開かずの間の遺産
「東離れ」の寝室は、豪奢でありながらも、どこか冷たい墓標のような静けさに満ちていた。ベルベットの天蓋付きベッドの陰で、橘舞香は浅い呼吸を繰り返していた。先ほどまで、監視カメラの死角を計算しながら完璧な「佐伯汐里」を演じていた緊張の残滓が、偏頭痛となって彼女の蟀谷を激しく突き刺している。ポケットの奥に隠した、亡き母・佳乃の形見である『マクベス』の古い台本だけが、自分が「橘舞香」という一人の舞台女優であることを証明する唯一の錨だった。
カチャリ、と重苦しい金属音が静寂を切り裂いた。ゆっくりと、だが確実な足音が階段を上がってくる。冷酷で、他者を威圧するような、あの神宮寺蓮の足音だ。
ドアが開かれ、廊下の冷たい琥珀色の光が暗闇を切り裂く。そこに立っていたのは、彫刻のように整った顔立ちに、凍りつくような冷徹な眼差しを宿した蓮の姿だった。
「完璧な模倣だな」
蓮はゆっくりと歩み寄り、その低く響く声で言った。天蓋のカーテンを開け、ベッドの上に身を縮める舞香を見下ろす彼の瞳は、感情を完全に排したガラスのようだった。
「髪を梳かすリズム、鏡に向かって微笑む角度、指先の微細な浮かせ方……。監視映像を見る限り、本館の雅子の目をも欺けるレベルだ。だが、舞台の上の演技と現実を混同するな、橘舞香」
蓮は不意に身をかがめると、長い指先で舞香の顎を乱暴に掴み、上を向かせた。手袋越しではない、彼の剥き出しの指の冷たさに、舞香の背筋を鋭い戦慄が走り抜ける。
「もしお前が、ただの欲深い詐欺師に過ぎないと私が判断すれば、いつでもお前を切り捨てる。お前の妹の治療費も、その瞬間にすべて打ち切りだ。自分が誰の鎖に繋がれているのか、一秒たりとも忘れるな」
顎に食い込む痛みに耐えながら、舞香は瞳の奥に燃えるような不屈の光を宿した。「メソッド・アクティング」の極限状態を呼び起こし、脳内の恐怖を強制的に遮断する。そして、従順な身代わりではなく、橘舞香としての牙を剥いた。
「切り捨てる? 結構よ、神宮寺代表。でも、忘れないで。私がここで完璧な『汐里』を演じきらなければ、あなたの復讐の舞台も幕を下ろす。私をただの使い捨ての餌だと思っているなら、その傲慢さがあなた自身の首を絞めることになるわ」
蓮の切れ長の瞳に、一瞬だけ驚愕と、それに続く歪んだ執着の光が走る。彼は掴んでいた顎を離したが、その指先は彼女の肌の熱を惜しむように、一瞬だけ長く留まった。
「……その不遜な態度、いつまで保てるか見ものだな。雅子の牙はお前が思っているよりも鋭い」
蓮は冷笑を残して背を向け、部屋を去った。重厚な扉が閉まり、再び東離れに静寂が戻る。
ベッドの上に崩れ落ちた舞香は、激しく上下する胸を押さえた。冷や汗が全身から吹き出ている。蓮の言う通り、自分はまだ圧倒的に無力だ。雅子という巨大な敵と、蓮という冷酷な支配者の間で、いつ消費し尽くされて死ぬか分からない。
(このまま彼の手駒として終わるわけにはいかない。汐里がなぜ死んだのか、その真実を握らなければ、私はこの魔窟で生き残れない)
舞香は立ち上がり、首元に触れた。そこには、本邸での生活を開始する初日に蓮から無理やり首にかけられた「シルバーの蝶のネックレス」が鈍い光を放っている。生前の汐里が肌身離さず身につけていたという形見。そして、汐里の日記の記述によれば、本館二階の最奥にある、一年前から完全に封印された部屋――「開かずの間」に、汐里が遺した真実の日記帳が眠っているはずだった。
しかし、本館は雅子派の監視カメラと、冷徹な総執事・相沢の深夜巡回によって厳重に守られている。素人の隠密行動など一瞬で露呈するだろう。
舞香はスマートフォンを取り出し、蓮の親友でありセキュリティの天才である高橋徹が用意した、暗号化通信アプリ「ネクサス・リンク」を起動した。
『徹さん、起きている? 本館の「開かずの間」に入りたい。監視カメラの目を盗む方法はある?』
数秒後、画面に文字が躍った。
