氷の晩餐会
真鍮のドアノブが、カチャリと冷たい音を立てて回り始める。クローゼットの暗闇に身を潜めた橘舞香は、肺の中の空気をすべて吐き出し、呼吸を完全に停止させた。胸に抱きしめた「汐里の直筆日記帳」の角が、冷たく肋骨を圧迫する。
コツ……、引きずるような音、コツ……。
相沢総執事の、右足をわずかに引きずる独特の歩行音が、開かずの間の埃っぽい床を踏みしめる。ドアが開き、廊下の琥珀色の光が細い一本の線となって暗闇を切り裂いた。懐中電灯の鋭い光が、円を描きながら室内の調度品をなぞっていく。
(見つかれば、すべてが終わる……)
舞香は「メソッド・アクティング」の基礎を応用し、自らの肉体をただの「物」へと変える自己暗示をかけた。心拍数を極限まで下げ、クローゼットに掛けられた汐里の古いドレスの影と同化する。指先には、先ほど南京錠をネックレスの突起でこじ開けた際についた、微細な擦り傷がじんわりと痛んでいた。
光がクローゼットの扉の隙間に近づいてくる。相沢の影が、目の前のスリットを遮った。彼が手を伸ばし、この扉を開ければ、その瞬間に身代わりにされた売れない女優の運命は尽きる。
だが、相沢は扉の手前で不自然に動きを止めた。彼は深く、誰もいないはずの暗闇に向かってため息をついたのだ。その嘆息は、雅子の冷酷な命令に従う忠臣のものではなく、どこか哀愁を帯びていた。
「気のせいか……。やはり、この部屋はあの時のまま、静かに眠らせておくべきだ」
相沢はそう低く呟くと、クローゼットの扉に触れることなく、ゆっくりと踵を返した。扉が閉まり、南京錠が再び外から掛けられる金属音が響く。舞香は暗闇の中で、ようやく喉の奥から震える息を吐き出した。
(相沢は……気づいていた? なのに、なぜ私を見逃したの?)
その疑問を解く時間はない。高橋徹が仕掛けた監視カメラのループ映像が切れるまで、残り時間はわずかだった。舞香は相沢が去った裏ルートを通り、冷や汗を流しながら東離れの自室へと滑り込んだ。
天蓋付きベッドのカーテンを閉め、徹の死角となる唯一のセーフエリアで、舞香は震える手で蝶のネックレスの突起を日記帳の小さな鍵穴に差し込んだ。ミリ単位の抵抗の後、小さな真鍮の錠が静かに外れる。
ページをめくると、そこには生前の汐里の、上品だがどこか怯えた筆跡が並んでいた。雅子からの陰湿な虐待、蓮への複雑な愛憎、そして――ある一節が、舞香の目を釘付けにした。
『お母様は、私がセロリに対して致死性のアレルギーを持っていることを知っていながら、わざとスープにそれを混ぜる。息が詰まり、皮膚が焼け付くような苦痛の中で這いつくばる私を見て、お母様は優雅に微笑む。あの人は、人間の皮を被った悪魔だ……』
舞香の背筋に、冷たい戦慄が走り抜けた。汐里は、重度のセロリアレルギーを患っていたのだ。そして雅子は、それを使って日常的に彼女を拷問していた。
(この情報は、いつか私を守る盾になる。……ううん、それどころか、すぐにでも牙を剥くかもしれない)
その予感は、翌日の夕方に現実のものとなった。
「汐里さん、お帰りなさい。元気になって本当に良かったわ」
神宮寺本邸「本館」の豪奢な食堂。目の前に座る継母・神宮寺雅子は、50代とは思えぬ若々しい美貌に凍りつくような笑みを浮かべ、舞香を迎えた。その佇まいは、まさにこの魔窟の絶対君主だった。円卓の向かいには、黒いオーダースーツを完璧に着こなした蓮が、氷の彫刻のように冷ややかに座っている。
「本日はね、あなたの復帰を祝して、特別な料理を鈴木料理長に用意させたのよ」
雅子が細い指先で合図を出すと、純白のコックコートを着た鈴木恵美料理長が、恭しくスープ皿を舞香の前に置いた。銀のドームカバーが外されると、湯気と共に、美しく澄んだ黄金色のコンソメスープが姿を現した。
その瞬間、舞香の鋭い嗅覚が、スープの奥に潜む「それ」を捉えた。
