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純白の仮面

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パレスホテルから遠ざかる専用リムジンの後部座席で、橘舞香は冷たいスマートフォンの画面を見つめたまま、凍りついていた。

「橘惣一郎を当グループの警備部が確保いたしました。これより彼を物理的に『処理』いたします。出生証明書の原本もすべて回収いたしました」

受話器から聞こえた田中秘書の淡々とした声が、耳の奥で何度もリフレインする。物理的な「処理」――それが何を意味するのか、深く考えるだけで背筋に恐ろしい悪寒が走った。

叔父の惣一郎は、金のために舞香を売ろうとした裏切り者だ。だが、神宮寺家という魔窟は、血のつながった身内であっても容赦なく闇に葬り去る。舞香は手袋をはめた右手をそっと胸元に当てた。そこには、汐里の形見である「シルバーの蝶のネックレス」が、冷たい金属の感触を伝えてくる。私は今、とてつもなく冷酷で、一歩間違えれば命を落とす怪物たちの世界に足を踏み入れているのだ。


リムジンは丸の内の喧騒を抜け、神宮寺グループ本社の地下駐車場へと滑り込んだ。重厚な防弾仕様のドアが開くと、待機していた佐藤ボディガードが無言で一礼する。舞香は「佐伯汐里」の仮面を被り、背筋を伸ばしてエレベーターに乗り込んだ。目指すは、この帝国の頂点――神宮寺蓮の個人執務室だ。

最上階に位置するその部屋は、ガラスと鉄骨だけで構成された、まさに「氷の城」だった。全面ガラス張りの向こうには、東京の街並みがミニチュアのように広がっているが、室内に漂う空気は冬の夜のように冷え切っている。

「戻ったか」

デスクの後ろから、低く、地を這うような声が響いた。神宮寺蓮が、仕立ての良い黒のオーダースーツを完璧に着こなし、鋭い切れ長の瞳で舞香を射抜く。その圧倒的なカリスマ性と威圧感に、舞香は一瞬、息が詰まるのを感じた。

「蓮様……」

舞香は「支配者の仮面」を維持しようと、優雅に微笑んで見せた。だが、蓮はゆっくりと立ち上がり、長い脚で距離を詰めると、舞香の目の前で立ち止まった。彼の影が舞香を完全に覆い尽くす。

「私の許可なく、勝手に東離れを抜け出し、あの下衆と密会した。その行動がどれほど愚かで、どれほどの経営リスクを伴うか、その足りない頭で理解しているのか?」

「私は、実様に情報が渡るのを防ぐために――」

「黙れ」

蓮の手が電光石火の速さで伸び、舞香の細い手首を掴んだ。骨がきしむような強い力。舞香は小さく悲鳴を上げそうになったが、喉の奥で押し殺した。蓮の視線が、彼女の手首に留まる。そこには、闇金・鮫島剛に乱暴に掴まれた際の、痛々しい赤黒い痣が残っていた。

「……これは何だ」

蓮の瞳の奥に、凍りつくような怒りと、異常なまでの独占欲の炎が灯る。彼は舞香の抵抗を無視し、彼女の手から白いレースの手袋を乱暴に剥ぎ取った。

「あ……っ」

露わになった舞香の右指先を見て、蓮は息を呑んだ。一晩中、拓海との連弾のためにピアノを叩き続けた指先は、生皮が剥け、赤く腫れ上がり、痛々しく血が滲んでいた。

「お前は私の所有物だ」

蓮の声は低く、かすかに震えていた。その瞳に宿る熱は、単なる雇い主のそれではなく、歪んだ執着そのものだった。

「私の許可なく傷つくことは許さない。この体も、その指先一本に至るまで、神宮寺の資産だ。お前が勝手に損なっていいものではない」

蓮はデスクの引き出しから、榊原医師が特別に調製したという消炎鎮痛の薬瓶を取り出した。そして、舞香をソファに押し沈めると、自ら彼女の前に膝をついた。冷徹な総帥が、名もなき女優の前に跪いている。その異常な光景に、舞香の心臓は激しく波打った。

蓮は大きな、しかし驚くほど繊細な指先で、舞香の腫れ上がった指先に薬を塗り始めた。冷たい薬液が傷口に沁みるが、その後に続く蓮の指の温度が、舞香の皮膚を焦がすように熱い。彼は不器用ながらも、執着を隠そうともせずに、一本ずつ丁寧に薬を塗り込んでいく。舞香は彼を拒絶すべきだと頭では理解しながらも、その底知れぬ孤独を孕んだ手つきに、奇妙な依存心を抱きそうになる自分を必死に律した。

