託された重き箱
砂嵐が、乾いた獣の咆哮のように、古い木造の壁を叩き続けていた。
中原の肥沃な大地から遥か遠く、黄砂の海に沈んだ辺境の宿場町「孤境」。ここには朝廷の威光も届かず、武林の名門正派が掲げる大義名分も砂に埋もれて消える。ただ力と、僅かな水だけが法を支配する無法の地だ。その片隅に佇む「鉄骨鏢局・孤境支部」の看板は、長年の砂風に晒されて文字が半分以上掠れていた。
「……また、この傷が騒ぎおる」
鉄猛は、色褪せた茶色の革鎧の隙間から、自らの左肩を太い指で強く押さえた。五十二歳。武芸者としてはすでに枯れた老境に入りつつある肉体だ。砂漠の冷え込む夜気が、かつて戦場で負った古い内傷を容赦なく抉るように疼かせていた。
彼は手元に置いた「九環大刀」に視線を落とした。背部に通された九つの鉄環が、風の振動を受けて「チリン……」と微かな音を立てる。初代頭領・鉄百川から受け継いだこの重厚な大刀は、今や刃こぼれが目立ち、鉄猛の人生そのもののように傷だらけだった。鉄猛は静かに布を滑らせ、大刀の錆を拭う。失った妻、そして病から救えなかった実の息子、鉄嵐の面影が、鉄の冷たい光の中に浮かんでは消えた。
「もう、俺の時代は終わったのだ」
そう呟き、懐から古びた革の手帳を取り出す。師父が遺した「鏢師の十戒手帳」だ。その最初の頁には、太い墨文字でこう記されていた。
――一たび引き受けた鏢は、命に代えても届けるべし。
かつて中原の街道を堂々と闊歩し、数々の名鏢を送り届けてきた鉄骨鏢局も、今やこの寂れた辺境で細々と日銭を稼ぐだけの存在に成り下がっていた。鉄猛は静かに目を閉じ、過去の栄光と悔恨を黄砂の奥へと押し込もうとした。
その静寂が、唐突な衝撃によって打ち破られた。
バキィン、と激しい音を立てて、鏢局の頑丈な木扉が押し開かれた。いや、内側へ叩き割られたのだ。吹き込んできた激しい砂嵐と共に、一人の血塗れの男が床へと崩れ落ちた。
「猛……テツ・モウ、そこにいるのか……!」
「陸大兄……!?」
鉄猛は跳ね起きるように大刀を握り、男へと駆け寄った。血塗れの官服を纏い、全身に数え切れない矢傷を負ったその男は、かつて戦場で幾度も背中を預け合った義兄弟、陸大兄だった。その腕の中には、泥と血に汚れた上質な絹の衣服を着た、怯えた目を持つ六歳ほどの幼子――小空が抱えられていた。そして、陸大兄の背中には、複雑な歯車と不気味な銘文が刻まれた漆黒の「天啓の鉄匣」が、太い鉄鎖で固く縛り付けられていた。
「どうした、この傷は! 誰にやられた!」
鉄猛は即座に指先を突き出し、陸大兄の胸元と喉元の経穴を強く突いた。血流を止め、内力の霧散を防ぐための点穴処置だ。さらに自らの丹田から、温かい内力を練り上げ、陸大兄の背中から経絡へと送り込もうとした。しかし、内力を流し込んだ瞬間、鉄猛の顔が驚愕に歪んだ。
陸大兄の経絡は、内側からずたずたに引き裂かれていた。まるで、無数の棘が体内を暴れ回ったかのように。
「無駄だ、猛……。奴らの『逆棘の暗器』が、俺の五臓六腑をすでに骨ごと噛み砕いている。俺の内力では、もうこの毒と出血を抑えきれん……」
陸大兄は黒い血を吐き出しながら、鉄猛の太い腕を、骨が軋むほどの力で掴み返した。その瞳には、死を目前にした者だけが持つ、狂気的なまでの忠義の炎が揺らめいていた。
「この子を……小空様を頼む。前朝の最後の血脈なのだ。現皇帝の簒奪者どもは、この子の存在を恐れ、天下の暗殺者をすべて動員して追ってくる……!」
