崖の上の檻
「君の輝かしいキャリアも、医師としての人生も、今夜ここで完全に終わりだ。覚悟したまえ」
斉藤慎一郎副院長の冷酷な宣告が、静まり返った聖マリア中央病院のエントランスロビーに冷たく響き渡った。背後に控える警備員たちの無機質な視線が、篠原律子の全身を縛りつける。手術を終えたばかりの肉体は極限まで疲弊しており、肺の奥がひりひりと鳴っていた。
「……私の規律違反を不問にしろとは言いません」
律子はドクターコートのポケットの中で、航平の形見である「チタン製メスホルダー」を強く握りしめ、冷徹な声を返した。指先にかかる冷たいチタンの感触だけが、彼女の理性を辛うじて繋ぎ止めている。
「ですが、患者の命が危機に瀕していたのは事実です。緊急避難としての執刀です。それを私怨でねじ曲げ、医師免許の剥奪を画策するなど、副院長としての倫理を疑います」
「口を慎め、篠原!」斉藤は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。「マフィアのボスを救った犯罪者めが。君の処分は明日、正式に理事会で決定される。それまで自宅で大人しく震えているがいい。警備員、この女を今すぐ敷地外へつまみ出せ!」
屈強な警備員たちに両腕を掴まれ、律子はエントランスの重厚な自動ドアの外へと押し出された。深夜四時十五分。深浜市のベイエリアから吹き付ける夜風は、凍りつくように冷たい。街灯の光が、濡れたアスファルトに寂しげな影を落としていた。
(美紀……私のせいで、あの子の治療費が……)
東郷教授の「治療基金の凍結」という脅迫が、呪いのように脳裏を支配する。美紀は今、病院の特別病棟で弱々しい鼓動を刻んでいる。自分が医師としての立場を失えば、妹の命の砂時計は一瞬にして崩れ落ちるのだ。
重い足取りで歩行者専用の暗いスロープを降り、薄暗い街路樹の並木道へと差し掛かったその時だった。
キィィィィッ――!
突如、濡れた路面を激しく切り裂くタイヤの摩擦音が静寂を破った。ヘッドライトの暴力的な光束が律子の視界を真っ白に染め上げる。光の奥から現れたのは、漆黒の大型セダン。それは律子のすぐ脇に滑り込むと、一分の隙もない精密さで退路を塞ぐように停車した。
心臓が跳ね上がる。逃げようと身を翻した瞬間、セダンの後部座席のドアが開き、数人の黒いスーツの男たちが音もなく降り立ってきた。その中心に立つ男の顔を見て、律子は息を呑んだ。
「……龍崎、さん」
桐生組の若頭、龍崎徹。完璧に着こなした黒いスーツに、顔に刻まれた一本の細い傷跡。彼は感情の読めない無表情な顔で律子を見下ろした。
「篠原先生。お迎えにあがりました。ご同行願おうか」
「お断りします。私は疲れています、帰らせて――」
「お断りする権利は、あなたにはない」
龍崎の低い声が、夜の闇に沈み込む。彼が微かに顎を引くと、左右の男たちが容赦なく律子の両腕を掴んだ。抵抗する間もなく、律子の身体は宙に浮き、セダンの冷たい本革シートへと押し込まれた。バタン、と重厚なドアが閉まる音が、彼女の日常が完全に遮断されたことを告げるメタル調の銃声のように聞こえた。
「これは誘拐よ! 放しなさい!」
「人聞きが悪い。我々は、ボスの命を救った恩人を『保護』するだけだ」
隣に滑り込んできた龍崎は、懐から静かに煙草を取り出し、火をつけた。紫煙が車内に満ちていく。セダンは滑るように走り出し、深浜市の市街地を抜けて、北部の山道へと急勾配を登り始めた。
暗い窓の外を流れていくのは、鬱蒼とした森の影。街の光がどんどん遠ざかり、深い霧がフロントガラスを覆い尽くしていく。車が到着したのは、崖の上にひっそりと佇む、古びた、しかし圧倒的な威容を誇る洋館だった。
「霧ヶ丘別邸……」
律子が呟いた。周囲を深い崖と鬱蒼とした森に囲まれ、外部からの侵入も、内部からの脱出も物理的に不可能な、桐生組の秘密の要塞。
車を降りた律子は、龍崎の先導で洋館の奥へと連行された。ゴシック調の冷たい石造りの廊下には、ライフルを抱えた構成員たちが等間隔で立っており、重苦しい沈黙が支配している。案内されたのは、二階の最奥にある主寝室だった。
重厚なダブルドアが開かれた瞬間、律子の目は寝室のベッドへと吸い寄せられた。
「……嘘」
そこにいたのは、上気した広い胸元に白い包帯を巻いた男――桐生蓮だった。驚異的な、常人離れした自己治癒力。数時間前まで上行大動脈の損傷で死の淵を彷徨っていたはずの男が、すでにベッドの上に上体を起こし、静かにこちらを睨みつけていたのだ。
切れ長の双眸に宿る、底知れない漆黒の光。彼が視線を向けた瞬間、寝室全体の空気が物理的に重くなったかのような錯覚に陥る。「組長・絶対的支配者(ボス)」としての圧倒的な威圧感が、律子の華奢な身体を壁際へと押しやる。
「……連れてきたか、龍崎」
蓮の声は、低く、かすかに掠れていたが、逆らう者を一瞬で平伏させるだけの絶対的な冷酷さを孕んでいた。
「はい、ボス。聖マリア中央病院のロビーから、予定通り『保護』いたしました」
龍崎が恭しく一礼する。律子は湧き上がる恐怖を怒りでねじ伏せ、蓮の一歩手前まで踏み出した。
「桐生さん、これ以上の暴挙はやめて。私はあなたの命を救ったはずよ。なぜこんな真似をするの? 私は病院に戻らなければならない、妹が――」