『おや、夜更かしはお肌の大敵だよ、お姫様。それとも、神宮寺の帝国の崩壊を早めたいのかな? いいよ、本館の廊下の監視カメラは僕がローカルループを仕掛けて、3分間の「空白」を作ってあげる。でも、相沢総執事の深夜巡回はアナログだからね。彼の目は誤魔化せない。秒単位で動くんだ。いいかい、180秒だ。カウントダウンを始めるよ』
「十分よ」
舞香は黒い防寒用のカーディガンを羽織り、蝶のネックレスを握りしめた。徹のメッセージが『スタート』を表示した瞬間、彼女は東離れの勝手口から音もなく滑り出た。
夜の空気は湿っており、遠くで雨の匂いがした。広大な庭園を横切る際、舞香は徹から叩き込まれた「監視カメラ死角計算ルール」を脳内で再現していた。カメラの首振り速度、レンズの画角、光の反射パターン。それらを完璧に計算し、影から影へと滑るように移動する。劇団時代、舞台の袖から暗転の瞬間に立ち位置へ移動する訓練が、今、命懸けの実戦として結実していた。
本館の通用口に到達する。徹の遠隔ハッキングにより、電子ロックが静かに解除された。舞香は滑り込むように内部へ侵入し、音もなく扉を閉めた。残り時間は百二十秒。
本館の内部は、昼間の華やかさが嘘のように、暗黒と静寂に支配されていた。先祖たちの肖像画が、闇の中から冷ややかな視線を投げかけてくる。舞香は呼吸を極限まで細くし、気配を消して二階へと続く大階段を駆け上がった。足音を消すための、つま先から着地する独特の歩行法。すべてはメソッド・アクティングの基礎訓練で身体に染み込ませた技術だ。
二階の最奥。突き当たりに、埃を被った重厚なオーク材の扉が現れた。これこそが、汐里がかつて暮らし、そして一年前の転落死の後に雅子によって完全に封印された「開かずの間」だった。ドアノブの上には、古めかしい真鍮の南京錠がかけられている。
残り六十秒。舞香は首元の蝶のネックレスを外し、その精巧な彫刻が施された右羽の裏側を見つめた。そこには、肉眼ではほとんど見落とすほどの、微細な金属の突起が存在している。
(これが、物理キーになっているはず……)
指先を焦燥で震わせながら、舞香はその突起を真鍮の鍵穴へと差し込んだ。ミリ単位の調整。インクのように濃い暗闇の中、手の感覚だけを頼りに突起を押し込み、時計回りに回転させる。
カチリ、と硬質な金属音が響いた。南京錠が静かに口を開く。舞香は心臓の鼓動が跳ね上がるのを抑えながら、錠前を外し、重い扉を押し開けて室内へと滑り込んだ。残り三十秒。
部屋の中は、冷たい空気が滞留し、微かに乾燥したラベンダーの香りが残っていた。主を失った部屋は、一年前の時間のまま凍りついている。舞香はスマートフォンの画面の微かな光だけを頼りに、クローゼットへと急いだ。
クローゼットを開けると、汐里が愛用していた美しいシルクのドレスやヴィンテージの衣服が、幽霊のように並んでいた。舞香は迷わずその最奥へと手を伸ばし、クローゼットの底板を叩いた。右端の角、わずかな隙間に爪を立てて引き上げる。
二重底だ。板が外れ、その下に隠されていた小さな鍵付きの黒革の手帳が姿を現した。
「汐里の直筆日記帳……!」
舞香はそれを掴み、胸に抱きしめた。これで、真実へ一歩近づける。そう確信した、その瞬間だった。
廊下の奥から、かすかな、だが規則正しい音が響いてきた。
コツ……、引きずるような音、コツ……。
舞香の全身の血が、一瞬にして凍りついた。その音の正体を、彼女は知っている。右足をわずかに引きずって歩く、冷徹な総執事・相沢の靴音だ。
(嘘でしょう……。徹さんのスケジュールでは、彼の巡回はあと三十秒は遅いはずなのに!)
相沢は予定よりも早く、この二階の最奥へと近づいていた。引き返すルートは完全に塞がれた。部屋の鍵は開いたままだ。見つかれば、不法侵入と窃盗で即座に警察に引き渡され、契約は破綻する。
暗闇の中で、舞香は日記帳を抱きしめたまま、呼吸を完全に止めた。足音は「開かずの間」の前でピタリと止まった。極限の静寂の中、ドアノブが静かに、ゆっくりと回り始めるのを、舞香は絶望的な目で見つめるしかなかった。
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