「前朝の血脈だと? 陸大兄、お前は朝廷の簒奪劇に巻き込まれていたのか……!」
「この『天啓の鉄匣』の中に、現皇帝が前皇帝を毒殺した動かぬ証拠……血塗られた遺言書が眠っている。だが、この匣は小空様の血にしか反応しない。この子が生きて中原の柳将軍の元へ届けば、天下の不義は正される。猛、お前しかいないのだ……。俺の最後の鏢を、届けてくれ……!」
陸大兄の言葉は、激しい咳と共に途切れた。その傍らで、六歳の小空は、血塗れの陸大兄の袖を小さな手で握りしめ、声も出せずにガタガタと震えていた。その怯えきった瞳を見た瞬間、鉄猛の胸に、かつて病床で己の手を握りながら息を引き取った息子・鉄嵐の姿が重なった。あの時、自分は鏢の任務を優先するあまり、息子の最期に間に合わなかった。その深い悔恨が、今も鉄猛の魂を縛り付けている。
鉄猛は震える小空の前に膝をつき、自らの革鎧の奥から、一本の小さな木彫りの小刀を取り出した。それは、かつて嵐のために削ってやった、息子の唯一の形見だった。
「これを持っていなさい。悪いものは、俺がすべて切り払う」
不器用な、しかし岩のように揺るぎない声だった。小空は涙に濡れた目で鉄猛を見上げ、その小さな手で木彫りの小刀をきゅっと握りしめた。その瞬間、血の繋がりを超えた、目に見えない絆の糸が二人を繋いだ。
陸大兄はそれを見て、満足げに微かに微笑んだ。しかし、彼の掴んでいた手の力が、急速に失われていく。
「猛、頼んだぞ……。鏢局の……男の『信義』を……」
それが、陸大兄の最期の言葉となった。かつての戦友は、目を見開いたまま、静かに息を引き取った。鉄猛は無言で陸大兄の瞼を閉じ、その遺体から「天啓の鉄匣」を縛り付けていた鉄鎖を解き、自らの背へと回した。黒鉄の匣は、冷たく、そして国家の運命そのもののように重かった。
鏢箱は依頼主の許可なく開けてはならない――「不開の戒」。
鉄猛は、この匣の中身が何であろうと、ただ「届ける」という掟を貫くことを心に誓った。彼は懐の手帳を強く握りしめ、自らの隠棲生活の完全な終焉を受け入れた。
だが、感傷に浸る時間は一瞬すら与えられなかった。
ヒュオオオ……と窓の外で鳴り響いていた砂嵐の音が、突如として不自然に途絶えた。風が止んだのではない。周囲の空気が、異常なまでの緊張感によって押し潰されたのだ。
鉄猛の傍らに立てかけられた九環大刀の鉄環が、「チリ……チリ……」と、耳を澄まさねば聞こえないほどの微細な振動を始めた。鉄猛の皮膚の産毛が逆立つ。長年の戦場で培われた「殺気感知」と、大刀の共鳴による「刀鳴感知」が、同時に警鐘を鳴らしていた。
(来おったか……。それも、ただの山賊ではない。この息の殺し方、中原の一流の暗殺者どもだ)
鉄猛は小空を自らの背後に引き寄せ、九環大刀の柄を右手で固く握りしめた。左肩の古傷が、激しい戦闘の予感に応じるように、ずきずきと熱く疼き始める。襲撃の全貌はまだ見えない。しかし、彼らを取り囲む闇の奥から、確実に死の罠が狭まりつつあった。
次の瞬間、鋭い風切り音と共に、夜闇を切り裂く一条の赤い光が視界をよぎった。
「ヒュッ――!」
放たれた火矢が、鏢局の紙窓を突き破り、乾燥した木造の梁へと突き刺さる。それを合図にするかのように、夜空から無数の火矢が雨あられと降り注ぎ、古い鏢局の建物を一瞬にして赤く染め上げていった。炎の粉が、鉄猛の眼前に舞い散る。
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