蠍火の聖域
ごぼり、と肺の奥から泥水が噴き出した。肺を焼くような硫黄の臭いと、冷たい湿気が九郎の意識を強引に覚醒させる。
「がはっ……、はぁ、はぁ……!」
九郎は濡れた岩肌に這いつくばり、激しく咳き込んだ。右目はほとんど光を失い、ぼやけた灰色の輪郭しか捉えられない。引きずる右脚は冷たい激流に晒され、凍傷の痛みが骨の髄まで麻痺させていた。何より、全身の毛穴から血を噴き出させた「内力爆発・臨界点」の代償は重く、体内の内力は一滴すら残っていなかった。経脈を流れるべき気は完全に枯渇し、ひび割れた竹筒のような身体が、内側から自己崩壊を始めようときしんでいる。
「坊主……生きてるか……」
すぐ傍らで、大鉄斬刀にしがみついた鉄次が、泥だらけの顔を上げて呻いた。ガス中毒の余波でその呼吸は浅く、身体を震わせている。さらにその奥では、両脚を岩盤に潰された岩五郎が、気を失ったまま浅い呼吸を繰り返していた。炭鉱夫たちの姿はない。激流に流される最中、散り散りになったのだろう。
九郎は震える右腕で這い上がり、周囲を見回した。そこは、切り立った断崖の隙間にひっそりと佇む、不気味な盆地だった。頭上を覆うのは、陽の光を完全に遮る濃い紫色の毒霧。湿った空気の中には、皮膚をピリピリと刺激する強酸性の気配が満ちている。これこそが、烏鳴谷の最深部に隠された禁域――隠れ里「蠍火村(さそびむら)」だった。
「動くな、余所者め」
霧の奥から、無数の冷たい声が響いた。同時に、風を裂く不気味な音が九郎の聴覚に突き刺さる。
シュッ、シュッ、シュッ!
次の瞬間、九郎たちの周囲の岩肌に、数十本の槍が突き立てられた。その槍の穂先は金属ではなく、巨大な蠍の尾から削り出された黒い骨。そこから滴る不気味な緑色の液は、触れただけで岩を溶かす猛毒を帯びていた。霧の向こうから音もなく現れたのは、奇妙な蠍皮の防具を纏い、顔を不気味な仮面で覆った里の守り人たちだった。その数は三十を下らない。全員が九郎たちの喉元へ、容赦なく毒槍を向けている。
「アニキ、こいつら……尋常じゃねえ殺気だ……」
鉄次がかすれた声で大鉄斬刀を構えようとしたが、その瞬間、守り人たちの包囲の奥から、地を這うような不気味な蠍の這う音が響き渡った。里の民が左右に割れ、二人の影が静かに歩み出てくる。
一人は、全身に刻まれた深いシワと、鋼のように鍛え上げられた強靭な肉体を持つ老人。隠れ里の長、作衛門(さくえもん)だった。その腰には、巨大な赤蠍の鋏を模した不気味な双刀が差されている。
そしてもう一人は、白い巫女服に身を包み、両目を厳重な白い目隠しで覆った盲目の巫女、お千代(おちよ)だった。彼女が歩くたびに、その細い首にかけられた真鍮の鈴が、ちりん、ちりんと、冷たい音を立てて響く。
お千代は九郎の正面で立ち止まると、目隠し越しに彼を見据えるように顔を向けた。彼女の細い肩が、微かに震える。
「作衛門……この男を近づけてはなりません。この男の血からは、数千人の悲鳴が聞こえます。その背後には、怨嗟に濡れた無数の死霊が、修羅の影となって渦巻いている……」
お千代の鈴の音が激しく乱れた。彼女の「心眼」は、九郎の背後に、神院清純の陰謀によって皆殺しにされた緋村一族三十人の、血塗られた亡霊の幻影を見ていたのだ。
作衛門は不気味な片目を細め、九郎を冷酷に見下ろした。
「同盟の犬か、あるいは谷の薄汚い流刑者か。我が蠍火村は部外者の立ち入りを禁じている。里の存在を知られた以上、生かして帰すわけにはいかん」
守り人たちが一歩前進し、毒槍の穂先が九郎の皮膚をかすめる。だが、内力を失い、立つことすらできない九郎の眼光は、微塵も揺らがなかった。彼は溢れ出る血を吐き捨て、掠れた声で言った。
「……同盟の犬ではない。俺の名は……緋村九郎。神院清純の首を獲るために、地獄から這い戻った男だ」
「緋村……だと?」
作衛門の眉が、一瞬だけ不自然に跳ね上がった。かつて朝廷の「影の処刑人」として汚れ仕事を請け負っていた緋村一族の名。作衛門の脳裏に、かつての血塗られた歴史の記憶が過ったのだろう。だが、彼はすぐに冷酷な表情に戻った。
