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黒炭の奈落

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耳を直接引き裂くような、凄まじい雷鳴が竹林を薙ぎ払った。音波そのものが物理的な質量を帯びて押し寄せ、周囲の太竹が次々と爆裂して木粉と化す。九郎は両耳からどっと溢れ出た熱い血を感じながら、泥濘の中に片膝をついた。


「無音の法」が、根底から引き裂かれた。全神経を聴覚に集中させていた九郎にとって、鳴神の響が放つ音響衝撃波は、脳髄を直接鉄鎚で叩かれたに等しい。頭蓋の奥が白熱した痛みに灼かれ、痛覚反転のトランス状態すら強制的に解除されかける。視界が激しく揺れ、濁った灰色の右目は完全に光を失ったかのように暗転した。


「くははは! どうだ、大罪人! 耳が潰れれば、自慢の心眼もただの飾りだな!」


 白霧の向こうから、巨大な太鼓を背負った響の哄笑が響く。だが、その声すら九郎の耳には、水中に潜っているかのような、くぐもった不気味な残響としてしか届かない。九郎は錆びた鉄刀の柄を握りしめようとしたが、指先が激しく震え、刀身が音波の微震動を拾って不快な金鳴りを上げていた。このまま次の衝撃波を受ければ、脳が内側から破壊され、刀もろとも粉砕されるのは明白だった。


「修羅の坊主! ここは退くぞ!」


 泥濘を蹴る凄まじい足音と共に、横合いから巨影が飛び出してきた。鉄次だ。彼は「大鉄斬刀」を横一文字に薙ぎ払い、迫り来る音波の余波を強引に切り裂きながら、九郎の襟首を丸太のような豪腕で掴み上げた。剛力による強引な救出。九郎の身体が泥から引き剥がされるのと同時に、響の放った第二の衝撃波が、彼らが先ほどまでいた地面を爆破し、泥水を天高く吹き上げた。


「追え! 逃がすな!」


 背後で同盟兵たちの怒号が響く。だが、鉄次は九郎を肩に担ぎ上げたまま、竹林のさらに奥、陽光の届かぬ暗い断崖の裂け目へと向かって狂ったように走り続けた。耳鳴りと激しい偏頭痛で意識が遠のく九郎の視界の中で、竹林の緑が消え、赤茶けた岩肌と不気味な黒い大穴が迫ってくるのが見えた。


 それこそが、かつて多数の流刑者が一酸化炭素中毒で命を落とし、同盟によって封鎖された「黒炭の廃坑」の入り口だった。


 廃坑の入り口を固める同盟の哨戒兵たちが、弓を引き絞るのがかすかに見えた。この谷を支配する「烏鳴谷の掟・国境射殺律」に基づき、侵入者は容赦なく射殺される。しかし、鉄次は「鉄骨功」の内力を全身に巡らせ、矢の雨をその分厚い背中で受け止めながら、強引に坑道の奥へと転がり込んだ。背後で、同盟兵たちの追撃の足音が、坑道の入り口でピタリと止まるのが聞こえた。


「馬鹿者が、廃坑に入りおったぞ!」


「追うな! 中はガスが滞留している! 火矢も使うな、大爆発が起きるぞ!」


 追っ手たちの恐慌を帯びた声が、くぐもった反響となって坑道内に流れ込んでくる。彼らはガスの危険を恐れ、容易には踏み込んでこない。一時的な安全を得た。しかし、それは同時に、より静かで確実な「死」の檻に閉じ込められたことを意味していた。


 ずさ、と鉄次が九郎を地面に下ろし、自身も壁に背を預けて荒い息を吐いた。坑道内は完全な暗黒であり、ひんやりとした湿気の中に、鼻を突くような硫黄と石炭の腐食臭が漂っている。


