債権の鎖
「……見事な演技だったな、橘舞香」
走行する専用リムジンの車内。暗闇の中で、神宮寺グループの冷酷な総帥・神宮寺蓮の低く響く声が、舞香の鼓膜を震わせた。
彼の温かい指先が、舞香の額に浮かんだ冷や汗を拭い、そのまま細い首筋へとゆっくりと滑り落ちていく。そこは、先ほど本館の晩餐会で致死性のアレルギー発作を「演じた」際、実際に激しく痙攣し、喉の粘膜を痛めた場所だった。指先が微細な皮膚の震えを感知するたびに、蓮の瞳の奥に宿る熱が、静かに深まっていくのが分かった。
「触らないで……」
舞香は掠れた声で拒絶しようとしたが、喉の奥が物理的に焼け付くように痛み、かすれた喘鳴しか出なかった。その拒絶さえも、蓮の独占欲を刺激する燃料に過ぎないようだった。
「演技のために、自らの肉体を極限まで追い詰める。そこまでの狂気を秘めているとはな。橘舞香、お前という女は……」
蓮の切れ長の瞳が、暗闇の中で妖しく、そして深く濁った光を湛えていた。それは、単なる「囮」としての利用価値を評価する目ではなかった。彼女の凄まじい執念に当てられ、自らの冷徹な仮面を内側から狂わされていく支配者の、歪んだ執着そのものだった。
「私は……私の舞台を、完璧に演じただけよ」
舞香は「感情遮断スイッチ」を脳内でかろうじて維持しながら、冷たい視線で蓮を見つめ返した。手首には、かつて闇金の鮫島剛に乱暴に掴まれた赤黒い痣が、今も痛々しく残っている。それを隠すように、彼女はドレスの袖を引いた。
リムジンが東離れの玄関口に滑り込み、舞香は蓮の腕から逃れるようにして車を降りた。喉の痛みを抱えたまま、天蓋付きベッドに横たわった彼女は、汐里の直筆日記帳を胸に抱きしめ、泥のような眠りに落ちた。
――だが、その平穏は、翌日の夕方に無残にも打ち砕かれた。
東離れの自室で療養していた舞香のスマートフォンが、けたたましい音を立てて震えた。画面に表示されたのは「非通知設定」の文字。嫌な予感が走り、舞香は掠れた声で通話ボタンを押した。
「よう、橘舞香。いや、今は『佐伯汐里』様とお呼びした方がいいのかな?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、あの下衆で残忍な闇金「黒崎ファイナンス」の代表・黒崎竜二の、粘りつくような笑い声だった。舞香の全身の血が凍りつく。
「なぜ、あなたが……」
「とぼけるなよ。お前が神宮寺の坊ちゃんに囲われて、死んだ婚約者のフリをしてるってことは、とっくに調べてあるんだ。大富豪の仲間入りをして、自分の過去を綺麗さっぱり忘れたつもりか?」
黒崎の言葉に、舞香は息を呑んだ。正体が、すでに裏社会の末端に漏れている。
「お前の父親、橘健一の借金3000万円は、違法金利も含めて膨らみ続けている。それにな……お前の可愛い妹、芽衣ちゃん。聖マリアンヌ総合病院の特別病棟で、のんきに心臓の手術を待っているそうじゃないか。とても綺麗な病院だな。ほら、写真を送ってやったぞ」
直後、スマートフォンにメッセージが届いた。添付されていたのは、特別病棟の窓ガラス越しに、ベッドで眠る芽衣の姿を遠くから盗撮した不気味な写真だった。
「芽衣……!」
舞香の喉から、悲痛な悲鳴が漏れた。
「正体を雅子様にバラされたくなければ、明日の朝までに1億円をキャッシュで用意しろ。それから、お前がいた劇団『アーク』の稽古場にも、俺の若い衆が挨拶に行っている。今頃、面白いことになっているはずだぜ」
黒崎は一方的に電話を切った。舞香はパニックに陥り、呼吸が浅くなった。妹の命が、そして自分の原点である劇団の仲間たちが、自分の「嘘」の代償として人質に取られている。
(逃げなきゃ。今すぐ芽衣を連れて、この街から……!)
