闇に響く鉄鎚
――カン。……カン。……カン。
闇の深淵から響くその音は、鼓膜を破らんばかりの耳鳴りに苛まれる九郎の脳髄へ、冷たく、規則正しい脈動となって伝わってきた。一酸化炭素が滞留する黒炭の廃坑。肺の内部組織を微細に焼き焦がす荒行――「五色毒経・蠍章」によるガスの強制中和を終えたばかりの九郎は、喉の奥からせり上がる黒い血を吐き出し、壁に背を預けた。
足元では、相棒の鉄次がガスを吸い込んで完全に意識を失っている。背負う「大鉄斬刀」の重みだけが、彼がまだ生きていることを証明していた。九郎の右目の視界は依然として霞み、白霧のような影が揺れている。だが、彼を動かしているのは、肉体の損壊を上回る冷徹な復讐心だった。
「……行くぞ」
九郎は声にならぬ呟きを漏らし、折れた「錆びた鉄刀」を右手に逆手で構え、跛行する右脚を引きずりながら、音のする方向へと足を進めた。左腕は完全に機能を失い、黒い包帯で胸元にきつく縛り付けられたままだ。暗闇の中、彼の「毒素共鳴」が、空気の微弱な振動から前方に複数の熱源――人間の気配を捉え始めていた。
坑道の分岐点を曲がった瞬間、耳を刺すような悲鳴と、不穏な地鳴りが九郎の残された聴覚を揺るがした。
「岩五郎アニキ! 持ちこたえてくれ! 今、ツルハシで削り取る!」
「駄目だ、崩落が止まらねえ! 早く逃げろ、おめえらまで生き埋めになる!」
暗闇の奥、かすかな地熱の光の中に浮かび上がったのは、凄惨な光景だった。巨大な炭鉱の天井が崩落し、数千斤はあろうかという巨大な石炭の岩盤が、一人の大男の身体を容赦なく押し潰していた。
男の名は、鉄腕の岩五郎。炭鉱夫組合「鉄鎚会」の頭領であり、丸太のような腕と岩のような筋肉を持つ怪力の持ち主だ。だが、その強靭な肉体も、大自然の崩落の前には無力だった。岩盤の下半身を完全に潰され、口から血の泡を吹きながら、必死に岩を押し返そうと両腕を突っ張っている。周囲では、数人の炭鉱夫たちが必死にツルハシや鉄の棒を岩の隙間にねじ込もうとしていたが、鉄の棒は無残にひしゃげ、火花を散らすだけだった。
「どけ」
闇から這い出た死神のような九郎の姿に、炭鉱夫たちは息を呑み、一斉に武器を構えた。
「誰だてめえ! 同盟の手先か!?」
「……死にたくなければ、そこをどけと言っている」
九郎の濁った灰色の瞳には、一切の感情が失われていた。彼は岩五郎の押し潰されている岩盤へと近づき、右手に握った「錆びた鉄刀」を岩の隙間にねじ込んだ。てこの原理で岩を持ち上げようとする。だが、力を込めた瞬間、刀身から「ギ、ギギ……」と不気味な悲鳴が上がった。前回の戦闘で音響衝撃波を浴び、刀身の内部に無数の微細な亀裂が走っているのだ。これ以上強引に負荷をかければ、岩が動く前に刀身が半ばから粉砕される。
「無駄だ、若造! その細腕と折れかけの刀じゃ、この大岩はびくともしねえ!」
炭鉱夫の一人が絶望の声を上げる。岩五郎の息は急速に浅くなり、突っ張っていた両腕がじわじわと折れ曲がり始めていた。天井からは、さらなる崩落を予兆する小石がバラバラと降り注ぐ。
(ここでこの男を見捨てれば、「赤蠍の巣」への道は閉ざされる。同盟の追っ手を撒く地の利も失う。……ならば、やるべきことは一つ)
九郎は錆びた鉄刀を引き抜くと、懐に忍ばせていた「緋村一真の木彫りの御守」に右手を触れた。父であり師であった一真の手による、小さな不動明王の木彫り。その冷たい木の感触が、九郎の脳髄に宿る冷徹な怒りを、一瞬にして極限の集中力へと変還させた。
九郎は懐から右手を引き抜くと、自身の鋭い爪を、心臓の真上にある禁忌の経穴へと突き刺した。
――グサリ。
肉が裂ける鈍い音が響き、九郎の胸元から黒赤い鮮血が噴き出した。「童子傷功」の制限を強引に全解除する自滅の秘術――「内力爆発・臨界点」。
「が、あ、あああああああッ!!」
