白い巨塔の闇
「……っ!」
篠原律子は息を呑んだ。
深夜三時十五分、聖マリア中央病院の第一手術室。全身麻酔から覚醒するはずのないタイミングで、手術台の上の男――桐生蓮の血色の戻った大きな手が、律子の右手首を冷酷なまでの力で掴み取っていた。
(熱い……そして、なんて強い力なの……)
術直後とは思えない野生的な握力が、律子の華奢な手首を締め上げる。イヤーピースを外したばかりの耳の奥に、男の胸から響く鼓動が、聴覚の記憶と重なって鳴り響く。
「ドクン……ドクン……ドクン……」
それは一年前、不条理な事故で奪われた最愛の婚約者、瀬尾航平の心臓の音だった。
「篠原、先生……?」
助手に入っていたレジデントの木村健太が、恐怖に引き攣った声を上げる。
「沙織、早く! 麻酔深度を上げて! 急速投与して!」
律子は声を振り絞った。麻酔科医の宇佐美沙織が素早く点滴ラインのコックを開き、強力な鎮静剤を注入する。
男の切れ長の双眸が、微かに開かれた。底知れない闇を湛えた漆黒の瞳が、律子の顔をじっと見つめる。その冷酷な眼光に射抜かれた瞬間、律子の背筋に氷のような戦慄が走った。だが、薬剤が全身に回ると、男の手の力は徐々に抜け、再び深い昏睡の底へと沈んでいった。
「バイタル、安定しています。心拍数八十、竇調律を維持」
沙織の緊迫した声が響く。律子は掴まれていた手首をさすりながら、荒い呼吸を整えた。
「……ICUへ搬送して。龍崎さんに、術後の管理は極めて慎重に行うよう伝えて」
律子はそう言い残し、逃げるように手術室を後にした。
手洗い場に立ち、冷水を両手ですくって顔にぶつける。鏡に映る自分の顔は、幽霊のように青白かった。濡れた手を拭い、ドクターコートの内ポケットに手を伸ばす。そこには、航平の形見である「チタン製メスホルダー」が静かに収まっていた。
(航平の心臓が、あのマフィアの胸の中で生きている。これは偶然じゃない。一年前のあの日、この病院で何が行われたの?)
律子の脳裏に、かつてない巨大な疑惑が鎌首をもたげていた。一年前、瀕死の桐生蓮に航平の心臓を移植する極秘手術を執刀したのは、一体誰なのか。その答えを求めるように、律子は深夜の静まり返った廊下を歩き始めた。
廊下の向こうから、一人の医師が歩いてくるのが見えた。脳神経外科の若き権威であり、一年前、航平の「脳死判定」を執刀した神崎徹だった。
「神崎先生」
律子が声をかけると、神崎はびくりと肩を揺らし、怯えたように目を泳がせた。
「篠原先生……私は、今夜の緊急手術には関わっていない。何も知らないんだ」
「神崎先生、一年前の瀬尾航平の脳死判定について、お聞きしたいことがあります。あの判定プロセスに、メディファームからの不自然な介入があったのではないですか?」
律子が核心を突くと、神崎の顔から血の気が失せた。彼は周囲を狂ったように見回し、声を潜めて手短に囁いた。
「頼むから、これ以上私に聞かないでくれ。あの夜のことは……誰も話せないんだ。命が惜しければ、君もこれ以上首を突っ込まないことだ!」
神崎はそれだけを言い残すと、律子を突き放すようにして走り去ってしまった。白い巨塔を支配する、見えない恐怖の壁がそこにはあった。
律子は唇を噛み締め、エレベーターに乗り込んだ。目指すのは、心臓血管外科部長室。この病院で、あの完璧な顕微鏡下での血管吻合を行い、蓮に心臓を移植できる「神の手」を持つ男は、神崎でも、安藤でもない。律子に技術のすべてを授けた恩師、東郷宗一郎しかいない。
部長室の重厚な木製の扉の前に立ち、律子は深く息を吸ってからノックをした。
「入りなさい」
中から聞こえたのは、聞き慣れた穏やかな声だった。扉を開けると、ロマンスグレーの髪を端正に整えた東郷宗一郎が、デスクの傍らで静かにコーヒーを淹れていた。白い巨塔の頂点にふさわしい、圧倒的な風格と威厳。だが、律子にとっては、かつて実の父のように自分を導いてくれた恩師だった。
