泥巣の血雨
烏鳴谷の底に広がるスラム「泥巣(どろす)」は、天から降り注ぐ冷たい雨と、山肌から染み出す濁った泥水が混ざり合う、文字通りの底なしの沼地であった。腐った木材とボロ布で編まれた粗末な小屋がひしめき合い、空気には排泄物と死臭、そして安物の燃料が燃える鼻を突く煙の匂いが充満している。ここには、正道武林同盟から追放された罪人、あるいは流刑に処された日雇いの武芸者たちが、ただ明日死ぬのを待つためだけに泥を啜って生きていた。
九郎は、泥にまみれた灰色の野良着の裾を濡らしながら、静かにその泥濘を進んでいた。彼の左脚は、かつての裏切りによって経脈を絶たれ、不自然に引きずられている。だが、その歩調は驚くほどに静かだった。重心を不規則に左右へ逃がしながら滑るように進む不気味な歩法――「蛇歩」が、泥の鳴る音さえも雨音の中に消し去っていた。彼の右手の懐には、先ほど巡邏兵の死体から奪い取った一枚の金貨が握り締められていた。不動明王の逆刃を刻んだ、我が緋村道場の形見。その金貨の表面には、家紋を削り取ろうとした生々しい刃の傷が残されている。一族を皆殺しにした犬どもが、今もこの谷で、略奪した富を汚れた通貨として使い回しているのだ。胸の奥で、冷たい怒りが黒い炎となって爆発の瞬間を待っていた。
「おい、修羅の坊主。本当にこの先にそのお慶って女の店があるのかよ。この泥の深さじゃ、大鉄斬刀を引きずるだけでも骨が折れるぜ」
背後から、不平を漏らしながらついてくるのは、用心棒の鉄次だった。彼は己の分厚い胸板を雨に晒し、刃こぼれした巨大な大鉄斬刀を肩に担いでいる。その後ろには、寒さと恐怖で肩をすぼめた孤児の少年、慎太が、九郎の足跡をなぞるように必死についてきていた。
九郎は答えず、ただ泥の路地の奥にぽつんと灯る、かすれた赤い提灯を見据えた。そこが、流刑者たちの唯一の溜まり場であり、情報収集のハブでもある居酒屋「烏の羽(うのはね)」だった。
引き戸を開けると、生臭い体臭と、不純物だらけの密造酒「泥水安酒」の鼻を突く匂いが一気に漂ってきた。店内にたむろしていた荒くれ者たちが、一斉に新入りへと不躾な視線を向ける。だが、九郎の全身から漂う、尋常ならざる死の気配と、きつく巻かれた黒い包帯に包まれた左腕を見た瞬間、彼らは本能的に視線を逸らし、再び安酒の器に目を落とした。
「……おや、見慣れない泥人形が紛れ込んできたね」
カウンターの奥で煙管を咥え、妖艶な柄の着物を着崩した中年女性が、紫煙を吐き出しながら九郎をねめつけた。居酒屋の女将、お慶である。彼女の鋭い瞳は、九郎の引きずられた左脚と、その腰に差された「錆びた鉄刀」を一瞬にして捉えた。お慶の目が微かに見開かれ、煙管を握る指先がわずかに震えたのを、九郎は見逃さなかった。彼女は、九郎の父であり師であった緋村一真に、かつて命を救われた過去を持つ。九郎の素性に気づいたはずだった。だが、彼女はそれを口には出さず、ただ冷ややかに笑った。
「うちで出すのは、喉が焼けるような泥水安酒だけさ。お上品な客の来るところじゃない。……座るかい、大罪人さん?」
「……酒を」
九郎は掠れた声でそれだけ言うと、懐から、先ほど手に入れた「形見の金貨」をカウンターの木卓に静かに置いた。家紋の削られた金貨が、鈍い音を立てる。
お慶は煙管を灰皿に叩きつけ、その金貨を凝視した。彼女の呼吸が、一瞬だけ完全に止まった。
「……これを、どこで手に入れた?」
「外に転がっていた犬の死体からだ」
九郎の冷徹な言葉に、お慶は金貨を素早く袖の中に隠し、代わりに並々と注がれた泥水安酒の器を差し出した。
「この谷の監獄長、剛造の部下どもさ。あいつらは、一族の略奪品を山分けして、この泥巣で我が物顔で使っている。……あんたが生きていると知れば、剛造はスラムごとここを焼き払うよ」
その警告が現実となるのは、あまりにも早すぎた。
突如として、店の外から鋭い悲鳴と、家屋が燃える不気味な爆音、そして「黒鉄衛」の無慈悲な怒号が響き渡った。
「緋村の逆賊がこの泥巣に潜り込んだ! 全員引きずり出せ! 吐かない者は、その場で首を吊るせ!」
お慶の店の引き戸が乱暴に蹴り開けられ、泥水と共に鋼鉄の甲冑を纏った剛造の配下たちが踏み込んできた。店内の荒くれ者たちは、悲鳴を上げて窓から逃げ出そうとする。外では、すでに数棟のボロ小屋に火が放たれ、雨の中でも激しく燃え盛る煙が、夜空を黒く染めていた。同盟の兵士たちは、無関係なスラムの住民たちの髪を掴み、泥濘の広場へと引きずり出している。
「おいおい、早速お出ましだぜ、坊主!」
鉄次が大鉄斬刀を構え、舌打ちをしながら九郎の前に立とうとした。だが、九郎はお慶の差し出した安酒を無言で一気に飲み干すと、錆びた鉄刀の柄に手をかけ、静かに店の外へと歩み出た。その背中には、無駄な同情も、正義の感傷も一切なかった。あるのは、ただ獲物を屠るためだけの、冷徹な殺意のみだった。
雨の降りしきる広場では、同盟の十人隊長が、怯える老人の首元に鋼鉄の剣を突き立てていた。周囲を囲む兵士たちは長槍を並べ、スラムの住民たちを完全に包囲している。
「吐け! 逆賊の九郎はどこに隠れた!」
「そ、そんなお方は知りませぬ! 頼む、お許しを……!」
「無駄だな。逆賊を匿う者は、この谷の法律によって全員処刑だ」
十人隊長が冷酷に剣を振り上げたその瞬間、泥濘の影から、一本の錆びた鉄の塊が音もなく突き出された。
「……俺を、探しているのか」
九郎の声は、地鳴りのように低く、冷たかった。十人隊長が驚愕して振り返った瞬間、九郎はすでに「片腕重心移動法」を始動させていた。失った左腕の重さを脳内で完全に無視し、右腕一本で錆びた鉄刀を操る異形の身体操作。九郎の身体は不自然な角度に傾ぎながらも、体幹は微塵もブレず、十人隊長の突きを紙一重でかわした。
すれ違いざま、九郎の錆びた鉄刀が、十人隊長の脇腹を横一文字に切り裂いた。それは、緋村流の変形剣技――「一文字・傷刻」。
ズシャァッ!