九郎の口から、獣のような絶叫が漏れ出た。心臓の鼓動が通常の十倍の速さで脈動し、体内の「赤蠍の液」の毒素と内力が衝突して沸騰する。凄まじい熱量が全身の血管を駆け巡り、九郎の皮膚という皮膚、全身の毛穴から、霧状の鮮血が爆発的に吹き出した。周囲の空気が、九郎の放つ黒紫色の凄絶な闘気によって一瞬にして赤黒く染まる。
その異様な姿は、まさに地獄から這い出た「修羅」そのものだった。炭鉱夫たちは恐怖のあまり腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
九郎は血を噴き出す右腕を、巨大な岩盤の下へと差し入れた。骨張った、傷だらけの細い腕。だが、その内部を流れるのは、自身の命の灯火を薪にして燃え上がらせた、常人の十倍を超える臨界突破の内力だった。
「オ、オオオオオオオッ!!」
九郎が右腕一本に全エネルギーを集中させ、大岩を押し上げた。岩五郎の岩のような筋肉が悲鳴を上げる中、九郎の細い腕の筋肉がミシミシと音を立てて膨張し、皮膚が裂けて血が滴る。対比される二人の肉体。だが、物理的な質量を凌駕したのは、九郎の自傷的な執念だった。
ズ、ズズ……と、数千斤の岩盤が、九郎の右腕一本によって数寸だけ持ち上がった。
「な、何て力だ……! お前ら、呆けてるんじゃねえ! アニキを引きずり出せ!」
正気を取り戻した炭鉱夫たちと、気絶から辛うじて意識を取り戻した鉄次が、岩五郎の両脇を抱えて強引に後ろへと引きずり出した。岩五郎の身体が完全に岩の下から抜けた瞬間、九郎は右腕の力を抜いた。
ズドォォォンッ!!
凄まじい地響きと共に岩盤が落下し、廃坑の床を砕いた。それと同時に、九郎は全身の毛穴から血を流したまま、糸の切れた人形のように泥濘の地面へと膝をついた。激しい喀血。内力が完全に枯渇し、指先一つ動かすことすらできない極度の肉体疲疲憊が彼を襲う。
「若造……いや、恩人よ。命を救われた」
引きずり出された岩五郎が、潰れた脚の激痛に耐えながら、九郎を見上げて深く頭を下げた。彼の瞳には、九郎の異形の武功に対する畏怖と、それ以上の深い感謝の念が宿っていた。炭鉱夫組合「鉄鎚会」の面々も、九郎の前に一斉に跪いた。
「同盟の奴らは、俺たちを使い捨ての犬としか思ってねえ。だが、あんたは命をかけて俺たちを救ってくれた。この恩は、鉄鎚会の名にかけて必ず返す」
岩五郎は、懐から青く発光する特殊な結晶石――「雷鳴石」を取り出し、部下に手渡した。
「お前ら、この雷鳴石を使って、廃坑の入り口をダイナマイトで完全に爆破しろ。同盟の追っ手どもを、この暗闇の中に永久に閉じ込めてやる」
「がはっ……」
九郎は血を吐きながら、岩五郎を見つめた。岩五郎は頷き、九郎の耳元で囁いた。
「恩人、あんたが求めている『赤蠍の巣』へ行くなら、この奥の地下水路を通るしかねえ。水路は蠍火村の聖域へと直結している。だが、急がねえと……」
その言葉が終わる前に、廃坑の入り口の方角から、天地を揺るがすような大爆破の轟音が響き渡った。岩五郎の部下たちがダイナマイトに点火したのだ。入り口が崩落し、同盟の追撃は完全に遮断された。
しかし、その爆発の凄まじい衝撃波は、廃坑全体の地盤を激しく揺るがした。九郎たちの足元の岩盤が突如として割れ、地下に隠されていた暗黒の水路が姿を現した。崩落の衝撃により、堰き止められていた地下水路の水位が急激に上昇し、濁流となって噴き出してくる。
「しまっ――水が逆流してやがる!」
鉄次の絶叫も虚しく、激しい激流の壁が九郎たちを襲った。内力を失い、動くことすらできない九郎の身体は、鉄次や岩五郎、そして砕けた岩石もろとも、冷たい暗黒の激流の中へと容赦なく飲み込まれていった。
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