「律子か。深夜の緊急オペ、見事だったそうだな。斉藤副院長の制止を振り切ってマフィアのボスを救うとは、君らしい」
東郷は優しい微笑みを浮かべ、律子に温かいコーヒーを差し出した。その紳士的な仮面に、律子の胸が激しく痛む。
「先生……お聞きしたいことがあります」
律子はコーヒーを受け取らず、東郷の目をまっすぐに見つめた。
「一年前、桐生蓮に行われた極秘の心臓移植手術。あのオペを実際に執刀したのは、先生ですね?」
室内の空気が、一瞬にして凍りついた。東郷の手が止まり、コーヒーカップから立ち上る湯気が静かに揺れる。東郷は否定しなかった。彼は深くため息をつくと、デスクの椅子に腰を下ろし、ロマンスグレーの髪を手でかき上げた。その瞳に、父親のような深い哀愁が宿る。
「やはり、気づいたか、律子」
「なぜ……なぜですか、先生! 航平の心臓を、あんな冷酷なマフィアに移植するなんて! 航平の死は、本当に不慮の事故だったのですか?」
律子の声が震え、涙が溢れそうになる。東郷は静かに首を振った。
「病院を、そして我々の悲願である人工心臓開発の研究を守るためだったんだ、律子」
東郷の声は、どこまでも穏やかで、それゆえに恐ろしかった。
「一年前、我が医局は深刻な資金難に陥っていた。メディファームからの研究資金の提供がなければ、人工心臓プロジェクトは完全に頓挫し、この病院の心臓外科は潰れていた。そこに、メディファームの会長である瀬尾謙三から取引が持ちかけられたのだ。瀕死の桐生蓮を救えば、数百億円規模の寄付金を約束すると」
「だからって、航平の命を奪っていい理由にはならないわ! 航平は、謙三によって脳死に仕組まれたのよ!」
律子が叫ぶと、東郷はデスクの引き出しから、一冊の公式な書類ファイルを取り出した。
「すべては合法的に処理されている、律子。神崎が下した脳死判定に法的な不備は一切ない。公式な記録がすべてだ。裏のカルテなど、この世のどこにも存在しない」
東郷は、病院幹部が東郷の違法手術を隠蔽するために用いる「二重カルテ作成規範」の存在を暗に示しながら、冷徹な現実を突きつけた。
「一人の死が、何千人もの未来の患者を救う資金になる。医療の発展には、時として仕方のない犠牲が必要なのだ。君も医師なら、大局を見るべきだ」
「仕方のない犠牲……? 先生、あなたは自分の保身のために、医師としての魂を売ったのよ!」
律子の言葉に、東郷の穏やかな表情が、一瞬にして冷酷な支配者のものへと変貌した。
「言葉を慎みなさい、篠原先生」
東郷は低い声で言った。その瞳には、指導医・部長クラスとしての絶対的な権力が宿っていた。
「君の妹、美紀ちゃんの病状はどうだ? 重度の拡張型心筋症。彼女が現在、聖マリア中央病院のICUで受けられている最先端の治療費は、一体どこから支払われていると思う?」
律子は息を呑んだ。
「……メディファームの特別寄付金基金だよ。私が手を回して、彼女の治療費を全額カバーさせている。君がこの真実を暴き、病院やメディファームを告発すれば、基金は即座に凍結される。それだけではない。美紀ちゃんの日本臓器移植ネットワークにおける最優先待機順位も、一瞬にして消滅するだろう。死んだ婚約者の亡霊のために、今生きている妹の命を捨てる気か?」
「先生……あなた、そこまで……」
律子は足元が崩れ落ちるような絶望感に襲われた。最も尊敬していた恩師が、妹の命を人質にして、自分の口を封じようとしている。
「これ以上、首を突っ込むな。それが、君と美紀ちゃんが生き残る唯一の道だ」
東郷はそう言うと、再び穏やかな紳士の仮面を被り、コーヒーを口に運んだ。
