身内の牙
月光に照らされた白いバルコニーで、阿部秘書の眼鏡が冷酷に光った。手すりの傷を握りしめたまま、舞香は息を止める。
「汐里様、こんな夜更けに、一年前の悲劇の現場で何をなさっているのですか? まるで、何かを探していらっしゃるようだ」
阿部は静かに歩み寄る。その足音はほとんど響かないが、舞香の心臓は激しく警鐘を鳴らしていた。手すりの外側、汐里が最期に遺した爪跡を握る指先が微かに震える。ここで動揺を見せれば、汐里の死が事故ではなく「背後からの突き落としによる殺人」であると気づいたことが雅子側に露呈する。そうなれば、次の瞬間に自分がこのバルコニーから突き落とされてもおかしくない。
舞香は「感情遮断スイッチ」を入れ、一ノ瀬蘭から学んだ「支配者の仮面」を被った。背筋をピンと伸ばし、顎を僅かに引き、阿部の眉間のやや上を冷徹に見つめ返す。
「阿部秘書。あなたこそ、私のプライベートな時間に土足で踏み込む無礼をおかすのね。私はただ、あの夜の冷たい風を感じていただけよ」
「手すりを熱心に調べておられたようですが?」
阿部の眼鏡の奥の瞳が、獲物を狙う蛇のように細くなる。舞香は優雅に微笑み、逆質問を繰り出した。
「一年前、私がここから落ちた夜、お母様(雅子)はどこにいらしたかしら? 確か、私の部屋の近くで、何かを指示していらしたような気がするの。私の記憶は曖昧だけれど……あなたなら、よくご存じなのではなくて?」
阿部の表情が一瞬、凍りついた。舞香はさらに、汐里の「精神的失調」を演じるように、微かに視線を虚空へと泳がせ、手すりを愛おしそうに撫でる。
「あの薔薇たちが、夜になると私を呼ぶのよ。まるで、私を突き落としたあの『手』の温もりを教えてくれるように……」
狂気と気品が入り混じった舞香の演技に、阿部は一歩退いた。彼女が単に事故のトラウマで精神を病んで徘徊しているだけだと判断したのだ。「……失礼いたしました。お体に障ります、早くお部屋にお戻りください」
舞香は冷たい一瞥を送り、その場を立ち去った。東離れの自室に戻った瞬間、舞香は崩れ落ちるように安堵の息を漏らした。手袋を外すと、一晩中ピアノを叩き続けた指先が赤く腫れ、血が滲んでいた。手首には、闇金・鮫島剛に掴まれた青黒い痣が痛々しく残っている。
翌朝、舞香がマダム・ローランの厳しい姿勢指導の余韻に耐えながら、東離れのサロンで休んでいると、彼女の個人スマートフォンが不穏な振動を始めた。登録されていない番号だった。
恐る恐る出ると、受話器の向こうから聞こえてきたのは、聞き覚えのある、しかし最も聞きたくなかった男の、脂ぎった声だった。
「よう、舞香。ずいぶんと偉くなったもんだな。神宮寺の総帥夫人サマか?」
叔父の橘惣一郎だった。
「惣一郎叔父さん……なぜこの番号を?」
「お前が劇団を辞めて急に贅沢な暮らしを始めたからな、怪しいと思って世田谷のアパートを漁らせてもらったよ。そうしたら、面白いものが出てきてねえ。『橘舞香』の本物の出生証明書だ」
舞香の背筋に冷たい氷が滑り落ちる。
「お前が死んだ『佐伯汐里』の身代わりをして、神宮寺家を騙している詐欺師だってことは、これ一枚で証明できる。すでに神宮寺実サマの秘書にも接触しているんだ。この証明書、あちらの坊ちゃんが高値で買ってくれると言ってくれてねえ」
惣一郎は下衆な笑い声をあげる。
「だが、身内の情だ。お前が今すぐ3000万円を用意するなら、実サマには売らずにお前に渡してやってもいい。今すぐ、丸の内のパレスホテルのティーサロンに来い。逃げたり、蓮に告げ口したら、その瞬間に実サマにすべてを渡すからな」
舞香は蓮に相談する時間がないと判断した。ここで一度でも弱みを見せれば、惣一郎はさらに実(みのる)に情報を売る。彼女は専用リムジンを呼び出し、木下運転手の警護のもと、指定されたホテルへと向かった。
パレスホテルの高級ティーサロン。窓から美しい皇居の外堀が見えるが、室内の空気は舞香にとって戦場だった。
惣一郎は、安物のブランドスーツに成金趣味の金時計をこれ見よがしに光らせ、脂ぎった顔でスコーンを貪っていた。舞香が席に着くと、彼は下品な笑みを浮かべた。
「お出ましだな、汐里様よ」
舞香はテーブルの向かいに腰掛けた。白いレースの手袋をした手で、優雅に紅茶のカップを持つ。指先に激痛が走るが、表情には微塵も出さない。「契約上の婚約者」としての不安定な立場だからこそ、ここで負けるわけにはいかない。
惣一郎は内ポケットから、本物の「橘舞香の出生証明書」のコピーをチラつかせた。「3000万円だ。お前が神宮寺の財布から盗むなんて造作もないことだろ?」
舞香は動揺を完全に抑え込み、冷たい微笑みを浮かべた。一ノ瀬蘭から叩き込まれた「支配者の仮面」が、彼女の全身に圧倒的な威厳を纏わせる。
「惣一郎叔父様。相変わらず、お召し物の着こなしが汚らしいことですこと。その金時計も、あなたが経営するダミー会社が抱える、不透明な脱税疑惑の隠れ蓑かしら?」
「な、何だと……?」
舞香は事前に高橋徹のハッキングによって得ていた、惣一郎の中小企業が裏社会の末端で行っている非合法な「グレーゾーン取引」と「脱税」のデータを脳内で検索していた。彼女は「逆質問によるポーカーフェイス」を使い、静かに、しかし冷酷に語りかける。
「あなたがその紙切れを実様に売った瞬間、私も神宮寺家も、あなたを全力で叩き潰すわ。あなたの会社の裏帳簿、および税務署への匿名告発状は、すでに私の手元にあるの。3000万円と引き換えに、残りの人生を刑務所で過ごす覚悟はあるのかしら?」
惣一郎の顔から血の気が引いていく。彼の脂ぎった額から冷や汗が流れ落ちる。舞香の放つ「他者を平伏させるオーラ」は、かつての売れない舞台女優のそれではなく、本物の「神宮寺家の支配者」のそれだった。
「橘家の人間は、もう私には存在しません。次に私の前に現れたら、容赦なくあなたを社会的に抹殺するわ」
舞香は冷酷に決別を告げた。惣一郎は恐怖に震え、出生証明書のコピーをテーブルに残したまま、這うようにしてティーサロンから逃げ去っていった。
一人残された舞香は、カップを置き、深く息を吐いた。手袋の中で指先が激しく疼く。その時、彼女のスマートフォンが静かに振動した。蓮の個人秘書である田中からの連絡だった。
「汐里様、お疲れ様でした。先ほど、パレスホテルの地下駐車場にて、橘惣一郎を当グループの警備部が確保いたしました」
舞香は息を呑む。
「総帥(蓮)の命令により、これより彼を物理的に『処理』いたします。出生証明書の原本もすべて回収いたしました。ご安心ください」
受話器の向こうから聞こえる、田中の淡々とした、しかし背筋が凍るほど冷徹な声。蓮の冷酷な処理が、今、始まったのだ――。
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