亡霊の調律
重苦しい不協和音の余波が、東離れの応接室に冷たく響き渡っていた。
「姉さん……あの夜の『約束』、覚えてるよね? 僕たちが、この曲の最後に必ず弾いた、あの秘密のコードを弾いてよ」
佐伯拓海の濡れた瞳が、私の凍りついた指先をじっと見つめていた。絶対音感を持つ彼の耳は、僅かな迷いすらも聞き逃さない。鍵盤の上で静止した私の右手からは、昨夜の猛特訓で生皮が剥けた指先から赤い血がじわりと滲み、白い象牙の鍵盤を汚していた。手首には、闇金・鮫島剛に掴まれた痕が今も青黒く残っている。喉の奥は、晩餐会でのアレルギー発作の演技による酷使で、火を噴くように熱く痛んだ。
脳内が真っ白に染まる。汐里の日記にも、高橋徹が解析した演奏データにも、そんな「秘密のコード」の記述は存在しなかった。拓海が仕掛けた、姉弟だけにしか分からない即興の真贋テスト。ここで間違った音を弾けば、私はその瞬間に「偽物の詐欺師」として神宮寺家から追放され、妹の芽衣の命も、劇団の存続も、すべてが砂のように崩れ去る。
(どうする……。ピアノの技術で彼を騙すことは物理的に不可能。なら、演じるしかない。音楽ではなく、汐里の『魂』そのものを――!)
私は「忘我の憑依(メソッド)」を極限まで深めた。脳内から「橘舞香」という存在を完全に消去し、汐里が抱いていたであろう絶望と悲痛な覚悟を、自らの胸の内に強制的に移植する。汐里の日記の後半に綴られていた、雅子からの執拗な虐待、そして蓮への狂おしいほどの愛と、彼を守るために自ら死を選ぶしかないという極限の諦念。その記憶が、私の血流とシンクロしていく。
私はゆっくりと、血の滲む右手を鍵盤から引き上げた。まるで、これ以上その美しい思い出に触れることすら恐れるかのように。
「……姉さん?」
拓海の瞳に、猜疑心と不安が交差する。私は彼を見つめ返した。その瞳から一切の光を消し、底知れない深淵のような哀しみと、張り裂けそうな諦めを宿らせて。喉の痛みを逆利用し、かすれきった、しかし胸を締め付けるような声で囁く。
「拓海……あの約束は、もう終わったの」
「え……?」
「二人でこの家から逃げ出そうなんて、そんな子供じみた約束……。私たちがどれだけ足掻いても、あの暗闇からは逃れられない。私が戻ってきたのは、あなたと約束を果たすためじゃない。……すべてを、終わらせるためよ」
その言葉は、汐里が死の直前に日記に遺していた、周囲を巻き込むまいとする悲壮な決意そのものだった。私の右指から滴り落ちた一滴の血が、鍵盤の上で小さく弾ける。私はその血の痕を愛おしそうに、しかし冷たく見つめた。
「あなたのピアノは、もう私の血で汚されるべきではないわ。拓海……私を、これ以上揺さぶらないで」
拓海は息を呑んだ。彼の絶対音感は、私の声の「掠れ」の奥にある、偽りのない絶望の響きを捉えていた。そして、私の右手の指先――生皮が剥け、血を流しながらも、自分に汐里だと認めさせるために一晩中鍵盤を叩き続けたであろうその凄惨な痕跡。それは、どんな言葉よりも雄弁に「姉の必死の帰還」を証明していた。
「姉さん……ごめんなさい、僕、なんてことを……!」
拓海の瞳から、大粒の涙が溢れ出た。彼はピアノの椅子から崩れ落ちるようにして、私の膝に縋り付いた。激しく肩を震わせ、子供のように声を上げて泣きじゃくる。
「姉さんが戻ってきてくれたのに、僕、疑うような真似をして……。その指、僕のせいで……ごめんなさい、姉さん!」
私は彼の頭を静かに抱きしめた。その髪の温もりを感じながら、胸の奥を激しい罪悪感が切り裂く。
(ごめんなさい、拓海。私はあなたの本物の姉じゃない。あなたの純粋な愛を、私は嘘の演技で踏みにじっている……)
しかし、私はその罪悪感すらも「汐里の苦悩」として表情に溶け込ませた。拓海を完全に納得させ、味方に引き込むことに成功したのだ。これで雅子が送り込んだ最初の刺客を退けた。だが、私の「身代わり」という舞台は、休む間もなく次の幕へと移行する。
数日後、東離れのサロンには、凍りつくような緊張感が漂っていた。
「背筋が曲がっています、汐里様。神宮寺家の次期総帥夫人が、そのような卑屈な姿勢で社交界の壇上に立つとお思いですか?」
冷徹な声が室内に響く。蓮が極秘裏に雇ったパリ帰りの厳格なプロトコール講師、マダム・ローランだった。白髪をエレガントなシニヨンにまとめ、シャネルのヴィンテージスーツを纏った彼女は、手にした定規で私の背中を容赦なく叩く。
「歩くときは足音を完全に消しなさい。お茶を淹れる所作一つに、その人間の血統が現れるのです」
私は指先の怪我を隠すために極薄の包帯を巻き、その上から白いレースの手袋をはめていた。しかし、マダム・ローランの厳しい指導のもと、最高級の磁器カップにお茶を注ぐ際、指先の傷がズキリと疼いた。一瞬、指先の感覚が麻痺し、カップが僅かにカチャリと音を立てて揺れる。