「はぁ、はぁ……坊主、生きてるか? 手ぬぐいで口を覆え……ここは空気が腐ってやがる」


 鉄次が懐から取り出した濡れ手ぬぐいを自身の顔に巻き付け、九郎にも差し出す。だが、九郎はそれを受け取らなかった。いや、受け取る余裕がなかった。


 肺が、内側から焼け付くように熱い。一呼吸吸い込むたびに、目に見えない死の毒気――一酸化炭素が、九郎の肺胞から血液へと侵入し、酸素の循環を遮断していく。ただでさえ「経脈断絶」の絶望境界にあり、全身の傷口から漏れ出る内力で辛うじて生命を維持している九郎にとって、呼吸の阻害は即座に「童子傷功」の崩壊を意味していた。内力の循環が滞れば、経脈に滞留している蠍毒が暴走し、身体が内側から腐食して即死する。


「がはっ……!」


 九郎の口から、黒い血が溢れ出た。視界の端が急速に狭まり、冷や汗が全身から噴き出す。隣では、手ぬぐいで口を覆っていた鉄次すらも、ガスの濃度に耐えきれず、壁を滑り落ちるようにして意識を失いかけていた。


(……このままでは、自滅する)


 九郎は暗闇の中で、自身の壊死した左腕を強く抱え込んだ。激痛を感じることで脳を研ぎ澄ます「痛覚反転」すら、酸素を失った脳の前には機能しない。ならば、やるべきことは一つだった。毒には、毒を以て制する。


 九郎は目を閉じ、源周から叩き込まれた禁忌の内功心法「五色毒経・蠍章」を起動した。体内に残された「赤蠍の液」の毒素を、壊れた経脈の代わりに疑似的な内力のバイパスとして循環させる。九郎の肌の下、左腕から胸口にかけて、紫色の不気味な血管のネットワークがぼんやりと光を帯びて浮かび上がった。


 九郎は「毒素共鳴」を全身に巡らせた。体内の蠍毒の波動を周囲の空気に微弱に放射し、吸入した有毒ガスとの化学的な衝突を感知する。肺の内部で、一酸化炭素の分子と、蠍毒の神経麻痺成分が激しく衝突し、中和反応を起こし始める。


「ぐ、あああああッ!」


 喉から肺にかけて、熱湯を直接注ぎ込まれたかのような凄まじい激痛が走る。全身の毛細血管が引き裂かれるような苦痛に、九郎の身体が激しく弓なりに折れ曲がった。だが、九郎はその激痛を「痛覚反転呼吸法」によって強引に受け止め、呼吸の速度を極限まで遅くした。一分に一度、肺の表面に内力の保護膜を形成しながら、ガスを毒脈へと取り込み、無害な炭粉へと変質させて吐き出す。


 じじ、じじ、と九郎の皮膚の下で紫色の光が明滅し、やがて静かに収まっていった。荒行の末、九郎は肺の機能を辛うじて維持し、ガスの侵食を食い止めることに成功した。しかし、内力の消費は激しく、全身の傷口からは再びじわりと黒い血が滲み出していた。一刻も早く、新たな毒を補給しなければ、この疑似魔脈自体が自己崩壊を起こす。タイムリミットは確実に迫っていた。


 静寂が、廃坑の奥底を支配する。鉄次は浅い呼吸を繰り返しながら、完全に意識を失っていた。九郎は折れた肺を庇うように呼吸を整えながら、暗闇の奥を見据えた。右目は見えず、耳鳴りは未だ止まない。だが、その研ぎ澄まされた皮膚の感覚が、空気の不自然な「揺らぎ」を捉えた。


 完全な暗黒。光が一切届かないはずの奈落の底から、冷たい風が吹き抜けてくる。


 そして、その風に乗って、奇妙な音が響いてきた。


 ――カン。……カン。……カン。


 それは、硬い岩肌を穿つ、乾いた金属の音だった。ツルハシが石炭の地層を叩く、規則正しく、しかしどこか重苦しい響き。同盟の追っ手ではない。追っ手なら、もっと騒がしく、火器の匂いを伴うはずだ。この有毒ガスが立ち込める死の深淵で、平然と作業を続ける者がいるというのか。


 九郎は腕刃を構え、音のする方向へと、跛行の脚を静かに踏み出した。暗闇の奥から、不気味な気配がじわじわと近づいてくるのを、彼の「毒素共鳴」が捉え始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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