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深夜の緊急搬送

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深夜二時。最先端の医療設備を誇る聖マリア中央病院の救急外来は、張り詰めた静寂に包まれていた。


「白い巨塔のエリート」――そう呼ばれて久しい心臓血管外科のエース、篠原律子は、誰もいない医局の仮眠室で、冷え切った缶コーヒーを手に窓の外を見つめていた。視線の先には、闇に沈む港湾都市・深浜市のコンテナターミナルが、まるで巨大な墓標のように並んでいる。


律子はドクターコートの襟元にそっと手を触れた。スクラブの首元、細いシルバーチェーンに通されたチタン製の指輪が、指先に冷たい感触を伝える。それは一年前、不可解な交通事故で脳死となり、この世を去った最愛の婚約者、瀬尾航平の形見だった。彼を失って以来、律子の心は凍りつき、ただ精密な手術ロボットのようにメスを握り続けることだけが、自らの存在を証明する唯一の手段となっていた。


その静寂を切り裂くように、救急外来のホットラインがけたたましく鳴り響いた。


「深浜港の銃撃戦による緊急搬送です! 胸部貫通銃創、血圧測定不能、心拍数一四〇、意識レベルはJCS三〇〇! 急速に心停止へ移行しつつあります!」


看護師の緊迫した声がスピーカーから響くのとほぼ同時に、病院の正面ロータリーに滑り込んできたのは、赤色灯を激しく明滅させる一台の救急車だった。そして、それを追うように、ヘッドライトをハイビームにした数台の黒塗りの高級セダンが、けたたましいタイヤの摩擦音を響かせてロータリーを包囲した。


車から降りてきたのは、仕立ての良い黒いスーツを血に染めた、異様な威圧感を放つ男たちだった。その中心に立つ長身の男――桐生組の若頭、龍崎徹が、立ちはだかる警備員を冷酷な眼光で退けながら、自動ドアを押し開けて救急外来へと踏み込んできた。


「おい、一番腕の立つ心臓外科医を呼べ。ボスの命が消えかけている」


ストレッチャーの上に横たわる男――桐生組の若きボス、桐生蓮。胸部を撃ち抜かれ、シーツは一瞬にして赤黒い血に染まっていく。意識を失っているにもかかわらず、その端正な顔立ちには、裏社会の頂点に君臨する者だけが持つ、獣のような鋭さと圧倒的な覇気が漂っていた。


「銃創……それも大動脈損傷の疑いがあるわ。すぐに第一手術室を開放して!」


律子が冷徹な声で指示を出したその瞬間、背後から遮るような鋭い声が響いた。


「待ちなさい、篠原先生。その患者の受け入れは認められない」


現れたのは、聖マリア中央病院の副院長、斉藤慎一郎だった。仕立ての良いスーツを小太りの体で着こなした斉藤は、マフィアの男たちを一瞥すると、露骨な嫌悪感と狼狽を浮かべて律子の前に立ち塞がった。


「彼らは反社会的勢力だ。このような血生臭い抗争に我が病院が巻き込まれれば、社会的信用は失墜する。何より、我が校の最大のスポンサーである巨大製薬企業『メディファーム』からの巨額の寄付金口座が凍結されかねん。今すぐ他の病院へ転送させなさい」


「斉藤副院長、この患者のバイタルは崩壊しかけています。今ここで転送を行えば、車中で確実に心停止に至ります」


律子は一歩も引かずに斉藤を見据えた。その瞳は、氷のように冷たく澄んでいる。


「命の前に、患者の身分は関係ありません。それが医師の、そしてこの病院の倫理です」


「ふん、綺麗事では病院は経営できんのだよ!」斉藤は冷笑し、自身の管理用タブレットを操作して律子のIDカードの権限をシステム上でロックしようとした。「東郷教授もこの件には関わらん。篠原、君の独断は重い規律違反だ。即刻、執刀権を剥奪する」


その様子を見ていた龍崎が、懐のジャケットに手を伸ばし、金属質の鈍い光を覗かせた。周囲の看護師たちが悲鳴を上げる。


「話が通じねえなら、力ずくで執刀してもらうまでだ」


「やめなさい」


律子の凛とした声が、一触即発のロビーに響き渡った。彼女は龍崎の銃口を恐れる風もなく、その鋭い瞳を直接見つめ返した。


「私の執刀室で銃を誇示する男の命令は聞かないわ。命を救ってほしいなら、その鉄の玩具を引っ込めなさい。そして斉藤副院長――」


律子はポケットから、ゴールドの縁取りがなされた一枚の特殊なセキュリティカードを取り出した。「第一手術室の優先使用パスポート」。院長および心臓血管外科部長である東郷教授の直筆サインが刻まれた、超緊急時にすべての他オペを中断して第一手術室を強制確保できる、院内最高峰の特権コードだ。


「このパスポートの権限は、副院長のシステムロックよりも上位に設定されています。そして、患者のVF(心室細動)移行まで、あと残り三分。ここで彼を見殺しにすれば、救急医療管理法違反、さらには不作為による殺人幇助で告発されるのは、受け入れを拒絶したあなたです」


「な……何だと!?」斉藤の顔が怒りと狼狽で赤黒く染まる。


「さらに、この規模のマフィアのボスが当院のロビーで死亡すれば、外を取り囲む構成員たちが大人しく引き下がるとお思いですか? 病院全体が血塗られた戦場になる。その責任を、あなたは理事会で取れるのですか?」


論理的かつ冷徹なタイムリミットを突きつけられ、斉藤は言葉を失った。周囲の重武装したマフィアたちの沈黙の圧力が、斉藤の背中に冷や汗を流させる。


「チッ……好きにしたまえ。だが篠原、この結果がどうなろうと、君の医師生命は今夜で終わりだ!」


斉藤が捨て台詞を残して退いた瞬間、律子はストレッチャーに手をかけた。


「第一手術室へ搬送して! 麻酔科の沙織、レジデントの木村、急いで準備を!」


重い防音扉が開き、律子たちは血に染まった桐生蓮を乗せて、無機質な第一手術室へと滑り込んだ。自動扉が背後で静かに閉まり、外界の雑音は完全にシャットアウトされた。


律子は手洗いを終え、滅菌されたガウンを身にまといながら、自身のチタン製メスホルダーを手に取った。首元で揺れる航平の指輪が、ガウン越しに微かな重みを感じさせる。その重みが、彼女の手の震えを完璧に止めていた。


「開胸を始めるわ。衣服を切り裂いて」


律子の指示に従い、衣服がサージカルハサミで一気に切り裂かれていく。銃弾が撃ち込まれた右胸から、どくどくと鮮血が溢れ出ていた。しかし、その血を吸引管で吸い上げた瞬間、律子の手の動きが物理的に凍りついた。


蓮の広い胸元、銃創のすぐ左側――心臓の真上に、完璧に治癒した、しかし紛れもない「一年前の巨大な開胸移植手術の痕」が、無残な白い線となって刻まれていたのだ。


一年前。航平が死んだ、あの同じ時期に、この男は心臓の移植手術を受けている――。


律子の脳裏に、心拍モニターの規則正しいビープ音に混じって、忘れもしないあの「鼓動」が、にわかに蘇り始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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