鋼鉄の番人
作衛門の双刀が静かに鞘に収まり、鍾乳洞を閉ざしていた巨大な鉄扉がミシミシと音を立てて開き始めた――。
「この先は『赤蠍の巣』だ」
作衛門は、冷たい湯気が立ち上る暗黒の奥を見据えながら、感情の失せた声で言った。「だが、同盟の番人が道を塞いでおる。名は鉄甲の重兵衛。あの男の盾は、お前の折れかけの鉄刀では傷一つ付かぬぞ。内力を失ったその身体で、いかにしてあの鉄壁を穿つ?」
九郎は答えなかった。ただ、万毒の泉の強酸によって皮膚が焼けただれ、黒く燻った左腕を無造作にぶら下げたまま、一歩を踏み出した。包帯の失われた左腕からは、未だに酸の混ざった黒い血がぽたぽたと滴り、足元の岩肌をじゅわりと溶かしている。激痛は、すでに九郎の脳内で別のものに変換されていた。
「痛活(つうかつ)」の呼吸――。
肺を極限まで収縮させ、吸い込む冷気に痛みを同調させる。内力は完全に枯渇していたが、この左腕を苛む地獄の熱痛そのものが、九郎の乾ききった経脈を無理やり駆動させる疑似的な薪となっていた。生きるためではない。ただ、神院清純の首を獲る、その妄執だけが九郎の泥塗れの肉体を前へと進めていた。
鍾乳洞の奥は、極低温の氷水が湧き出る死の世界だった。天井からは氷のように冷たい水滴が絶え間なく滴り、九郎の焼けただれた左腕に触れては白い水蒸気を上げている。右目の視界は不気味に霞み、灰色の輪郭しか捉えられない。引きずる右脚の凍傷は、一歩進むたびに骨の髄に凍てつく楔を打ち込んでくる。
その暗黒の通路の先に、そびえ立つ影があった。
「……そこから先は、同盟の禁域。大逆の生き残りが通る道ではない」
地鳴りのような重低音が、鍾乳洞の岩壁を震わせた。現れたのは、高さ八尺に達する圧倒的な巨躯。全身を、隙間なく組み合わされた漆黒の鋼鉄甲冑で固めた男――鉄甲の重兵衛だった。その左腕には、大人の胴体ほどもある極厚の鋼鉄製の大盾「鉄甲の重兵衛の大盾」が固定されており、右腕には凶悪な刃を宿した巨大な大斧が握られている。歩くたびに、重い甲冑が擦れ合う不気味な金属音が、無音の洞窟に反響した。
九郎は無言で「錆びた鉄刀」を右手一本で引き抜いた。刀身に走る無数の微細な亀裂が、微かな風鳴りを上げて震える。すでに寿命を迎えている鉄塊。だが、今の九郎にはこれしかなかった。
「死ね、大逆人」
重兵衛が地を蹴った。八尺の巨体からは想像もつかない爆発的な踏み込み。漆黒の大盾を前面に押し立て、突進してくる。それは、巨大な鉄塊が時速数十里で迫り来るに等しい質量兵器だった。
九郎は「蛇歩(じゃほ)」を始動しようとしたが、凍傷で感覚の麻痺した右脚の踏み込みが一瞬遅れた。回避は間に合わない。
ドガァァァァン!!!
重兵衛の大盾が、九郎の正面を直撃した。凄まじい衝撃波が九郎の身体を吹き飛ばし、背後の鍾乳石の壁へと叩きつける。背骨がきしみ、口から生暖かい黒い血が噴き出した。だが、その衝撃の激痛が、九郎の脳内でさらなる「痛活」の燃料となる。濁った灰色の瞳が一瞬、不気味な赤色に発光した。
「ふん、その程度の骨格か」
重兵衛は冷酷に言い放ち、大盾の間隙から大斧を横一文字に薙ぎ払ってきた。風を切り裂く重い唸り。
九郎は壁を蹴り、地面を滑るように姿勢を極限まで低くする「泥濘滑り」で大斧の軌道の下を潜り抜けた。滑り込みざま、右手の一刀を重兵衛の剥き出しの足首に向けて放つ。金属の摩擦音が静寂を切り裂いた。
キンッ!!!
火花が暗闇を照らしたが、九郎の錆びた鉄刀は、重兵衛の甲冑に傷一つ付けることができず、逆に激しい反動が九郎の右腕の骨を軋ませた。刀身の亀裂が、さらに深く、長く広がっていくのが見えた。このまま叩き続ければ、次の衝撃で刀は粉々に砕け散る。
「小癪な真似を!」
重兵衛は盾を翻し、完璧なシールドワークで九郎の死角を塞ぎながら、再び大斧を振り下ろした。岩盤ごと九郎を叩き潰さんとする必殺の一撃。
九郎は「蛇歩」で不規則に蛇行しながら大斧の直撃を回避しつつ、左手の指先を強引に折り曲げた。壊死した左手の肉を突き破り、体内の蠍毒を凝縮した黒い針「蝕骨針(しょっこつしん)」を、重兵衛の関節の継ぎ目に向けて放つ。
シュッ!
極小の暗器が放たれたが、重兵衛はそれを大盾の表面で完璧に弾き返した。鋼鉄の盾に当たった針は、火花を散らして虚しく砕け散る。絶対的な物理防御。いかなる軽妙な剣技も、搦め手の暗器も、その漆黒の盾の前には無力だった。
「無駄だ。我が盾は、黒鉄街の特殊鋳造所で鍛え上げられた絶対の防壁。お前のような瀕死のゴミが通せる刃ではない」
重兵衛が再び大斧を頭上に掲げた。その瞬間、九郎の脳裏に冷徹な計算が走る。枯渇した内力、崩壊寸前の錆びた刀、そして感覚のない左腕。まともに戦えば、十呼吸以内に自分の命が尽きる。あの盾を破る方法はただ一つ。敵が「勝った」と確信し、絶対の防御である大盾を完全に下ろした、その一瞬の死線を作り出すこと。
そのためには、肉を切らせて骨を断つ――いや、肉を肉で斬らせる狂気の博打が必要だった。
九郎は、錆びた鉄刀を構えたまま、その場から一歩も動かずに大斧を見据えた。回避の予備動作を完全に捨てる。
「狂ったか、大逆人。その身ごと、灰になれ!」
重兵衛の大斧が、空気を爆発的に引き裂きながら、九郎の右肩を目がけて一直線に振り下ろされた。鍾乳洞の冷たい大気が、その一撃の圧力で真っ二つに割れる。
九郎はあえて、その大斧の軌道上に自身の右肩を差し出した。骨を断ち、肉を削る、死の直撃をその身で直接受け止めるために。ズシャリ、と。耳を塞ぎたくなるような、生々しい肉の引き裂かれる音が鍾乳洞に響き渡った。
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