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地下の聖域

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桐生蓮の左胸から手を離した瞬間、手のひらに残っていた熱が、冷気となって皮膚に染み込んでいくようだった。脈打つのは、紛れもなく亡き婚約者・瀬尾航平の心臓。しかし、それを取り囲む強靭な肉体と冷酷な魂は、目の前で不敵に微笑むマフィアのボスのものだった。


「……案内して」


律子は右手首のプラチナブレスレットを隠すように、白衣の袖を強く引き下げた。蓮の手から逃れようと抗った際に刻まれた、プラチナの鋭いエッジによる細い裂傷。そこから滲み出た微かな血の玉が、今も脈打つたびにズキズキと痛む。だが、彼女は痛みを表情に一切出さず、ベッドの傍らに立つ若頭・龍崎徹を冷徹に見据えた。


蓮はベッドのヘッドボードに背を預けたまま、その漆黒の双眸で律子の動きを追っていた。その視線は、獲物を檻に閉じ込めた捕食者のそれでありながら、同時に自らの生を繋ぐ唯一の救世主に対する、狂おしいほどの執着を孕んでいる。


「こちらだ、篠原先生」


龍崎が静かに頭を下げ、主寝室の重厚なダブルドアを開けた。律子は蓮に背を向け、一歩を踏み出す。背後から、懐中時計のチェーンに繋がれた航平の形見の指輪が、蓮の衣服に擦れて小さく金属音を立てるのが聞こえた。その音が、彼女の背中に見えない鎖となって絡みつくようだった。


霧ヶ丘別邸の廊下は、外の激しい雨音を厚い石壁で遮断し、不気味なほどの静寂に包まれていた。等間隔に配置された黒いスーツの構成員たちが、微動だにせず律子を監視している。彼らの視線には、ボスを救った執刀医への敬意と、同時に一歩でも不審な動きを見せれば即座に排除するという、裏社会特有の冷酷な警戒が混ざり合っていた。


龍崎は無言で洋館の奥へと進み、一階の突き当たりにある隠しエレベーターの前に立った。彼が壁の装飾に偽装されたスキャナーに指紋を押し当てると、静かに金属の扉が開く。地下へと急降下するエレベーターの中で、律子は自分のスマートフォンを取り出し、画面を見つめた。画面には、蓮の胸に直接貼り付けられたパッチ型モニターと同期した「パルス・リンク」の波形が、規則正しく、しかし百回前後の高い心拍数を維持しながら刻まれている。この鼓動が、彼女の美紀を救うための唯一の担保だった。


「着いたぞ」


エレベーターの扉が開いた瞬間、律子は息を呑んだ。目の前に広がっていたのは、古びたゴシック調の洋館からは想像もつかない、白磁の光に満ちた最先端の医療空間だった。


「ここは……」


「霧ヶ丘別邸・地下隠設手術室だ。ボスの万が一の事態に備え、我々が総力を挙げて構築した」


龍崎の声が、窓のない冷たい金属の壁に反響する。空気は完全に無菌管理されており、大学病院の第一オペ室にも劣らない最新鋭の医療機器が整然と並んでいた。壁一面のステンレスパネルが、天井のブルーホワイトのLEDライトを反射して冷たく輝いている。その中央で静かに駆動音を立てていたのは、大型の医療機器だった。


律子は引き寄せられるようにその機器に近づき、その表面を指先でなぞった。頑丈な金属フレーム、精密な流量コントロールバルブ。それは、世界的な医療機器エンジニアである大野昭三がカスタマイズした、ポータブル人工心肺装置「エキシマ-900」だった。大野の無骨で完璧なプロの整備技術が、その機械の隅々にまで行き渡っている。だが、律子の鋭い瞳は、機器のフレームの側面に刻まれた不自然な擦り傷を見逃さなかった。


「シリアルナンバーが、完全に削り落とされているわね」


律子は冷ややかな声を龍崎に向けた。


「メーカーのロゴも、出荷記録の金属プレートも、すべてグラインダーで削られている。龍崎さん、これは『桐生興業』というあなた方のフロント企業が、海外の闇市場から非合法に密輸した機材でしょう。厚生労働省の未認可どころか、盗品か闇取引の横流し品よ。医師として、こんな足のつく違法な機材を使うことは認められないわ」


龍崎は眉一つ動かさず、完璧に着こなしたスーツのポケットに手を入れ、冷徹に言い放った。


「ボスの命を救うためなら、我々は神の国の法律すら無視する。篠原先生、お前が白い巨塔で培った高潔な医療倫理など、この地下では何の意味も持たない。必要なのは、この機材を使ってボスの心臓を動かし続ける、お前の『神の手』だけだ」


「極道の論理ね。反吐が出るわ」


律子は吐き捨てるように言い、手術室の天井の四隅に設置された高精細のドーム型防犯カメラを見上げた。


「それから、このカメラ。24時間体制で私の一挙手一投足を監視するつもり?」


「当然だ。お前がボスに対して不審な動きをしないか、セキュリティ責任者の吉岡が常に監視している」


「なら、今すぐそのカメラの一部を停止させなさい。少なくとも、術野と私の手元を映すカメラの角度を変えて、死角を作りなさい」


律子の要求に、龍崎の目が鋭く細まった。「人質の分際で、防衛プロトコルに口を挟むな」と無言の圧力が室内に満ちる。だが、律子は一歩も引かず、エキシマ-900の制御パネルを指し示した。


