鼓動の再会
深夜二時十五分。聖マリア中央病院、第一手術室。
無機質なステンレスの壁に囲まれた空間に、人工心肺装置が発する規則的な駆動音と、心電図モニターの電子音が冷たく響き渡っていた。室内の空気は滅菌のために低く保たれ、吐き出す息が白く濁るほどに冷え切っている。
だが、手術台の上に横たわる男から溢れ出る血液だけは、恐ろしいほどの熱を帯びていた。
「開胸を始めるわ。衣服を切り裂いて」
そう指示を出した篠原律子の指先が、次の瞬間、物理的に凍りついた。
サージカルハサミによって切り裂かれた桐生蓮の衣服の下から露わになったのは、右胸の生々しい弾創だけではなかった。そのすぐ左側、心臓の直上に刻まれた、完璧に治癒した、しかし紛れもない巨大な「開胸移植手術の痕」。一年前の白い傷跡が、無残な一本の線となって彼の広い胸元を縦に引き裂いていた。
「これは……移植、手術の……?」
アサシストに入っていたレジデントの木村健太が、息を呑む声を上げた。器械出しの看護師の手が微かに震え、金属製のピンセットがトレイの上で小さな音を立てる。
一年前。それは、律子の婚約者である瀬尾航平が、不可解な交通事故によって脳死と判定され、この世を去った時期と完全に一致していた。
(まさか、そんなはずはない。あり得ないわ)
律子は心の中で激しく首を振った。だが、彼女の脳内に備わった天賦の才能――聴診器を通さずとも心臓の微細な異常を聞き分ける「絶対音感による微細心音聴診能力」が、開胸された蓮の胸元から立ち上る音を捉えていた。
人工心肺装置のノイズの隙間を縫って、律子の鼓膜に届く「ドクン、ドクン」という肉体の搏動。
それは、一年前まで毎夜、律子がその胸に耳を当てて聴き続けていた、世界で最も愛しいあのリズムそのものだった。人工弁が刻む微小なクリック音の周期、心筋が収縮する際のわずかな軋み、そして大動脈へと血液が送り出される瞬間の、特異な乱流の響き。
「航平……?」
声にならない掠れた呟きが、マスクの奥から漏れた。血の気が一気に引き、視界がぐにゃりと歪む。立っている床が底の抜けた深淵のように感じられ、律子の右手が、持っていたチタン製メスホルダーごと激しく震え始めた。
「篠原先生!?」麻酔科医の宇佐美沙織が、モニターの数値を凝視しながら鋭い声を上げた。「上行大動脈からの出血が止まらないわ! 血圧が四十まで急降下している! このままじゃ心停止する!」
「うっ……」
激しいパニックが律子を襲う。目の前で脈打っているのは、最愛の航平の心臓だ。だが、それを宿しているのは、血塗られた裏社会を支配する冷酷無比なマフィアのボス、桐生蓮。この男を救うことは、航平の命をこの怪物の肉体の中に永遠に閉じ込めることではないのか? 救うことは、航平への裏切りではないのか? いっそ、このままメスを止めれば、航平を冒涜するこの男を――。
(だめよ、律子。しっかりしなさい!)
脳裏に、航平の生前の穏やかな笑顔と、彼の優しい声が蘇った。
『医者はね、律子。目の前の命をただ救うためにメスを握るんだ。どんな悪人であっても、その肉体が生きようと叫んでいるなら、僕たちはその声に応えなきゃいけない。誰かの未来を繋ぐためにね』
航平。あなたは、自らの心臓を奪ったかもしれないこの男さえも、救えと言うの?
