プラチナの鎖
引きちぎられたシルバーチェーンの冷たさが、鎖骨のあたりに微かな痛みを残していた。
霧ヶ丘別邸の主寝室。窓外に広がる鬱蒼とした森を激しい雨が叩き、ガラスを伝う水滴が部屋の薄暗い影をいっそう深く見せている。篠原律子は、切り裂かれた首元の赤い線を手で覆うこともせず、ただ目の前のベッドに横たわる男を睨みつけていた。
桐生蓮。深浜市の裏社会を支配する桐生組の若きボスであり、律子の最愛の婚約者――瀬尾航平の命をその胸に奪い去った男。
蓮の大きな手のひらの中で、航平の形見であるチタン製の指輪が鈍く光を反射している。蓮は表情一つ変えないまま、その指輪をゆっくりと持ち上げた。そして、自らのスーツの胸ポケットから、銃弾を受け止めて歪んだ銀製のアンティーク懐中時計を取り出す。彼は長い指先を器用に動かし、時計の頑丈な銀のチェーンに、律子から奪ったばかりの指輪をカチリと繋ぎ止めた。
「これで、お前の過去は俺の胸ポケットに収まった」
蓮の声は低く、術後の衰弱を感じさせないほどの絶対的な威厳に満ちていた。懐中時計が衣服に擦れる微かな金属音が、律子の耳には航平の魂がこの怪物に囚われた葬送の鐘のように響く。
「返して……」
律子は一歩踏み出し、絞り出すような声で言った。怒りで全身が小刻みに震えている。
「それは、私のすべて。あなたのような人殺しが触れていいものじゃない。今すぐ返しなさい!」
「お前のすべては、先ほど俺が買い取ったはずだ。美紀の命と引き換えにな」
蓮が微かに顎を引くと、背後に控えていた若頭の龍崎徹が、無言で一歩前に出た。彼の手に握られていたのは、ベルベットの敷かれた小さな黒いケースだった。龍崎がそれを開くと、中には細く、驚くほど精巧に磨き上げられたプラチナ製のブレスレットが収められていた。
一見すると、高級な宝飾品にしか見えない。しかし、律子は心臓外科医としての冷静な観察眼で、その中央に埋め込まれた極小の電子基盤と、ロック部分の特殊なシリンダー構造を一瞬で見抜いた。
「……GPS発信機」
「軍用の特殊仕様だ」蓮がベッドから、上気した広い胸を微かに動かして言った。「鍵なしでは物理的に外すことはできない。無理に壊そうとすれば、内蔵された高圧ロックが作動し、お前の華奢な手首の骨を容易に粉砕する」
「私を、どこまで家畜のように扱えば気が済むの?」
律子の瞳に宿る、絶対に折れない「神の手」の光。それを見た蓮の薄い唇が、愉悦を孕んだ歪んだ笑みの形に変化した。
「家畜ではない。お前は俺の心臓を管理する、世界に一人だけの『専属医』だ。その価値に見合った最高級の檻を用意してやる」
蓮は突然、律子の右手を掴んだ。術直後とは思えないほどの強靭な握力が、律子の細い手首を完全にロックする。蓮の指先から伝わる、驚くほどの熱。それとは対照的な、プラチナの鎖が皮膚に触れた瞬間の、ゾッとするような金属の冷たさ。
「放して!」
律子は激しく手首を捻り、蓮の拘束から逃れようとした。しかし、その抵抗がプラチナの鋭いエッジに皮膚を擦りつけ、 pale な手首に一本の赤い筋が走り、微かな血の玉が滲み出る。それでも蓮の手はびくともしなかった。カチリ、と冷酷な電子ロックの音が寝室に響き渡る。
「無駄な真似はするな。お前の皮膚が裂けるだけだ」
蓮は律子の手を放すと、彼女のスマートフォンをテーブルの上に放り投げた。龍崎がそれを拾い、すでにインストールを完了させたアプリの画面を律子に示す。画面の中で、グリーンの波形が規則正しく、しかし力強く刻まれていた。
「パルス・リンク。俺の胸に直接貼り付けられたモニターと、お前の端末はリアルタイムで同期されている。俺の心拍数、不整脈の予兆、拒絶反応のシグナル――すべてがお前の手元で管理される」