肉を断つ鈍い音が響き、十人隊長は泥濘の中に転がった。だが、その傷口は通常の剣撃によるものではなかった。切り裂かれた肉の断面から、じわじわと不気味な黒紫色の泡が立ち上り、腐敗臭を伴って肉が急速に崩壊し始めたのだ。源周から授けられた禁忌の武功「童子傷功」の内力が、錆びた刃に付着した蠍毒と血を媒介にして、敵の傷口を内側から腐食させていた。
「ぎ、あ、ああああああッ!? な、何だこの傷は! 身体が、肉が溶けるッ!!」
十人隊長は泥の中でのた打ち回り、自身の脇腹を掻きむしったが、掻きむしる指先までもが黒く変色し、崩れ落ちていく。その凄惨な光景に、周囲の兵士たちは一瞬にして凍りついた。
「こ、この化け物が! 槍を構えろ! 突き殺せ!」
残された八人の兵士たちが、我気を取り戻し、一斉に長槍を突き出してきた。鋭い穂先が、全方位から九郎の肉体を貫こうと迫る。
「ちっ、数が多いぜ!」
鉄次が横から大鉄斬刀を振るって加勢しようとしたが、同盟兵の組織的な盾の壁に阻まれ、前進を完全に遮断された。盾の裏から、執拗な槍の連撃が九郎へと集中する。
九郎は、避けることをしなかった。いや、避ける必要がなかった。
彼はあえて、正面から突き出された一本の槍の穂先を、自身の壊死した左腕の傷口で直接受け止めたのだ。冷たい鋼鉄の刃が、黒い包帯を突き破り、感覚を失った死肉を貫いて骨に達する。普通であれば、激痛に絶叫し、戦闘不能に陥る致命傷。だが、九郎にとっては、これこそが武功の「燃料」であった。
左腕の骨に達した凄まじい衝撃と、そこから脳髄へと逆流する「極限の激痛」が、九郎の体内で眠っていた童子傷功の内力を一気に暴走させた。彼の濁った灰色の瞳が、一瞬だけ不気味な赤色に発光する。時間の流れが、極限まで遅くなる。雨粒の一滴一滴が、空中に静止しているかのように見えた。
(……痛みこそが、俺の力だ)
九郎の口元から、激しい吐血と共に、黒赤い闘気が吹き出した。肺への極度の負担により、内臓が焼け付くような感覚が彼を襲うが、それをすべて純粋な破壊のエネルギーへと変換する。右腕に宿る内力が爆発的に膨張し、錆びた鉄刀が黒い霧を纏って鳴動した。
「――『一文字・傷刻』!」
九郎は右腕一本で、錆びた鉄刀を横一文字に薙ぎ払った。放たれた黒赤い衝撃の刃が、並べられた長槍の木製の柄を瞬時に叩き折り、兵士たちの胴体を容赦なく切り裂いた。
斬撃を浴びた五人の兵士たちが、同時に泥濘へと吹き飛んだ。彼らの傷口からは、十人隊長と同じように黒紫色の毒霧が立ち上り、瞬く間に肉が腐食し始める。決して塞がらない傷。血を流し続け、肉を溶かされながら死に至る「魔道」の刃。兵士たちは、泥水の中で自身の肉体が液化していく恐怖に絶叫し、悶絶しながら息絶えていった。
広場を支配したのは、燃え盛る炎の爆音と、冷たい雨の音、そして死にゆく者たちの絶望的な呻き声だけだった。スラムの住民たちは、救われた喜びなど微塵も抱いていなかった。彼らは、泥濘の中に立ち尽くす九郎を、信じがたい「恐怖の怪物」として見つめていた。黒い包帯から黒い血を流し、錆びた刀を右手一本で握るその姿は、正義の剣士などでは断じてない。地獄の底から、ただ偽善を貪り食うために這い上がってきた「生ける修羅」そのものだった。
九郎は、彼らの畏怖の視線に一瞥もくれず、ただ静かに刀身に付着した黒い血を雨水で洗い流した。その横顔は、冷酷なまでに静まり返っていた。
生き残った最後の一人の兵士が、腰を抜かして泥濘を這いずりながら、必死に逃げようとしていた。九郎はそれを追うことはしなかった。剛造のもとへ、恐怖の報告を持ち帰らせるために。復讐の雨は、まだ降り始めたばかりだった。
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