闇鴉の目
泥巣(どろす)の広場に降り注ぐ泥混じりの雨は、九郎が屠った同盟兵たちの黒い血を容赦なく薄め、ぬかるんだ地面へと吸い込ませていく。広場に立ち尽くす流刑者たちの、肌を刺すような沈黙。彼らの瞳に宿る恐怖は、同盟の支配に対するものから、目の前に立つ隻腕の修羅――緋村九郎へのものへと完全にすり替わっていた。
九郎は、折れた槍の穂先が突き刺さったままの左腕を一瞥した。きつく巻かれた黒い包帯は引きちぎれ、腐食しかけた死肉から溢れ出た黒い血が、雨水に濡れて不気味に光っている。常人であれば激痛に悶絶し、ショック死していてもおかしくない傷だ。だが、九郎の脳が感じているのは、焼け付くような痛みではなく、全身の経穴を狂ったように駆け巡る、童子傷功の濃密な内力だった。
「……おい、坊主。その腕、早く源周の爺さんのところに持ってかねえと、本当に腐り落ちるぞ」
鉄次が、大鉄斬刀の泥を払いながら、忌々しげに吐き捨てた。彼の声には、九郎の無痛の戦い振りに対する本能的な忌避感が混ざっている。慎太は、九郎の血塗られた影に怯えながらも、その錆びた鉄刀の鞘を抱きしめ、必死に涙を堪えていた。
「……お慶の店に戻る」
九郎は、かすれた声で短く告げると、引きずる左脚を強引に前へと踏み出した。一歩進むたびに、右脇腹の古傷が裂け、野良着の灰色の布地が赤黒く染まっていく。肺の奥からせり上がる血の泡を、彼は無言で噛み潰した。
居酒屋「烏の羽」の奥座敷。お慶は、九郎の左腕に突き刺さった槍の木製の柄を、躊躇なく引き抜いた。肉が裂ける鈍い音が響き、九郎の口元から「ごふっ」と短い吐血が漏れる。だが、彼の濁った灰色の瞳は、微塵も揺らがなかった。
「無茶な真似を……」
お慶は、顔をしかめながら、手際よく傷口に防腐の薬草をすり込み、新しい黒い包帯できつく縛り上げた。包帯が肉を締め付けるたびに、九郎の壊死した左腕の皮膚が化学的に焼かれ、不気味な紫色の煙を上げる。壊死進行度はすでに三十割(30%)に達しており、肩口まで黒い血管が蠢くように広がっていた。
「剛造の配下をここまで派手に殺りゃ、本山が黙っちゃいない。……九郎、あんたの体内の毒、もう限界が近いんだろう? 源周の薬だけじゃ、その崩壊は止められないよ」
お慶は、煙管の煙を細く吐き出しながら、九郎の顔を覗き込んだ。その瞳には、かつての恩人・緋村一真への義理と、目の前の修羅への哀れみが混ざり合っている。
「……体内の疑似経脈を維持するための、最初の奇毒が必要だ」
「なら、急ぎな。この谷の最深部、毒霧に閉ざされた断崖の隙間に、同盟の支配が及ばない隠れ里『蠍火村(さそびむら)』がある。そこに、蠍を聖獣として崇める民が暮らしているよ。彼らが守る聖域の鍾乳洞に、あんたが求める『赤蠍の毒液』が眠っている」
赤蠍の毒液――神経を麻痺させ、痛覚を完全に遮断する、五大奇毒の基盤。それがあれば、崩壊しかけている九郎の肉体に、新たな「毒脈」のバイパスを完成させることができる。だが、お慶の表情は暗かった。
「だけどね、簡単には近づけないよ。泥巣での騒ぎを聞きつけて、同盟の追討隊が本格的に動き出した。……隊長は、あの『闇鴉の六助(やみがらすのろくすけ)』だ。あいつが谷に入った」
闇鴉の六助。武功の腕自体は二流だが、訓練された本物の烏たちと視覚を共有する「烏の視覚共有術」を操る、同盟最強の斥候であり追跡の天才。一度その目に捉えられれば、いかなる隠密術も無力化され、上空からの誘導矢によって蜂の巣にされるという。
「六助の烏が、谷の空を完全に支配している。……あいつの目を盗んで蠍火村へ向かうには、南西の『霧深き竹林』を抜けるしかない。あそこなら、濃い霧が烏の視界を遮ってくれるはずさ」
「……わかった」
九郎は立ち上がり、錆びた鉄刀を腰に差した。鉄次が「俺は泥巣の荒くれどもをまとめて、剛造の次の動きを牽制してやる。蠍の液、死んでも手に入れてこいよ」と、不敵に笑って見送った。慎太は「師匠、気をつけて……」と、その小さな手で九郎の衣類の裾を握りしめた。九郎は無言でその手を振り払い、廃寺の裏手へと歩みを進めた。
冷たい雨が、容赦なく九郎の身体を叩く。廃寺の裏の荒地に出た、まさにその瞬間だった。
キィ、と。頭上の暗雲を引き裂くような、不気味で鋭い鳥の鳴き声が響き渡った。
九郎が隻眼を細めて空を見上げると、一羽の巨大な、漆黒の烏が、激しい雨の中でも正確に九郎の頭上を旋回していた。その烏の瞳は、血のように赤く光っている。烏の視界の先には、今、間違いなく九郎の姿が写り込んでいるはずだった。六助の「目」だ。
カァ、カァ、カァ――!