舞香は「忘我の憑依(メソッド)」を維持することすらできず、ただの橘舞香に戻って部屋のクローゼットを開けた。古びたデニムジャケットと、母・佳乃の形見の台本をバッグに詰め込み、東離れの重厚な玄関ドアへと走り寄った。
しかし、彼女がドアノブに手をかけた瞬間、目の前の扉が外側から静かに開いた。
そこに立っていたのは、漆黒の闇のようなオーラを纏った神宮寺蓮だった。
「どこへ行く、橘舞香」
蓮の声は、氷点下の冷気を孕んでいた。彼の背後には、佐藤健ボディガードが影のように控えている。
「どいて……! 妹が、芽衣の命が危ないの! 黒崎が……黒崎がすべてを知って、病院に手下を放ったのよ!」
舞香は蓮の胸元を両手で押し、必死に叫んだ。しかし、蓮の強靭な肉体は微動だにしない。彼は冷酷な手つきで舞香の手首を掴み、彼女を室内の大理石の床へと押し戻した。
「契約を破棄して逃亡するつもりか。佐々木弁護士が作成した契約書を忘れたわけではあるまい」
蓮はジャケットの内ポケットから、100ページに及ぶ「身代わり契約書」のコピーを取り出し、舞香の目の前に突きつけた。
「契約不履行ペナルティ規約。お前が途中で演技を放棄した場合、または自ら正体を明かした場合、全額の返還に加え、10億円の違約金が発生する。さらに、妹の医療支援は即座に打ち切られ、お前の父親の借金契約書は、裏社会の最も残虐な組織へと再売却される。お前に逃げ場などない」
「あなたは悪魔よ!」
舞香は床に膝をつき、涙を流しながら叫んだ。自分の妹の命を救うための契約が、今や自分を縛る最も冷酷な檻となっている。
「悪魔か。結構なことだ」
蓮は冷たく言い放ち、舞香を見下ろした。その切れ長の瞳には、しかし、舞香を失うことに対する微かな焦燥が隠されていた。彼は佐藤ボディガードに向かって、短く命じた。
「佐藤、リムジンを用意しろ。黒崎ファイナンスの裏事務所へ向かう」
舞香は涙に濡れた顔を上げた。「……え?」
「私の『所有物』に勝手な値段をつける下衆は、生かしておけない。橘舞香、お前も来い。お前の過去を縛る鎖が、いかにして私の手によって上書きされるか、その目で見るがいい」
蓮の「美しく冷酷な暴力」の意思が、その一言に込められていた。
深夜の新宿歌舞伎町。雑居ビルの5階にある「黒崎ファイナンスの裏事務所」は、タバコの煙と血生臭い空気が充満していた。窓のない狭い室内の奥で、黒崎竜二はソファに踏んぞり返り、鮫島剛ら数人の武闘派ヤクザと談笑していた。
その時、事務所の鉄製の重厚なドアが、凄まじい衝撃音と共に内側へと吹き飛んだ。
「な、なんだ!?」
黒崎が立ち上がった瞬間、煙の中から突入してきたのは、佐藤健率いる神宮寺家の私設治安部隊だった。佐藤は元特殊部隊員らしい電撃的な動きで、ナイフを抜こうとした鮫島剛の腕を掴み、関節を容赦なく破壊した。
「がはっ……あ、ああっ!」
鮫島の巨体がテーブルに叩きつけられ、灰皿や書類が飛び散る。わずか数秒。事務所内にいた黒崎の手下たちは、一言の悲鳴を上げる暇もなく、コンクリートの床に組み伏せられた。
静まり返る暴力の巣窟に、ゆっくりと歩みを進めてきたのは、神宮寺蓮だった。その後ろに、怯えながらも目を逸らさない舞香が続く。
「し、神宮寺……蓮……!」
黒崎は腰を抜かし、ソファの背もたれに這いつくばった。彼のギラギラとした欲望に満ちた瞳は、今や完全な恐怖に支配されていた。蓮は机の前に立つと、オーダースーツの汚れを気にするように軽く払い、黒崎を見下ろした。
「黒崎竜二。お前が橘健一に署名させた、3000万円の闇金契約書原本を出せ」
「な、何をおっしゃる……。あれは正当な取引で……」