「不作法極まりない! 格式ある西園寺夫人のサロンでは、その微細な音があなたの『育ち』を否定する致命傷になります!」
マダムの容赦のない叱責が飛ぶ。私は「感情遮断スイッチ」を入れ、痛みを脳内から完全にシャットアウトした。呼吸を整え、ミリ単位で手の角度を調整する。何度も、何度も、お茶を淹れる動作を繰り返す。一挙手一投足に気品を宿らせるための、地獄のような特訓だった。
だが、それだけでは足りない。夕刻、サロンの重厚な扉を開けて入ってきたのは、真紅のドレスに身を包んだ伝説の大女優、一ノ瀬蘭だった。
「ふん、ただのお行儀の良いお人形ね」
蘭は大きなサングラスを外し、私を値踏みするように見つめた。その瞳には、かつて銀幕を支配し、今や政財界の重鎮たちを従える者特有の、圧倒的なカリスマ性が宿っていた。
「マダム・ローランが教えるのは、単なる『召使いでもできる作法』よ。あなたがこれから入る社交界という魔窟はね、お上品なだけのお嬢様は一瞬で食い殺される場所。必要なのは、他者を平伏させる『支配者のオーラ』よ」
蘭は私に近づき、私の顎を鋭い指先で持ち上げた。蓮がよくやるのと同じ、支配者の仕草。
「目をそらさないこと。相手の眉間のやや上を、冷徹に見つめなさい。背筋を伸ばし、顎を僅かに引く。自分がこの部屋の絶対的な支配者であると、脳に自己暗示をかけるのよ。それが『支配者の仮面(ロイヤル・マスク)』。やってみなさい」
私は蘭の威圧的な視線に押し潰されそうになりながらも、必死で彼女の立ち振る舞いを模倣した。呼吸を深く沈め、全身の筋肉を「威圧の型」へと固定する。私の瞳の奥に、冷たく鋭い光が灯るのを見て、蘭は初めて満足そうに口角を上げた。
「いいわ。その眼光……死者の亡霊ではなく、獲物を狙う女王の目ね」
特訓を終えた深夜。全身の筋肉がきしみ、疲弊しきった体を引きずりながら、私は東館の「薔薇のバルコニー」へと向かった。そこは、1年前に汐里が謎の転落死を遂げた、この神宮寺本邸における「禁忌の死の現場」だった。
夜風が冷たく私の頬を叩く。バルコニーの下には、暗闇の中で鋭いトゲを持つ白いバラ園が不気味に広がっていた。1年前、汐里はここからあのトゲの海へと真っ逆さまに落ちて亡くなったのだ。公式には「落雷の音に驚いたことによる不慮の事故」と処理されている。
(本当に事故だったの……? 完璧な令嬢だった汐里が、そんな無様な死に方をするはずがない)
私はバルコニーの白大理石の手すりに近づき、そっと触れた。そして、汐里が転落したとされる夜の天候、雨の強さ、風の向きを頭の中で再現する。私は手すりを掴み、汐里の最期の身体的ポジションをメソッド演技で追体験しようと試みた。
手すりに体重をかけ、外側を覗き込む。その時、私の指先が、大理石の表面にある奇妙な凹凸に触れた。
「……これは?」
月光を頼りに、私は手すりの外側の縁を凝視した。そこには、大理石を物理的に削り取ったような、深く細い複数の「引っかき傷」が残されていた。それも、手すりの内側ではなく、完全に「外側の斜面」に向かって垂直に刻まれている。
私の脳内で、鋭いプロファイリングの回路が火花を散らした。
(もし、自らバランスを崩して落ちたのなら、傷は手すりの上部に残るはず。でも、この傷は外側の縁に、下に向かって刻まれている。まるで……落ちる直前、誰かに背後から突き落とされ、必死に手すりの外側を爪で掴んで耐えようとしたかのように――)
さらに、手すりの支柱の基部には、強い衝撃で大理石が微かにひび割れた痕跡があった。大人の人間が、背後から猛烈な力で押し出されなければ、これほどの局所的な負荷はかからない。
全身の血の気が一瞬にして引いていくのを感じた。汐里の死の真相が、私の脳内で一つの戦慄すべき絵となって完成する。
(事故なんかじゃない。自殺でもない。汐里は……後ろから誰かに、明確な殺意を持って突き落とされたんだ。これは、殺人事件よ――!)
その冷酷な真実に到達した瞬間だった。私の背筋に、凍りつくような冷たい悪寒が走った。
誰かに見られている。
本館の影、バルコニーに続く薄暗い廊下の奥から、執拗で冷徹な視線が私の背中を貫いていた。私は「感情遮断スイッチ」を入れ、動揺を押し殺してゆっくりと振り返る。
月光が届かない暗闇の奥。そこには、仕立ての良い黒のスーツを纏い、銀縁の丸眼鏡の奥で一切の感情を排した瞳を光らせる男が、影のように静かに佇んでいた。
雅子の忠実な懐刀であり、神宮寺家の裏の汚れ仕事をすべて取り仕切る司令塔――阿部秘書。
彼は無言のまま、冷酷な眼差しで、バルコニーの傷を見つめていた私の姿をじっと見つめていた。その手元で、スマートフォンの画面が静かに怪しく明滅している。
呼吸が止まるほどの静寂の中、阿部秘書の薄い唇が、冷笑を浮かべるように微かに動いた。
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