律子はふらつきながら部長室を出た。廊下の冷たい空気が、彼女の涙を乾かしていく。頼るべき光をすべて失い、世界から完全に孤立したような深い絶望が、彼女の華奢な肩に重くのしかかる。
(私は……どうすればいいの? 航平、教えて……)
心の中で亡き婚約者の名前を呼ぶが、答えは返ってこない。その時、角を曲がったところで、美紀の主治医である小児心臓専門医の橘遥が、青ざめた顔で立っているのが見えた。遥は律子の姿を認めると、周囲を警戒しながら彼女の手を掴み、誰もいないカンファレンスルームへと引っ張り込んだ。
「遥……どうしたの?」
律子が問いかけると、遥は声を震わせながらタブレットの画面を提示した。
「律子、美紀ちゃんの最新の心機能評価データよ。駆出率(EF)がさらに低下している。でも、問題はそこじゃないの」
遥は画面をスクロールし、臓器移植ネットワークの待機リストを表示した。
「美紀ちゃんの移植優先順位が、適合するドナーが現れたにもかかわらず、不自然に何度もスキップされている形跡があるの。システムログを解析したんだけど、病院のメインサーバーから、美紀ちゃんのデータを意図的に保留にする操作が行われている。まるで……誰かが上から、美紀ちゃんの命の砂時計をコントロールしているみたいに」
律子の頭の中で、東郷教授の冷酷な警告が蘇った。
(おじ様――瀬尾謙三と、この病院の上層部が、美紀の命を人質にしている。私が従うように、彼女の命をいつでも奪えるように……!)
「遥、このデータを他には誰が見たの?」
「まだ私だけよ。でも、これ以上の追跡は危険だわ。律子、あなた一体、裏で何に巻き込まれているの?」
遥の心配そうな瞳に、律子は答えることができなかった。
「ありがとう、遥。でも、この件にはこれ以上関わらないで。あなたまで危険に晒したくない」
律子は遥の手を握りしめ、静かにカンファレンスルームを出た。四面楚歌。病院組織全体が、メディファームという巨大な怪物と結託し、自分と美紀の命を支配している。医師としての倫理観も、正義も、この白い巨塔の中ではただの飾りにすぎなかった。
(それでも、私はメスを捨てない。航平の心臓を、そして美紀の命を、絶対に守り抜いてみせる)
律子はドクターコートのポケットの中で、航平のチタン製メスホルダーを強く握りしめた。冷たい金属の感触だけが、彼女の崩れかけた精神を辛うじて繋ぎ止めていた。
だが、運命の女神は、彼女に息をつく暇さえ与えなかった。事務棟の重いガラス扉を押し開け、エントランスロビーへと出た律子の前に、影が立ちふさがった。
「篠原先生。ずいぶんと夜更かしが過ぎるようだね」
冷酷な、粘りつくような声。見上げると、そこには仕立ての良い高級スーツを着た副院長、斉藤慎一郎が、二人の屈強な警備員を従えて立っていた。彼の小太りの顔には、律子の破滅を確信したような、醜悪な勝利の冷笑が浮かんでいる。
「斉藤、副院長……」
「君が深夜に、第一手術室を無断で使用し、反社会的勢力のボスに極秘裏に執刀したという報告が、理事会に上がっている」
斉藤は一歩踏み出し、律子の顔の前に人指し指を突きつけた。
「第一手術室の優先使用パスポートの不正行使、および病院の倫理規定に対する重大な規律違反だ。東郷教授も、君を庇いきれんと言っている」
斉藤の背後にいる警備員たちが、律子を取り囲むように距離を詰める。
「理事会はすでに、君の医師免許の剥奪に関する懲戒請求工作を開始した。篠原律子、君の輝かしいキャリアも、医師としての人生も、今夜ここで完全に終わりだ。覚悟したまえ」
斉藤の冷酷な宣告が、静まり返ったロビーに冷たく響き渡った。
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