烏が激しく鳴き声を上げ、その位置を主へと知らせる。絶望の羽音が、九郎の耳を塞ぐように響き渡った。
「――曲者だ! 射てッ!」
地上の草むらから、無数の殺気と共に、鋭い怒号が響いた。六助の指示を受けた同盟の弓兵たちが、死角から一斉に火矢を放ったのだ。雨を切り裂き、赤い尾を引く矢の群れが、九郎の周囲の地面を次々と穿ち、泥水を爆発させる。退路は完全に断たれた。
(……空からの視覚を共有している。遮蔽物に隠れるだけでは、上空から狙い撃ちにされるだけだ)
九郎は、泥濘の中を「蛇歩」で蛇行しながら、火矢の直撃を紙一重でかわした。一歩踏み込むたびに、凍傷に侵されかけた右脚の筋肉が悲鳴を上げる。上空の烏は、九郎の不規則な動きを完璧に捉え、常に真上をキープして旋回し続けている。
「逃さねえよ、緋村の逆賊が」
遠くの岩壁の上から、片目に鋭い眼帯をした青年――闇鴉の六助が、特殊な竹笛を唇に当てて不敵に笑っていた。彼が笛を吹くと、空を埋め尽くさんばかりの烏の群れが、一斉に九郎に向けて急降下を開始した。
バサバサと、数千の羽音が九郎の聴覚を麻痺させる。烏たちは、鋭い爪と嘴で九郎の傷口を直接攻撃し、彼を泥濘の中に引きずり出そうと、全方位から襲いかかってきた。
「……泥に、紛れる」
九郎は、錆びた鉄刀を泥の中に突き刺すと、自らの肉体を泥濘へと投げ出した。全身に、谷の冷たくて生臭い有毒な泥を塗りたくり、気配と体温を極限まで消し去る「泥隠れの術」を始動したのだ。
泥の中に完全に身を沈め、呼吸を極限まで遅くする。泥の低温が、九郎の体温を急激に低下させ、烏たちの「熱源感知」の目を欺く。頭上を旋回していた烏たちが、突然標的を見失ったかのように、泥濘の上で混乱したように羽ばたきを乱し始めた。
「ほう、泥に隠れたか。だが、無駄な足掻きだ」
六助が再び笛を吹く。不気味な高音が響くと、烏の群れは、泥濘の地面そのものを爪で激しく掻きむしり、九郎を物理的に引きずり出そうと、泥の中に嘴を突き立て始めた。鋭い嘴が、九郎のきつく巻かれた黒包帯を貫き、壊死した左腕の肉を容赦なく引き裂く。感覚のない左腕から、再び黒い血が泥水へと滲み出ていく。
激痛が、脳髄を突き抜ける。だが、九郎はその激痛を、童子傷功の内力へと強制的に変換した。彼の濁った灰色の瞳が、泥の中から、上空を舞う六助の姿を冷酷に見据えていた。
九郎は、泥にまみれた「錆びた鉄刀」の刀身を手でなぞり、刃の表面に泥を厚く塗りつけた。金属の光の反射を完全に消し去る。そして、不自由な右脚に、暴走する内力を一気に集中させた。
(……ここを開けた戦場で戦えば、烏の餌食になるだけだ。霧の深淵へ、敵を誘い込む)
泥濘の中から、九郎の身体が、まるで弾かれた石のように爆発的に飛び出した。泥を跳ね上げながら、彼は六助の烏の爪を紙一重でかわし、南西に広がる、白く濃い霧が立ち込める「霧深き竹林」の入り口に向けて、一直線に「蛇歩」で滑り込んだ。
「追え! 竹林に逃げ込ませるな!」
六助の怒号が響く。しかし、九郎の身体が竹林の濃い霧の中に消えた瞬間、上空の烏たちは、視界を完全に遮る白い深淵の前に、侵入を阻まれて空中で立ち往生した。
九郎は、竹の幹に背を預け、激しい呼吸を整えた。胸の奥からせり上がる血を吐き捨て、新しい包帯の隙間から滲み出る黒い血を見つめる。左腕の壊死は、確実に進行していた。タイムリミットは、もう残されていない。
竹林の入り口の外では、六助の操る烏たちが、逃げ道を完全に塞ぐように、不気味に旋回を続けている。そして、霧の奥からは、同盟の忍びたちの、音もなき殺気がじわじわと近づいていた――。
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