鉄猛たちの影を捉え、鋭い声を上げた。その手は、腰に下げた合図用の警笛へと伸びる。吹かれれば、一瞬にして周囲の数百の州兵がこの狭い路地に殺到するだろう。
「やらせるか!」
阿飛が地を蹴った。彼は上半身を左右に激しく揺らしながら、敵の射手の視界を狂わせる「蛇行歩」を繰り出し、一瞬にして距離を詰める。しかし、動揺からかその踏み込みは僅かに浅く、州兵の放った一本の矢が彼の袖をかすめて壁に突き刺さった。
隊長が警笛を口に咥え、息を吸い込んだその瞬間、鉄猛の巨躯が風のように動いた。左腕は動かない。だが、右手一本で引き抜かれた九環大刀が、夜闇を裂いて半透明の鋭い刀気を放った。九つの鉄環が「シャン!」と一度だけ鋭く鳴り響く。それは、風の止んだ静寂の中で殺気に共鳴する「刀鳴感知」の冴えだった。
一閃。
警笛が音を奏でる前に、隊長の首は無言のまま宙を舞った。鮮血が噴き出す前に、鉄猛はその身体を片手で受け止め、静かに地面へと横たえる。無駄のない、冷徹極まる達人の一撃だった。
しかし、残された二人の州兵のうち一人が、恐怖に駆られて叫び声を上げようとした。阿飛が瞬時に青鋼の短剣を投擲し、その喉元を正確に貫く。だが、倒れた兵士の身体が、身につけていた重い鉄甲冑と共に「ガシャァン!」と激しい音を立てて石壁に激突してしまった。
静まり返った裏路地に、その金属音が不気味に響き渡る。数一〇歩先の本街道から、一斉に複数の足音がこちらに向かって方向を変えるのが分かった。
「まずい、気づかれた……!」
阿飛が短剣を回収しながら焦りの声を上げる。鉄猛の呼吸は激しく乱れ、左肩の古傷から流れる血が革鎧を黒く染めていく。小空は恐怖のあまり、鉄猛の背中で今にも気絶しそうに呼吸を止めていた。逃げ場のない狭い路地裏。包囲網が急速に狭まっていく。
「こっちだ、鉄の頭領……。早くしろ」
突如として、路地の奥の暗闇から、低く掠れた老人の声が響いた。ボロ布を纏い、白濁した両目を持つ盲目の物乞い――老胡だった。彼は手にした竹の杖で静かに地面を叩き、彼らを闇の奥へと誘う。
「老胡……なぜここに」
「無駄口を叩いている時間はない。官の猟犬どもがすぐそこまで来ている」
老胡はそう言うと、倒れて悶絶していた最後の州兵の元へ音もなく近づき、手にした竹の杖の先で、兵士の胸元を鋭く突いた。微かな「プツリ」という音と共に、兵士は声を失い、その場に崩れ落ちる。盲目を装いながらも、寸分の狂いもなく経穴を撃ち抜く「点穴」の神技。鉄猛はその一瞬の身のこなしに、物乞いらしからぬ、かつての超一流の武芸者の残影を見た。
「アイヤァ! 俺の酒が消えた! 誰だ、俺の濁酒を盗んだ不届き者は!」
老胡は突然、大声で狂ったように叫びながら、手にした空の陶器の鉢を地面に叩きつけて割った。その騒々しい物乞いの奇行が、路地裏に侵入しようとしていた別の州兵たちの注意を引く。
「おい、なんだあの盲目の乞食は。ただの酔っ払いか」
「関わるな、時間が無駄だ。あっちの金属音を探せ!」
州兵たちの足音は、老胡の陽動によって別の路地へと遠ざかっていった。その隙に、老胡は鉄猛たちの袖を引き、ゴミ捨て場の奥にある、崩れかけた不気味な木造の掘立小屋へと彼らを滑り込ませた。
小屋の内部は、カビと煤の臭いに満ちていた。薄暗い一角に小空を下ろし、鉄猛は壁に背を預けて深く息を吐いた。丹田の内力を整えるため、静かに「調息調気法」を試みるが、左肩の激痛が経絡の流れを阻害し、鋭い痛みが全身を駆け巡る。
「鉄の頭領、ずいぶんと無茶な鏢を引き受けたものだな」
老胡は盲目の目を彼らに向け、気配だけで周囲の状況を完全に把握しているかのように語りかけた。彼は懐から汚れた麻布を取り出し、鉄猛の傷口に押し当てる。
「太守の趙廷蘭は本気だ。お前たちの首には、辺境の役人が一生遊んで暮らせるほどの懸賞金がかけられている。町を脱出するルートは、すべて官軍と黒風山寨の山賊どもによって二重に封鎖されているぞ」
「……承知の上だ。だが、一たび引き受けた鏢は命に代えても届ける。それが鉄骨鏢局の掟だ」
鉄猛の言葉に、老胡は小さく鼻で笑った。「時代遅れの頑固者め。だが、その愚直さだけは、かつての中原の侠客たちと変わらんな」
老胡はそう言いながら、鉄猛の背後で小さく丸まっている小空の元へと歩み寄った。盲目の老人は、痩せ細った、しかし驚くほど滑らかな指先を伸ばし、小空の顔の輪郭、そして耳の形を静かに、愛おしむように触り始めた。
小空は怯えて身を引こうとしたが、老胡の指先から伝わる不思議な温もりに、静かに身を委ねた。老胡の手指が、小空の耳の裏側にある、微かな「二重の軟骨の隆起」に触れた瞬間、老人の身体が目に見えて激しく震えた。
「……あぁ、この耳の形……。そして、この気品ある息遣い……」
老胡の潰れた白濁した両目から、静かに涙が溢れ落ち、汚れた頬を濡らした。彼の脳裏には、数十年前、自らが目を潰されて全てを失う前に仕えていた、あの前朝の宮廷のまばゆい光景が、そして悲劇の君主の面影が、鮮明に蘇っていたに違いない。
「間違いない……。あなた様は、あの御方の……」
老胡が小空の前に膝をつき、宮廷の最上級の礼節である「跪拝」の姿勢を取ろうとした、まさにその瞬間だった。
ダァン!
掘立小屋の薄い木製の扉が、外から猛烈な力で蹴破られ、乾いた木片が室内に飛び散った。砂嵐の冷たい風と共に、血の匂いを漂わせた数人の影が、月光を背に受けて立ちふさがった。
「見つけたぞ、鉄骨鏢局の生き残りめ。太守府の賞金は、俺たちがいただく!」
蹴破られた扉の向こうに立っていたのは、趙廷蘭直属の残忍な兵士たちだった。彼らの手にする大刀には、すでに誰かの血が赤くこびりついていた。
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