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亡霊としての契約

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世田谷の片隅、地下へと続く薄暗い階段。湿ったコンクリートの壁に染み付いたカビと埃の匂い――そこが、橘舞香のすべてだった。劇団「アーク」の狭い舞台の上、彼女は一人、擦り切れたデニムジャケットのポケットに右手を突っ込んでいた。指先が触れているのは、朱色の手垢がついた古い台本。往年の名女優であり、自分に演技の極意を叩き込んだ亡き母・佳乃の形見である『マクベス』の台本だった。どん底の生活の中で、これだけが彼女の魂を現実に繋ぎ止める最後の錨だった。


「おい、橘舞香。いい加減に出てきたらどうだ」


重々しい鉄の扉が、耳障りな音を立てて蹴破られた。現れたのは、金髪をオールバックに固め、派手なストライプのスーツを纏った男――黒崎竜二。その後ろには、熊のように巨体でタトゥーを覗かせた鮫島剛をはじめとする、黒崎ファイナンスの取り立て屋たちが控えている。


舞香は静かに息を吸い込んだ。心臓が早鐘を打つ。しかし、彼女の脳は即座に「舞台女優・初期衝動」のスイッチを切り替えた。彼女は震える肩を抱き、瞳に怯えの涙を浮かべて見せた。か弱く、無力で、今にも崩れ落ちそうな借金まみれの娘。それは、獰猛な捕食者である黒崎の警戒心を解くための、彼女の「即興の演技」だった。


「黒崎さん……父は、本当にどこにいるか分からないんです。お願いです、もう少しだけ待ってください……」


「待てだと? お前の親父が残した借金は、違法金利も合わせて三千万円だ。お前みたいな売れない舞台女優が、一生かかっても返せる額じゃねえんだよ」


黒崎が下卑た笑みを浮かべて距離を詰める。舞香は怯えるフリをしながら、視線だけで周囲の環境をスキャンしていた。舞台の端に置かれた、真鍮製の重い燭台。あれを武器にすれば、一瞬の隙を作って非常口から逃げられるかもしれない。計算は一瞬だった。彼女はわざとよろけて燭台のそばへ倒れ込み、その冷たい金属の柄を握りしめた。


「逃がさねえよ」


だが、裏社会の修羅場をくぐってきた鮫島は、彼女の微細な筋肉の緊張を見逃さなかった。舞香が燭台を振り上げるよりも早く、鮫島の強靭な腕が彼女の手首を掴んだ。骨がきしむような激痛が走り、燭台が床に甲高い音を立てて転がる。物理的な暴力の前に、舞香の知的な抵抗は無残にもねじ伏せられた。


「このアマ、小賢しい真似を……! 連れて行け。体で払ってもらう場所はいくらでもある」


黒崎の冷酷な命令が下り、鮫島が舞香を強引に引きずり始めた。劇団の床に擦れる背中、迫り来る闇。橘舞香としての人生が、ここで完全に終わるのだと、絶望が彼女の思考を支配しかけた――その時だった。


地下劇場の入り口に、突如として眩いヘッドライトの光が差し込んだ。タイヤのきしむ鋭い摩擦音が響き、漆黒の防弾仕様セダンが、劇場の錆びついたシャッターを物理的に押し破って突入してきたのだ。


車から降り立ったのは、一分の隙もない黒いスーツを纏った男たち。その先頭に立つ佐藤健は、元特殊部隊員らしい無駄のない動きで、鮫島たちの前に立ち塞がった。驚愕する黒崎の部下たちがナイフを抜く暇さえなかった。佐藤とその私設部隊は、圧倒的なCQC(近接格闘術)により、わずか数秒で取り立て屋たちを床に組み伏せた。鮫島の巨体がコンクリートの床に叩きつけられ、鈍い音が響く。


静まり返る劇場に、ゆっくりと車のドアが開く音が響いた。現れたのは、仕立ての良い黒のオーダースーツを完璧に着こなした男――神宮寺蓮だった。


整った彫刻のような顔立ち、冷徹な光を放つ切れ長の瞳。彼が一歩踏み出すだけで、地下劇場のカビ臭い空気が一瞬にして凍りつくような、圧倒的な支配者のオーラがその場を支配した。


「……何者だ、てめえ……!」


床に這いつくばった黒崎が、恐怖に震えながらも声を絞り出す。蓮は黒崎を一瞥することすらしなかった。ただ、その薄い唇から、低く冷たい声が発せられた。


「その汚い手を、私の『所有物』から離せ」


蓮のその一言には、逆らうことを許さない絶対的な権威があった。佐藤が黒崎の胸元に、神宮寺グループの刻印が入った名刺を冷酷に投げ落とす。巨大財閥のトップの名を目にした瞬間、黒崎の顔から血の気が完全に引いた。彼はそれ以上言葉を発することなく、部下たちを引き連れて這うようにして逃げ去っていった。


嵐のような暴力が去り、静寂が戻った劇場で、舞香は床に座り込んだまま息を整えていた。蓮はゆっくりと彼女に近づき、その前に膝を屈した。そして、手袋をはめた指先で舞香の顎を強引に持ち上げ、その顔を冷徹に観察し始めた。


骨格、声帯の構造、驚いた瞬間に開く瞳孔の動き――そのすべてが、彼の頭脳にある「佐伯汐里」のデータと99.9%一致していた。


「奇跡的な酷似だな。橘舞香」


蓮の氷のような声が、舞香の鼓膜を震わせる。彼は彼女を立たせると、そのまま高級リムジンの後部座席へと促した。革と冷たいエアコンの匂いが漂う密室で、蓮は一枚の書類を提示した。それは、1億円の「身代わり契約書」だった。


「お前には、1年前に死んだ私の婚約者・佐伯汐里になってもらう。期間は、私が目的を果たすまで。対価として、お前の父親の借金を肩代わりし、この1億円を支払う」


「身代わり……? 私に、死人の亡霊を演じろというの?」


舞香は信じられない思いで蓮を見つめた。それは、自らの名前を捨て、他人の影として生きる「悪魔の取引」に他ならなかった。自分のプライドが、それを拒絶しろと叫んでいる。


「断る自由はある。だが、その場合、聖マリアンヌ総合病院に入院しているお前の妹・芽衣の特別医療枠は即座に停止される。彼女の心臓手術の費用を払える者が、他にいるのか?」


蓮の言葉は、合理的でありながら、逃げ道を完全に塞ぐ冷酷な刃だった。舞香は息を呑んだ。妹の命――それが彼女の最大の弱点であることを、この男はすべて調べ上げていたのだ。拒絶すれば妹は死ぬ。署名すれば、自分は神宮寺家のドロドロとした陰謀の渦に、完璧な「生きた囮」として飛び込むことになる。


舞香は、母の形見の台本を抱きしめるように胸に当てた。そして、震える手で万年筆を握り、契約書の署名欄に「橘舞香」の名を書き込んだ。これが、彼女が自分の名前を記す最後の瞬間だった。


「賢い選択だ」


蓮は冷たく微笑み、契約書を回収した。リムジンは夜の闇を切り裂き、港区にそびえ立つ神宮寺本邸へと向かう。厳重な正門をくぐり、彼女が連行されたのは、本邸の広大な敷地の東端に建つ「東離れ」だった。かつて汐里が暮らし、今は外界から完全に遮断された美しい檻。重厚な扉が彼女の背後で閉まり、ロックされる金属音が響いた瞬間、舞香は自分がもう戻れない場所へ来てしまったことを悟った。

HẾT CHƯƠNG

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