「叔父が持っていた出生証明書の原本は、この金庫に収めた」

蓮は立ち上がり、壁に埋め込まれた頑強な金庫を指し示した。

「橘舞香。お前を縛る過去の鎖は、今や完全に私の手の中にある。お前が契約を破棄すれば、私はいつでもこの紙切れを裏社会に流し、お前と妹を破滅させることができる。忘れるな」

「忘れませんわ、蓮様」

舞香は手袋をはめ直し、冷たいポーカーフェイスを取り戻した。これが私たちの真実だ。冷酷な利害関係、そして互いに銃を突きつけ合うような共犯関係。

「数日後には、会員制サロン『エリュシオン』でのデビュー舞踏会が控えている。お前が完璧な『佐伯汐里』として社交界に復帰することを、世界が待っている」

蓮は衣装ラックから、厳重にカバーがかけられた一着のドレスを引き出した。カバーを外すと、そこには息を呑むほど美しい、純白のヴィンテージドレスが姿を現した。

「これは、汐里が一年前のデビュー舞踏会のために、パリのオートクチュールで特注したドレスだ。彼女はこれに一度も袖を通すことなく……死んだ」

シルクと最高級のベルギーレースが、オフィスの冷たい照明を浴びて、まるで亡霊の衣のように白く、神々しく光っている。舞香はそのドレスを見つめ、汐里が最期に抱いていたであろう絶望と恐怖を肌で感じた。

「これを着こなせ。本日、フィッティングのために気鋭のデザイナー、綾小路葵が東離れを訪れる。彼を欺き、ドレスを完璧に自分のものにしろ」


東離れの豪奢なサロン。窓外には美しく手入れされた庭園が広がっているが、室内の緊張感は極限に達していた。

「初めまして、汐里様。一年の空白を経て、再び私のミューズに触れることができるとは、芸術家としてこれ以上の歓びはありません」

現れたのは、綾小路葵だった。パリコレで活躍する気鋭のデザイナーであり、綾小路子爵家の末裔。奇抜だが洗練されたモノトーンの衣装を身に纏い、丸い黒縁眼鏡の奥から、すべてを見透かすような鋭い眼光を放っている。彼は人間の骨格や筋肉の動きを一瞬で見抜く「美の審判者」として、社交界で恐れられていた。

葵は、汐里の生前の正確なサイズが記録された「パーソナル・トルソー(採寸原簿)」をテーブルに広げ、長い指先でメジャーを弄んだ。

「では、フィッティングを始めましょう。一年の静養で、あなたの美しい身体がどのように変化したのか、私の目で確かめさせていただきます」

舞香は「忘我の憑依(メソッド)」を起動し、鏡の前で背筋を完璧に伸ばした。お抱えの美容師が汐里の髪型を完璧に再現し、首元にはシルバーの蝶のネックレスが飾られている。だが、白いヴィンテージドレスを身に纏った瞬間、舞香は呼吸が止まりそうになった。

(タイトすぎる……!)

一年前の汐里のサイズに合わせられたドレスは、恐ろしいほどに細身だった。コルセットで肋骨をギリギリまで締め上げられ、肺が圧迫される。呼吸困難に近い肉体的苦痛が舞香を襲うが、彼女は「感情遮断スイッチ」を入れ、顔には一切の苦痛を出さず、完璧な令嬢の微笑みを浮かべ続けた。

葵が近づき、冷たいメジャーを舞香の体に這わせた。彼の指先が、舞香の肩から鎖骨、そして背中へと滑る。葵の眉が、ピクリと不自然に動いた。

メジャーが、舞香の肩甲骨のあたりでピタリと止まる。葵は眼鏡の位置を直し、舞香の背後からその骨格を凝視した。

「……おかしいですね」

葵の低い呟きが、サロンの静寂を切り裂いた。舞香の心臓が、ドクンと激しく跳ね上がる。

「何がかしら、葵?」

舞香は汐里特有の、少し憂いを帯びた甘い声色で問いかけた。だが、葵の目は笑っていない。彼はメジャーを握りしめ、冷徹な観察眼で舞香の肩を見つめた。

「汐里様、あなたの肩甲骨の周囲の筋肉量が、以前のデータより僅かに――約二センチメートル多い。以前のあなたは、もっと華奢で、羽のように儚い骨格をしていた。今のあなたの肩は、まるで……日常的に激しい肉体訓練を行っている舞台俳優のように、強靭な筋肉の付き方をしている」