「篠原先生! 出血点が視野から消えました! 吸引が追いつきません!」
木村の悲鳴のような声が、律子を現実に引き戻した。蓮の胸腔内は一瞬にして暗赤色の血の海と化し、心電図の波形は致死的な不整脈(心室細動)へと移行し始めていた。残り時間は、あと一分もない。
律子は深く息を吸い込み、目を閉じた。セルフマインドフルネスの呼吸法。脳内の雑音を完全にシャットアウトし、感情を完全にバイパスする。自らのアイデンティティである「医師としての技術」だけを研ぎ澄ます。
「沙織、急速輸血を開始して。木村、吸引管をもう一本。大動脈の遮断クランプを準備」
冷徹な「神の手」が、再び覚醒した。律子の瞳から感情が消え、氷のような集中力が宿る。
「通常のピンセットじゃ、この損傷した血管壁は耐えられない。裂けるわ」
律子は通常の器具を退け、航平が専門医合格祝いに贈ってくれた形見の「チタン製メスホルダー」を右手にしっかりと握り直した。超軽量で完璧な重心バランスを持つチタンの感触が、彼女の指先の微細な感覚を極限まで呼び覚ます。
「『精密吻合術』を起動する。これより一ミリ以下の冠動脈枝を再建するわ。ライトをここへ集中させて」
律子は左手に持針器を、右手にチタン製メスホルダーを構えた。彼女のもう一つの神業――右手と左手を全く同じ精度で操る「両手利きによる超精密高速縫合術」が開始された。
髪の毛よりも細い8-0プロレン糸が、嵐のような速度で、しかし一ミクロンも狂うことなく、拍動を失いかけた心筋の表面を走る。右手で針を通し、左手で瞬時に結紮を作る。その動きは、まるで一本の美しい糸のダンスのようだった。
「信じられない……この揺れる術野で、顕微鏡も使わずにこの速度で縫合するなんて……」
木村が呆然と呟くが、律子の耳には届かない。彼女の全神経は、大動脈から枝分かれする極小の冠動脈を繋ぎ合わせる一点のみに注がれていた。一針。二針。三針。
「クランプを解除して。血流を再開するわ」
律子の静かな命令と共に遮断が解かれた。次の瞬間、繋ぎ合わされた血管に赤い血流が勢いよく流れ込み、パッチを当てた吻合部からのリーク(漏れ)は一滴もなかった。
「血圧、九十まで上昇! 心電図、竇調律(サイナスリズム)に復帰しました!」
沙織の歓喜に満ちた声が手術室に響き渡った。人工心肺装置が刻む無機質な音が、再び安定したリズムへと戻っていく。
律子はゆっくりとメスホルダーを置き、自らの額から流れる冷や汗を看護師に拭わせた。手術は成功した。男の命は繋ぎ止められたのだ。
だが、その胸を閉じる縫合を行いながら、律子の胸を支配していたのは、勝利の歓喜ではなく、底知れない虚脱感と深い罪悪感だった。
(私は……航平の心臓を、この男の体の中に閉じ込めてしまった……)
手術が完全に終了し、スタッフたちが後片付けのために動き出す中、律子は一人、手術台の傍らに立ち尽くしていた。彼女は震える手で旧式の聴診器を取り、桐生蓮の閉じた胸元へと当てた。
イヤーピースを通じて、律子の耳にダイレクトに伝わってくる鼓動。
「ドクン……ドクン……ドクン……」
あまりにも温かく、あまりにも懐かしい、航平の心臓の音。なぜ、あなたがここにいるの。どうして、私を置いていってしまったの。
耐えかねたように、律子の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、蓮の濡れた胸元へと静かに吸い込まれていった。その瞬間、手術室の冷たい空気が、一瞬にして凍りついた。
ガチリ、と金属が擦れ合うような音がした。
「……!?」
律子が息を呑んだ。手術台の上で横たわっていたはずの桐生蓮の、血色の戻った大きな手が、執拗なほどの力強さで、律子の華奢な手首を冷酷に掴み取っていたのだ。
麻酔から覚めかけた彼の切れ長の双眸が、微かに開き、底知れない闇のような眼光で律子を射抜いていた。
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