青臭く、鼻腔を鋭く刺す、独特のハーブのような香り。――セロリだ。それも、エキスが極限まで濃縮されたスープ。
舞香の喉が、本能的な恐怖で拒絶反応を起こしかけた。目の前のスープは、雅子が仕掛けた「真贋テスト」の毒物そのものだった。もし自分が偽物なら、セロリを平然と飲み干すだろう。もし拒絶すれば、それはそれで「なぜ拒むのか」と雅子の執拗な追及を招く。
「どうしたの? 汐里さん。あんなに大好きだったスープなのに。冷めないうちに召し上がって」
雅子の微笑みが、蜘蛛の糸のように舞香の首を締め上げていく。メイドの小林奈々が、すぐ後ろで冷ややかな視線を注いでいた。スプーンをわざと落として時間を稼ごうと指先を震わせた瞬間、奈々が即座に予備のスプーンを差し出し、逃げ道を完璧に塞がれた。
(逃げ場はない。……なら、この舞台を支配してやる)
舞香は脳内で「感情遮断スイッチ」を起動した。恐怖と焦りを心の奥底に押し込み、自らを「佐伯汐里の亡霊」と同調させる。心理同調――汐里がこのスープを前にした時の、あの狂気的な絶望と恐怖を、自分のトラウマと強制的に結合させた。
舞香は優雅にスプーンを持ち上げ、スープをひと口、唇に含んだ。
セロリの強い風味が舌を焼く。舞香の肉体自体にはアレルギーはない。だが、彼女の脳は「汐里」として機能し始めていた。喉の粘膜が腫れ上がり、呼吸が物理的に塞がれるかのような強烈な「自己暗示」を全身の筋肉に送る。
「――っ、ぅ、あ……!」
舞香は突然、スプーンを床に落とした。甲高い金属音が静まり返った食堂に響き渡る。彼女は両手で自らの喉を掻きむしり、激しく咳き込んだ。心拍数が跳ね上がり、額から大粒の冷や汗が吹き出る。顔面は一瞬にして血の気を失い、土気色へと変わっていった。
「汐里!? どうしたの!?」
雅子がわざとらしい悲鳴を上げるが、その瞳の奥には「やはり本物か」という安堵と、冷酷な観察の光が光っていた。
舞香はテーブルの上のクリスタルグラスをなぎ倒し、水を床にぶちまけながら、椅子から転げ落ちた。絨毯の上でのたうち回り、喉から「ヒュー、ヒュー」という悲痛な喘鳴を響かせる。喉の微細な筋肉を痙攣させ、本当に窒息しているかのように瞳孔を開き、白目を剥きかける。それは、生前の汐里が何度も味わったであろう、地獄の再現だった。
「雅子様! 救急車を――」
鈴木料理長が慌てて叫ぶ。その時、それまで沈黙を守っていた蓮が、猛獣のような速度で立ち上がった。
「――下がれ!」
蓮の咆哮が、食堂の重苦しい空気を切り裂いた。彼は床に這いつくばる舞香の体を、躊躇なく抱き起した。
「母上、彼女の体調を損なう料理を出すとは、一体どういう不手際ですか」
蓮の切れ長の瞳には、凍りつくような怒りが宿っていた。その鋭い眼光に、雅子さえも一瞬息を呑み、言葉を失った。蓮は舞香の細い体をその広い胸に強く抱き抱えると、雅子を冷酷に見下ろしたまま、大股で食堂を後にした。
本館の正門を突破し、待機していた漆黒のリムジンへと滑り込む。ドアが重々しく閉まり、外界の音が完全に遮断された。
車内が静寂に包まれた瞬間、舞香の「発作」は徐々に収まっていった。荒い呼吸を整え、喉の痙攣を解除する。実際に喉を痛め、過呼吸で意識が遠のきかけていたが、彼女の瞳には、冷徹な女優としての光が戻っていた。
「……見事な演技だったな、橘舞香」
隣に座る蓮の声は、低く、そして微かに震えていた。舞香が顔を上げると、至近距離にある蓮の瞳が、暗闇の中で妖しく光っているのが見えた。
その瞳に宿っていたのは、単なる「囮」を評価する冷徹な視線ではなかった。命を削り、自分すらも騙すような凄まじい演技を見せた舞香に対する、狂気的なまでの独占欲と、歪んだ執着の光。蓮は無言のまま、舞香の冷や汗に濡れた額に、彼の温かい指先をゆっくりと滑らせた。
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