「佐藤」
蓮が短く呼ぶと、佐藤が黒崎の指を一本、静かに掴んで逆方向に曲げた。凄まじい骨折の音が響き、黒崎が悲鳴を上げる。
「ひ、ぎゃあああ! 出す、出すから許してくれ!」
黒崎は震える手で壁の金庫を開け、一枚の黄ばんだ紙を取り出した。それこそが、舞香の父・健一が署名し、舞香自身の筆跡で保証人サインがなされた「橘健一の闇金契約書原本」だった。舞香はその書類を目にした瞬間、呼吸が止まりそうになった。自分を地獄に引きずり込んだ、諸悪の根源がそこにあった。
蓮は原本を冷酷に奪い取ると、細部を確認し、満足そうに頷いた。そして、ジャケットの内ポケットから、3000万円の小切手を取り出し、黒崎の顔に投げつけた。
「債権は正当に回収した。これで橘家の債務は消滅する。……だが」
蓮は黒崎の髪を掴んで引きずり起こし、その耳元で、死神のような声で囁いた。
「私の婚約者である『佐伯汐里』の妹に、二度と不審な影を近づけるな。もし聖マリアンヌ病院の敷地内にお前の手下が一人でも立ち入れば、お前だけでなく、お前の上部組織ごとこの世から消去する。私の言葉が本気かどうか、試してみるか?」
「い、いや……二度としません! 約束します!」
黒崎は涙と鼻水に塗れながら、何度も床に頭を叩きつけた。蓮の圧倒的な経済力と、ルール無用の物理的暴力の前に、裏社会の小悪党など一瞬で無力化される存在に過ぎなかった。
(この情報は、いつか役立つはずだ)
背後で、高橋徹が事前に黒崎のサーバーをハッキングし、彼が警察の上層部(金城刑事)と交わしていた不透明な裏取引台帳をすべて回収したことを、蓮に目線で合図した。これが、今後の雅子派への強力な反撃の武器となるはずだった。
事務所を後にし、再びリムジンの車内へと戻った舞香と蓮。
黒崎からの直接の脅迫は消滅し、妹の芽衣の安全は確保された。劇団アークへの嫌がらせも、蓮の部下が即座に処理したという。舞香は胸を撫で下ろし、張り詰めていた緊張から解放され、シートに深く身を沈めた。
しかし、彼女の安堵は次の瞬間に凍りついた。
蓮は、手に入れたばかりの「橘健一の闇金契約書原本」を、舞香の目の前でひらひらと揺らした。舞香はそれを受け取ろうと手を伸ばしたが、蓮はその手を優雅にかわし、原本を自らのジャケットの内ポケットの奥深く、心臓に近い位置へと収めてしまったのだ。
「なぜ……? 借金は返済されたはずよ。それを破り捨てて……!」
舞香は掠れた声で抗議した。原本が消滅すれば、自分は自由になれるはずだった。
「勘違いするな、橘舞香」
蓮は冷たく微笑み、舞香の至近距離まで顔を近づけた。彼の切れ長の瞳には、逃げ出すことを許さない絶対的な支配欲が燃え盛っていた。
「私はお前の父親の債権を買い取っただけだ。つまり、お前の債務は消滅していない。今や、お前を縛るその契約書の原本は、私の手元にある」
蓮の温かい指先が、舞香の顎をゆっくりと、しかし逃れられない強さで持ち上げた。彼の冷たい吐息が、舞香の唇をかすめる。
「お前の父親を縛っていた鎖は、今、私のものとなった。橘舞香、お前の飼い主は、世界で私だけだ。私から逃げられると思うな」
その瞬間、舞香の胸に、激しい愛憎の嵐が吹き荒れた。黒崎の卑劣な暴力から救い出してくれた、美しくも冷酷な救世主。しかし同時に、自分をより深く、強固な「債権の鎖」で縛り上げる、絶対的な支配者。彼女は蓮の胸元を睨みつけながら、自らの運命がこの男の手の中に完全に囚われてしまったことを、絶望と共に自覚せざるを得なかった。
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