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監視された鳥籠

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重厚なマホガニーの扉が背後で閉まり、金属製のボルトが噛み合う冷酷な音が響き渡った。その瞬間、橘舞香は自分がもう二度と、あのうらぶれた世田谷の地下劇場には戻れないのだと悟った。


「東離れ」の玄関ホールは、静寂に支配されていた。空気はひんやりと冷たく、かすかに乾燥した白百合の香りと、フランス製の高級香水の残香が漂っている。それは、一年前の雨の夜に謎の転落死を遂げたという、神宮寺蓮の元婚約者・佐伯汐里が愛用していたものと同じ香りだった。


舞香は自身のデニムジャケットの袖をそっと捲り上げ、右手首を見つめた。そこには、闇金の鮫島に強引に掴まれた際の、赤黒く痛々しい痣がくっきりと残っている。肉体は疲弊しきっていた。だが、彼女の脳細胞は、極限の緊張感の中でむしろ異常なほど冴え渡っていた。ポケットの中には、母・佳乃の形見である『マクベス』の古い台本が、重みを持って存在している。これだけが、彼女が「橘舞香」という一人の舞台女優であることを証明する、最後の精神的アンカーだった。


「一億円の身代わり契約。そして、妹の命……」


舞香は小さく呟き、喉の奥を湿らせた。契約書に署名した以上、彼女はもう橘舞香であってはならなかった。これからは二十四時間、死者の亡霊――佐伯汐里として呼吸し、生活しなければならない。もし正体が暴かれれば、即座に契約は破棄され、十億円という天文学的な違約金が課される。そして何より、聖マリアンヌ総合病院に入院している妹・芽衣の医療支援が打ち切られ、彼女の命は消える。


「やるしかない。私は女優よ。演じきってみせる」


舞香はゆっくりと階段を上がり、二階の寝室へと向かった。そこは、生前の汐里が暮らしていた当時のまま、完璧に保存された部屋だった。シルクの天蓋付きベッド、磨き上げられた鏡台、優雅なアール・ヌーヴォー様式の調度品。すべてが、あまりにも完成された「鳥籠」のようだった。


旅の疲れを癒やすため、舞香は部屋の主照明を消そうと壁のスイッチに手を伸ばした。だが、その指先が金属のプレートに触れる直前、彼女の脳裏に警鐘が鳴り響いた。


(――待って。何かがおかしい)


舞台女優として長年、観客の視線や照明の角度に神経を尖らせてきた舞香の超直感が、微細な違和感を捉えていた。部屋の隅、天井に設置された煙感知器のカバーの隙間。そこから、極めて微弱な赤外線の光が揺らめいているのが見えた。肉眼ではほとんど見えないその光は、暗視機能を持つ極小のピンホールカメラが作動している証拠だった。


慌てて部屋を暗くして探索しようとすれば、その不審な動き自体が、監視者の疑惑を招くことになる。舞香は伸ばしかけた手を滑らかに動かし、まるで最初からそうする予定だったかのように、髪を軽くかき上げる仕草へと移行した。そして、汐里がよく見せていたという、眠たげに目を細める「形態模倣(コピー)」を完璧に演じながら、自然な動作でスイッチから手を離した。


心臓が激しく鼓動するのを、舞香は「呼吸同調法」を使って無理やり押さえ込んだ。深く、静かに息を吐き出し、自律神経を強制的にコントロールする。


(やはり、ここは安全な避難所なんかじゃない。雅子……あの冷酷な継母が仕掛けた監視の檻だ)


舞香は鏡台の前に移動し、鏡越しに部屋全体をスキャンした。高橋徹から教わった「環境防衛」の技術が、彼女の脳内で立体的なマップを描き出す。鏡台の上に置かれた精巧な磁器人形の瞳、クローゼットの金飾りの隙間、そしてエアコンの吹き出し口。そこには、光を微細に反射する「キャッツアイ効果」を示す小さなレンズの影が点在していた。


それだけではない。蓮の側近たちが仕掛けたであろう、最新式の極小盗聴器の存在も、調度品の不自然な配置から推測できた。この部屋は、雅子派の「電子の目」と、蓮の側の「電子の耳」が交差する、プライバシー皆無の極限空間だったのだ。


(だったら、この部屋を私の『劇場』にしてやるわ)


舞香は静かに覚悟を決めた。敵が自分を監視しているのなら、その監視映像を通じて「佐伯汐里は生きている」と信じ込ませればいい。彼女は鏡台の前に腰掛け、汐里の遺品であるシルバーのブラシを手に取った。


そして、ブラシを髪に通し始めた。一、二、三――。汐里の生前のホームビデオで何度も分析した、独特のゆっくりとしたリズム。背筋を「令嬢の定規」のように美しく伸ばし、ブラシを持つ右手の薬指をわずかに浮かせる。鏡に映る自分の顔を見つめ、汐里の特有の癖である「左の口角だけをわずかに上げて微笑む表情」をミリ単位で再現した。


その映像は、本館の監視室で息を潜めて画面を見つめていた雅子の個人秘書・阿部を驚愕させるに十分だった。画面越しの「汐里」の所作には、偽物であることを示す一瞬の淀みすら存在しなかったからだ。


完璧な演技を維持したまま、舞香は頭の中で「監視カメラの死角」を計算していた。天蓋付きベッドの厚いベルベットのカーテンの影。そこだけが、部屋の中で唯一、どのカメラの画角からも外れる幅数十センチの「セーフエリア」だった。


髪を梳かし終えた舞香は、優雅な足取りでベッドへと移動した。カーテンを閉め、暗闇の死角へと滑り込む。その瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れ、激しい偏頭痛が彼女の頭を襲った。額に冷や汗がにじみ、激しい不眠の予感が全身を支配する。一瞬たりとも素に戻れない代償は、想像以上に重かった。


舞香はバッグの奥底に隠した母の古い台本に触れた。ボロボロの紙の感触だけが、彼女に「私は橘舞香よ」と囁きかけてくれる唯一の救いだった。その温もりにすがるように目を閉じた、その時だった。


カチャリ、と重苦しい金属音が、東離れの玄関ホールから響いた。


深夜の静寂を切り裂くように、ゆっくりと、だが確実な足音が階段を上がってくる。それはメイドの奈々の軽い足音でも、執事の相沢の規則正しい靴音でもなかった。冷酷で、他者を威圧するような、あの神宮寺蓮の足音だった。


足音は寝室の前で止まり、ドアノブが静かに回った。暗闇の中、重厚な扉が開かれ、廊下の冷たい光が差し込む。その光の中に立っていたのは、彫刻のように整った顔立ちに、凍りつくような冷徹な眼差しを宿した蓮の姿だった。カーテンの隙間から差し込む光が、舞香の怯える瞳を捉えた。

HẾT CHƯƠNG

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