「名が何であれ関係ない。ここへ何をしに来た」
「……『赤蠍の液』を貰い受ける。俺の身体を繋ぐために、それが必要だ」
九郎の言葉に、里の民の間に激しい動揺が走った。赤蠍の液は、彼らが聖獣として崇める蠍から抽出される、里の命脈とも言える秘薬。それを余所者に渡すなど、あり得ない要求だった。
「狂人が。聖獣の血を求めるなど、万死に値する!」
一人の守り人が激昂し、毒槍を九郎の喉元へ突き出そうとした。鉄次が身を挺して割って入ろうとしたが、作衛門が放った圧倒的な蠍毒の内力圧が周囲の空気を凍らせ、鉄次の動きを物理的に縫い留めた。一歩も動けない。
「待て」
作衛門は手を挙げ、九郎を凝視した。九郎のきつく巻かれた黒い包帯、変色した左腕、そして経脈が完全に断絶しているにもかかわらず、その濁った灰色の瞳に宿る、異常なまでの生存への執念。
「緋村の生き残りよ。お前の身体は、すでに死人のそれだ。経脈を失い、毒と傷だけで辛うじて命を繋いでいる。だが、我が里の『赤蠍の液』は、生半可な覚悟で耐えられるものではない。お前の執念が、本物であるか否か……ここで証明してみせよ」
作衛門は、背後の鍾乳洞の奥を指し示した。そこから、赤黒い不気味な湯気が立ち上っている。
「あの奥にあるのは、谷最大の禁忌――『万毒の泉(ばんどくのいずみ)』だ。あらゆる毒草の成分が溶け出し、常人ならば一瞬で骨まで溶かす酸の泥泉。……緋村九郎、お前のその壊死した左腕を、あの泉に浸してみせよ。声を上げず、その意志を微塵も曲げずに耐え抜くことができたなら、お前を『赤蠍の巣』へと導いてやろう」
「アニキ、乗っちゃダメだ! あんな泉に腕を入れたら、本当に腕が溶けて消えちまう!」
鉄次が絶叫した。だが、九郎は鉄次の制止を無視し、引きずる右脚を強引に動かして立ち上がった。内力はゼロ。痛みを和らげる術は何もない。ただ、自身の精神を狂気に染める「復讐の妄執」だけが、彼の肉体を駆動させていた。
「……いいだろう」
九郎は無言で、万毒の泉の淵へと歩み寄った。赤黒く濁った水面から、吸い込むだけで肺が腐食するような酸性の湯気が沸き立っている。泉の源水は、触れるものを一瞬で溶解する劇薬そのものだった。
九郎は、左腕を縛り付けていた黒い包帯を、右手だけで静かに解き始めた。包帯が解かれるたびに、黒紫色に変色し、腐食が進行している凄惨な左腕が露わになっていく。里の民からも、その異様な肉体損壊の姿に息を呑む音が漏れた。
九郎はお千代の前に立ち、彼女が静かに差し出した「お千代の厄除け護符」を右手で受け取ると、それを懐にねじ込んだ。そして、万毒の泉の淵に立ち、壊死した左腕を水面へと向けた。
一切の躊躇はなかった。
九郎は、黒紫色に変色し、崩壊しかけている左腕を、赤黒く濁る「万毒の泉」の底へと、一気に突き入れた。
ジュワァァァァァッ!!!
凄まじい肉の焦げる音と、白い強酸の煙が爆発的に立ち上った。泉の水が激しく泡立ち、九郎の左腕の皮膚を、肉を、瞬く間に焼き溶かしていく。骨を直接酸で削られるような、地獄の底から響くような激痛が九郎の脳髄を直撃した。
「ぐっ……、…………!」
九郎の喉から、押し殺した呻きが漏れた。しかし、彼は絶叫しなかった。枯渇した内力の代わりに、彼は「痛覚反転呼吸法」の極限の精神制御を行い、脳の痛覚神経を強引に遮断し、それを「冷徹な集中力」へと誤認させた。全身の血管が黒く浮かび上がり、右目の霞みが一瞬だけ赤く発光する。
皮膚が溶け、黒い血が泉の赤黒い水へと混ざり合っていく。だが、九郎の眼光は、その凄絶な苦痛の中でも、微塵も揺らがなかった。ただ冷酷に、作衛門の顔を見据え続けている。
「この男……本当に、人間なのか……?」
守り人の一人が、恐怖に満ちた声で呟き、毒槍を握る手を震わせた。作衛門もまた、その常軌を逸した不屈の意志に、深い畏怖を抱いて立ち尽くしていた。お千代の持つ真鍮の鈴が、九郎の凄まじい殺気と苦痛に共鳴するように、激しく鳴り響いていた。
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