蓮はベッドに深く背を預け、冷酷な「組長・絶対的支配者(ボス)」としてのオーラを周囲の空気に充満させた。
「ルールは単純だ。お前がこの別邸から半径一キロ以上離れた瞬間、アラートが飛び、別邸全体の防衛システムがロックダウンする。そして同時に――スイス銀行にある美紀ちゃんの特別治療基金口座は永久に凍結される。あの子の点滴が止まり、移植待機リストから名前が消える。簡単な方程式だろう?」
律子は呼吸を止め、床に投げ捨てられたブレスレットの重みを手首に感じながら、蓮を睨みつけた。美紀の命という最大の弱みを完璧に握り潰された絶望。しかし、彼女の心の中に眠る「医師としてのプライド」が、ただの獲物として捕食されることを拒絶していた。
律子は深く息を吸い込み、セルフマインドフルネスの呼吸で手の震えを完全に止めた。そして、一歩も引くことなく、逆に蓮のベッドの縁へと直接にじり寄った。彼との距離はわずか数十センチ。蓮の漆黒の瞳が驚きに微かに細まるのを、律子は見逃さなかった。
彼女は右手を伸ばし、蓮の広い胸元――白い清潔な包帯の上から、脈打つ左胸の心臓の真上へと、自らの手のひらを直接、強く押し当てた。
「なっ……篠原先生!」
背後で龍崎が鋭い声を上げ、ジャケットの内ポケットに手を伸ばす。しかし、蓮は片手を上げて龍崎を制した。彼の目は、自らの胸を冷徹に、しかし激しい執念で押し潰そうとする律子の瞳に釘付けになっていた。
手のひらから伝わる、トク、トク、トク、という重く力強い拍動。それは間違いなく、航平の心臓の鼓動だった。律子は自らの手の温度を、その心臓へと染み込ませるように力を込めた。
「忘れないで、桐生さん」
律子の声は、氷のように冷たく、極限まで研ぎ澄まされていた。
「あなたがお金をいくら持っていようと、どれほど強大な武力で私を縛ろうと、私の『技術』だけはあなたの思い通りにはならない。この心臓が今動いているのは、私のミリ秒単位の縫合があったからよ。一歩間違えれば、あなたの体はいつでもこの心臓を『異物』として拒絶し、壊死させる」
律子は蓮の顔に自らの顔を近づけ、その耳元に、命の生殺与奪権を握る者としての絶対的な宣告を囁いた。
「私を殺すのも、美紀を殺すのも自由よ。だけど、その瞬間にあなたの胸の心臓も止まる。主導権を握っているのは、あなたじゃない。この私よ」
至近距離で交差する二人の瞳。律子の不屈の眼光に射抜かれ、蓮の胸の奥で脈打つ鼓動が、急激にそのテンポを速めた。スマートフォンの画面に表示されたパルス・リンクの数値が、百一、百五、百十へと跳ね上がっていく。彼の強靭な精神コントロール(自己抑制能力)をもってしても、律子の放つ剥き出しの敵意と、手のひらから伝わる「血流共鳴」の予兆を隠し通すことはできなかった。
蓮は痛む胸を手で押さえることもせず、ただ歪んだ、狂おしいほどの独占欲をその瞳に湛えた。
「面白い……」
蓮は低い声で笑った。そして、律子の手のひらの上から、自らの大きな手を重ね合わせ、彼女を逃がさないように強く押し付けた。
「その目で俺を見続けろ、篠原律子。お前が愛した鼓動は、今や俺の肉体の一部だ。お前がどれほど俺を憎もうと、その手で俺を生かし続けるしかない」
蓮は律子の耳元に顔を寄せ、その髪を微かにかすめながら、熱い吐息と共に囁いた。
「俺の心臓がお前を求めて叫んでいる。この鼓動が止まるその日まで、お前は俺の傍で、俺の命の一部として生きるんだ」
その冷酷な言葉が耳腔に滑り込んだ瞬間、律子の胸の奥で、自らの心臓が激しく、狂ったように波打ち始めた。それは恐怖によるものなのか、それとも、奪われたはずの航平の鼓動が、この怪物の肉体を通じて自分を呼んでいるからなのか、彼女には判別がつかなかった。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!