「これは、大野昭三が極限までスペックを引き上げた超精密機械よ。その高周波ワイヤレスカメラから発せられる微弱な電磁波ノイズが、エキシマ-900の微小流量センサーに干渉するリスクを考えたことはある? 手術中、コンマ数ミリ秒の信号ラグが発生しただけで、人工心肺は誤作動を起こし、ボスの脳への酸素供給は一瞬で停止するわ。ボスを脳死にさせたいなら、そのカメラで私の手元を舐めるように監視し続ければいい」


「電磁波の干渉だと……?」


「嘘だと思うなら、大野に確認を取りなさい。技術者なら私の指摘が100%正しいと証明するわ。手術室の防犯ルールを優先してボスを殺すか、私の作業環境の安全を確保してボスの命を繋ぐか、選びなさい」


龍崎は沈黙した。律子の論理には、マフィアの脅迫を跳ね返すだけの、医師としての絶対的な専門性と科学的根拠があった。龍崎は懐から通信機を取り出し、セキュリティ室の吉岡へ低い声で指示を出した。


「吉岡、地下手術室のカメラ3号と4号の出力を下げ、角度を北壁側に15度シフトしろ。……ボスのバイパス維持のためだ。異論は認めん」


通信を終えた龍崎が、冷たい視線を律子に戻す。


「カメラの死角は認めた。これで満足か」


「もう一つ。外部の沙織――私の麻酔科医に直接電話をかけさせて。人工心肺を稼働させるには、彼女の術中管理が不可欠よ」


「それは却下だ」


龍崎の声は、鉄のように硬かった。


「外部との直接の通信は、いかなる理由があろうとも認められない。すべての通信は吉岡の検閲下にある。必要があれば、我々のルートでお前の親友をここに連れてくる。お前はただ、与えられた環境でメスを握ることだけを考えろ。これ以上の要求は、美紀ちゃんの安全を脅かすことになるぞ」


美紀の名前を出された瞬間、律子の胸に冷たい刃が突き刺さる。彼女はそれ以上言葉を続けることができず、ただ悔しさに唇を噛み締めた。外部との自由な通信権を完全に奪われ、非合法な医療資材の使用を受け入れる。医師としての誇りと倫理を、この闇の聖域で切り売りしていくことへの激しい屈辱と自己矛盾が、彼女の精神をじわじわと蝕んでいく。


「検品と初期セットアップには時間がかかるわ。一人にして」


「いいだろう。だが、島崎をドアの外に配置する。逃げようなどとは考えるな」


龍崎はそう言い残すと、腰のホルダーから一枚のチタン製のスマートカードキーを取り出し、手術室のデスクの上に置いた。それこそが、指紋認証と128ビット暗号が組み合わされた「別邸隠設手術室の電子マスターキー」だった。龍崎が去り、防爆扉が重々しい音を立てて閉まると、手術室は完全な静寂に包まれた。


律子はデスクに近づき、その冷たいチタン製のカードキーを手に取った。ずっしりとした重みが、自らがマフィアの「共犯者」としての深淵へ足を踏み入れた事実を物理的に証明しているようだった。


彼女は白衣のポケットから自らのスマートフォンを取り出した。パルス・リンクのアプリ画面の裏で、橘遥医師から極秘裏に同期された「美紀の最新『心機能評価データ』のタブレット」のデータフォルダを開く。


画面に表示されたのは、美紀の弱々しく、不規則に脈打つ心エコーの超音波画像だった。心筋は薄く引き伸ばされ、血液を送り出す力がほとんど残っていない。画面の端に、鮮烈な赤字で刻まれた評価数値が、律子の視界を絶望的に歪めた。


『左室駆出率(EF値):18%』


「……嘘よ」


律子はスマートフォンの画面を凝視したまま、息を止めた。EF値18%。それは、いつ致死的な心室細動を起こして突然死してもおかしくない、末期の拡張型心筋症を示すデッドラインだった。橘医師のメモが添えられている。『一刻も早い移植、あるいは渡航心臓移植の準備が必要です。彼女にはもう、時間が残されていません』


時間のなさが、津波のように律子の理性を押しつぶそうとする。ここで完璧に蓮の心臓を維持し、桐生組の資金提供(5億円の信託口座)を維持し続けなければ、美紀はアメリカへ渡る前に、この日本の白い巨塔の片隅で静かに息を引き取ることになる。美紀の命の砂時計が刻む焦燥感が、律子の胸を締め付けた。


「私が……救わなきゃいけない」


律子はスマホをポケットに収めると、準備室の棚からイソプロピルアルコールと滅菌ガーゼを取り出した。右手首のブレスレットを強引に外そうとして刻まれた、プラチナのエッジによる擦り傷。そこから滲み出る血を、アルコールを浸したガーゼで強く拭った。


「っ……!」


強烈な灼熱感が皮膚を焼き、律子は思わず顔をしかめた。だが、その劇痛が、彼女の脳内に渦巻く恐怖と絶望を冷徹に薙ぎ払っていく。手の震えが完全に止まった。


彼女はガーゼをゴミ箱に捨て、デスクの上に置かれたチタン製の電子マスターキーを再び手に取った。そのエッジを指先で強く握りしめる。金属の冷たさが、彼女の魂を氷の執念へと変えていくようだった。


「私は医者よ。どんな闇の中でも、命だけは支配してみせる」


律子は誰に言うでもなく、無菌室の冷たい静寂に向かって静かに独りごちた。その瞳には、最愛の航平の心臓を宿した宿敵を生かし続け、同時に妹の命をこの裏社会の泥沼から救い出すという、狂気的なまでの覚悟の光が灯っていた。

HẾT CHƯƠNG

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