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無音の刃

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境界の絶壁、その麓に広がる『霧深き竹林』。立ち込める白霧は、まるで生者の肉を削ぎ落とそうとする死者の息吹のように、冷たく、そしてどこまでも湿っていた。


 上空を覆い尽くしていた闇鴉の六助の烏どもは、この乳白色の深淵を前にして、竹林の天蓋をただ不気味に旋回するのみだった。だが、九郎に息つく暇は与えられない。烏の目が届かぬこの地表こそが、同盟の放った「影」――無音の暗殺者たちの真の狩り場なのだから。


 九郎は一本の太い竹の幹に背を預け、荒い呼吸を殺していた。右脇腹の傷が、一歩踏み込むたびに熱い血を吐き出す。左腕は「壊死抑制の黒包帯」の下で、石のように冷たく、そして腐敗の微熱を帯びていた。壊死進行度はすでに三十割に達している。命の灯火がまた一目盛り、確実に削り取られていくのを感じていた。


 その時、右目の視界が一瞬だけ、不気味にブレた。白霧の乱反射が、濁った灰色の右目に、ありもしない光の残像を焼き付けたのだ。


(……チッ、視覚が狂うか)


 背後。いや、右斜め後方。濡れた竹の葉が、微かに擦れる音がした。風の悪戯ではない。人為的な極小の「動」だ。


 九郎は反射的に右目の視界でその方向を捉えようとした。だが、それこそが敵の罠だった。霧の中で一瞬きらめいた光に気を取られた瞬間、九郎の右頬を鋭い風がかすめた。冷たい感触の直後、熱い血が頬を伝う。無音で放たれた鋼のクナイが、竹の幹に深く突き刺さっていた。


 敵は、九郎の視覚が衰えつつあることを見抜いている。この濃霧の中で、目で敵を追う行為そのものが、死への直行便に他ならなかった。


「……目に見えるものは、すべて幻影だ」


 九郎の脳裏に、烏鳴谷の廃寺の片隅で静かに数珠を繰っていた盲目の老僧――覚庵の、枯れ木のような声が蘇った。


『九郎よ、お前さんの背負う殺気はあまりにも鋭すぎる。だが、その目は外の光に囚われすぎている。真の闇の中で生き残るには、その両の眼を閉じよ。耳で、肌で、空間を震わせる「風の音」を聴くのだ。それこそが、決して裏切らぬ真実の刃となる』


 九郎は、深く息を吐き出した。そして、迷うことなく、まだ光を僅かに残していた両の眼を、完全に閉じた。


 世界が暗黒に包まれる。だが、それと同時に、九郎の全神経は異様なほどに研ぎ澄まされていった。頬を伝う血の熱さ、左腕の壊死がもたらす激しい拍動、そして、竹林を濡らす雨の冷たさ。九郎は、自身の内に渦巻く「激痛」をすべて、脳の深部へと誘導した。


「痛覚反転――」


 脳内で、何かが弾ける音がした。濁った灰色の瞳が、瞼の裏側で不気味な赤色へと変色していく。全身を苛んでいた激痛が、一瞬にして冷徹な「集中力」へと誤認され、脳内を支配した。時間の流れが、急激に遅くなっていく。雨粒が竹の葉から滴り落ちる軌道すら、頭の中でスローモーションの波紋となって立体的にマッピングされていく。


 これこそが、覚庵から授けられた「心眼修行・無音の法」と、童子傷功のトランス状態の融合だった。


 カサ、と。頭上、約三丈の高さから、空気の物理的な「圧縮」が伝わってきた。竹のしなりを利用し、上空から急降下してくる同盟の忍び。その刃が風を裂く極小の摩擦音を、九郎の耳は完璧に捉えていた。


 九郎は「蛇歩」を始動した。右脚の凍傷の痛みを闘気に変換し、地面を滑るように低い姿勢で前方へと滑り込む。上空から振り下ろされた忍びの太刀は、九郎が先ほどまでいた空間の泥水を激しく撥ね上げるに留まった。


 すれ違いざま。九郎の右腕が動いた。泥で光を消した「錆びた鉄刀」を逆手で握り直し、相手の喉元へ向けて一閃を放つ。


 音はなかった。ただ、濡れた肉が、鋭い鉄塊によって引き裂かれる「ズシャ」という鈍い感触だけが、九郎の右腕に伝わった。忍びは声も上げられず、喉から黒い血を噴き出して泥濘の中に崩れ落ちた。


 ドサリ、と死体が泥に落ちる。その瞬間、肉体が地面を叩いた衝撃の「反響音」が、竹林の霧の中に広がった。九郎の耳は、その音波が周囲の竹の幹に当たり、どのように跳ね返ってくるかを計算していた。


(……そこだ)


 死体の影、そして左後方、二本の竹の裏。さらに二人の気配。彼らの呼吸音は完全に消されていたが、九郎の「無音の法」の前には、彼らの心臓が刻む微弱な鼓動すら、太鼓の音のように大きく響いていた。


 九郎は、自身の気配を完全に世界から消し去る「無音剣・影断」の歩法に入った。音もなく、霧と同化するように滑り出す。刃が空気を切り裂く風切り音すら、九郎の内力によって完全に中和されていた。


「なっ――消え――」


 背後に潜んでいた忍びが、九郎の存在を見失い、焦燥の声を漏らした。それが、彼の最期の言葉となった。闇の中から音もなく滑り込んだ九郎の腕刃が、その首筋を正確に横一文字に切り裂いた。毒を帯びた黒い血が霧に舞う。


 間髪入れず、九郎は最後の一人に向けて踏み込んだ。相手が恐怖に身を強張らせ、刀を構え直す「カチャ」という金属の擦れ音。その位置に向けて、錆びた鉄刀が容赦なく突き立てられた。心臓を正確に貫かれた忍びは、痙攣しながら泥の中に沈んでいった。


 静寂が、再び竹林を支配した。


 九郎は刀を収め、瞼を開けた。右目の視界は、さらに霧が濃くなったように白く濁っていた。全神経を聴覚に集中させた反動で、脳を直接灼かれるような激しい偏頭痛が九郎を襲う。だが、修羅の顔に揺らぎはなかった。


 しかし、その静寂は、一瞬にして破られた。


 ゴォォォォン――!


 竹林の奥深く、白い深淵のさらに向こうから、不気味で重厚な「鐘の音」が響き渡った。それは、単なる寺の鐘ではない。音波そのものが物理的な質量を持ち、竹林の霧を激しく吹き飛ばしながら、九郎の鼓膜を直接引き裂こうと迫り来る、狂気の衝撃波だった。


「ぐっ……!」


 九郎は激しい耳鳴りに襲われ、思わず膝をついた。耳から一筋の血が流れ落ちる。全神経を耳に集中させていた九郎にとって、その大音響は、肉体を直接引き裂かれるに等しい致命的な一撃だった。


 霧の奥から、背中に複数の巨大な太鼓を背負い、両手に鉄製のバチを持った男が、不敵な笑みを浮かべて歩み寄ってくる。同盟の「雷鳴の術者」――鳴神の響。彼の放つ次の「雷鳴衝撃波」が、九郎の全ての感覚を破壊せんと、その不気味な震動を帯びていた。

HẾT CHƯƠNG

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