「美紀ちゃんのことなら、心配いらない」
蓮が冷たく言い放った。その言葉に、律子の心臓が一瞬停止した。
「どういう……意味?」
「龍崎、説明してやれ」
龍崎が静かに一歩前に出た。「篠原美紀さんは、先ほど午前四時三十分をもって、聖マリア中央病院の一般病棟から、我が桐生組が完全に支配する特別個室へと『極秘転院』を完了させました。病院の斉藤副院長や、メディファームの監査網の届かない、我々のセキュリティ下にある最高環境の病室です」
「なっ……!」
律子の頭の中が真っ白になった。全身の血の気が一気に引いていく。
「美紀を……人質に取ったというの!? あの子は重い心臓病なのよ! もし移動の衝撃で何かあったら――」
「安心しろ。搬送には我々のお抱えの専門医と、最新のポータブル循環維持装置を同行させた。美紀ちゃんのバイタルは、転院前よりも安定している」
蓮はベッドサイドのテーブルから、一台のタブレット端末を手に取り、律子に向けて画面を示した。
「だが、これからのあの子の命は、お前の態度一つで決まる」
画面に表示されていたのは、スイスのプライベートバンクの残高画面だった。そこには、律子が今まで見たこともない桁数の数字が並んでいる。ドル換算で、およそ五百万ドル――日本円にして「五億円」の資金。
「特別治療基金口座だ」蓮の薄い唇が、冷酷な笑みの形に歪んだ。「お前の妹がアメリカで心臓移植を受け、術後の高額な免疫管理を一生涯受けるために必要な費用のすべてを、この口座に用意した。お前が俺の要求に応じる限り、この資金は美紀ちゃんのためにいつでも動かせる。だが、お前が拒絶すれば――」
蓮は画面をタップした。残高の文字が一瞬にして凍りついたようにロックされる。
「あの子の点滴は止まり、移植ネットワークのリストからも永遠に消えることになる。斉藤副院長に医師免許を奪われ、路頭に迷うお前には、あの子を救う手段はもう残されていないはずだ」
「……悪魔」
律子は震える声で呟いた。目の前にいる男は、婚約者である航平の心臓をその胸に宿しながら、その同じ心臓の鼓動を使って、律子の最愛の妹の命を弄んでいるのだ。激しい怒りと、自らの無力さへの絶望が、彼女の胸を引き裂く。
「選べ、篠原律子」蓮の漆黒の瞳が、獲物を捕らえた獣のように妖しく光った。「俺の『専属医』として、この別邸で一生、俺の心臓を管理しろ。それが、お前の妹を生かす唯一の契約だ」
「……私が、拒絶したら?」
「拒絶? お前にそんな選択肢が残されていると思うか?」
龍崎が静かに割り込んだ。「警察に通報する、という無駄な思考は捨てることだ。美紀さんの病室の場所を知る者は、我々桐生組の『血の掟(オメルタ)』によって固く口を閉ざしている。あなたが動けば、美紀さんの安全は一瞬にして失われる」
律子は絶望の深淵に立たされていた。首元に下げた航平の形見の指輪が、皮膚を通して冷たく訴えかけてくる。だが、妹の命を救うためには、この冷酷なマフィアのボスの前で膝を折る以外の道はなかった。
「……わかったわ。署名する。だから、美紀にだけは手を出すな」
律子は龍崎から差し出された「専属医契約」の書類を受け取り、震える手で自らの名前を書き込んだ。一文字書くたびに、自らの社会的自由と、医師としてのプライドが、切り売りされていくような屈辱を感じていた。
「賢い選択だ」
蓮が冷ややかに微笑んだ。彼は律子を手招きし、ベッドの傍らまで近づかせた。律子が屈辱に唇を噛み締めながら歩み寄ると、蓮は突然、彼女の細い手首を掴み、力ずくで自らの胸元へと引き寄せた。
「きゃっ……!」
蓮の広い胸に、律子の身体が物理的に押し付けられる。包帯の隙間から伝わる、驚くほどの熱と、強烈な野性の匂い。そして、その耳元に、ダイレクトに響いてきた。
「ドクン……ドクン……ドクン……」
あまりにも愛おしく、あまりにも憎らしい、最愛の婚約者の心音。その脈動が、蓮の強靭な肉体を通じて律子の鼓動と共鳴するように激しく波打つ。
「その目で俺を見続けろ、篠原律子。お前が愛した鼓動は、今や俺の肉体の一部だ。お前の時間も、技術も、すべて俺が買い取った」
蓮は冷酷な笑みを浮かべたまま、律子の首元に滑り込ませた指先で、細いシルバーチェーンを強引に引きちぎった。ちぎれたチェーンの先で、航平の形見であるチタン製の指輪が、蓮の大きな手のひらへと収まる。
「この指輪は、俺が預かっておく。お前が俺の傍で、完璧な所有物として生きる証拠にな」
蓮は形見の指輪を、自らの胸ポケットにあるアンティーク懐中時計のチェーンへと繋ぎ止めた。カチリ、という金属音が、律子の魂を永遠にこの檻に閉じ込める錠前の音のように、深夜の寝室に冷たく響き渡った。
律子は蓮の胸元を睨みつけ、瞳の奥に激しい憎悪の火を灯した。掴まれた手首から伝わる熱が、彼女の心に、決して消えない復讐の誓いを刻み込んでいく。
(桐生蓮……あなたを救い、そして、いつか必ず、この心臓を取り戻してみせる)
冷酷なマフィアのボスと、亡き婚約者の心臓を宿した男の専属医となった天才心臓外科医。倫理と狂愛が交差する、崖の上の檻での監禁生活が、今、血塗られた幕を開けた。
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