葵の言葉に、舞香の脳裏に最悪のシナリオがよぎった。舞台女優としての長年の基礎訓練、発声や身体表現のための過酷な運動。それが、骨格と筋肉の付き方に「橘舞香」としての消えない痕跡を残していたのだ。美の天才である葵の目を欺くことは、容易ではない。

「君は太るような自己管理の甘い女性ではない。だが、この骨格の違いは、ドレスのシルエットを僅かに歪めている。……汐里様、あなたはいったい――」

葵の疑惑が確信に変わる寸前、舞香は瞬時に「アテンション・コントロール」を起動した。彼女は動揺を完璧に隠し、右手で首元の「シルバーの蝶のネックレス」を優雅に弄び始めた。指先を滑らかに動かし、プラチナとダイヤモンドの細工を光らせる。葵の鋭い芸術家の視線が、舞香の肩から、彼女の美しい手元とデコルテ、そして蝶のネックレスへと自然に誘導される。

「ふふ、さすがは葵ね。私の微細な変化を見逃さないなんて」

舞香はメソッド演技に基づいた完璧な微笑みを浮かべ、即興の言い訳を紡ぎ出した。

「一年の静養中、お医者様の勧めで、体力を取り戻すために過酷な乗馬トレーニングを始めましたの。馬の手綱を引くうちに、上半身が引き締まってしまいましたのね。ドレスのシルエットを乱してしまったのなら、私の努力が裏目に出てしまったかしら?」

舞香の瞳には、完璧な令嬢としての凛とした釈明と、僅かな悪戯っぽさが宿っていた。乗馬という上流階級にふさわしい、もっともらしい物語の提示。葵は彼女のネックレスを弄ぶ手の優雅さと、非の打ち所がない気品に満ちた態度に、完全に魅了された。

葵はしばらく舞香を見つめていたが、やがてふっと息を吐き、眼鏡を外した。

「……なるほど。乗馬による筋肉の発達ですか。失礼いたしました、汐里様。美のための努力を、不審に思うべきではありませんでしたね。むしろ、今のあなたには、以前の儚さとは異なる、内なる『強靭な意志』を感じます。その変化、実に美しい」

葵は納得し、採寸原簿に新たな数字を書き込んだ。フィッティングの危機を、舞香は自らの知性と演技力で完全に突破したのだ。だが、葵は去り際、舞香の目をじっと見つめ、静かに囁いた。

「ですが、そのネックレスを弄ぶあなたの指の動き……以前の汐里様よりも、ずっと力強く、何かを支配しようとする意志を感じる。エリュシオンでのあなたの姿、楽しみにしていますよ」

葵は意味深な笑みを残し、東離れを去っていった。彼が去った瞬間、舞香は張り詰めていた緊張から解放され、激しい過呼吸を起こしてソファに倒れ込んだ。コルセットが食い込み、指先が激しく痛む。だが、休む時間はなかった。


その夜、東離れの静かな居間で、舞香はテレビのスイッチを入れた。画面に映し出されたのは、社交界の最新ニュースを伝える華やかな番組だった。

『――続いてのニュースです。一年前の悲劇から奇跡の生還を遂げた、神宮寺グループ総帥・神宮寺蓮氏の婚約者、佐伯汐里様の公式な復帰が本日、正式に発表されました。数日後に開催される、社交界の最高峰『エリュシオン』の舞踏会にて、その美しい姿を現すとのことです……』

画面には、汐里の生前の写真と、今日の発表に伴う神宮寺グループの公式声明が映し出されている。舞香は、自分が「神宮寺グループ次期総帥夫人」という、日本中が注目する巨大な標的になったことを自覚した。マスコミの目が、そして雅子派の刺客たちの目が、一斉に自分に向けられるのだ。


同じ時刻、白鳥財閥の本邸。豪華な調度品に囲まれた寝室で、白鳥蓮華はテレビ画面に映し出される「佐伯汐里」の顔を凝視していた。彼女の手には、シャンパングラスが握られている。

「奇跡の生還……? ふざけないで、汐里」

蓮華の美しい顔が、激しい嫉妬と憎悪によって醜く歪んだ。彼女の瞳には、凍りつくような憎悪の炎が灯っている。

「死んだはずのあなたが、なぜ今更戻ってくるの? 蓮様の隣に立つのは、この私よ。……エリュシオンの舞踏会、楽しみにしていなさい。何百人もの前で、あなたのその澄ました『仮面』を、私が完璧に剥ぎ取ってあげるわ」

蓮華はグラスをテーブルに叩きつけた。パリンと鋭い音が響き、赤い液体が絨毯に広がっていく。社交界の絶対的な戦場が、すぐそこに迫っていた――。

HẾT CHƯƠNG

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