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泥濘の獲物たち

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冷たい雨が、容赦なく廃寺の瓦を叩き、破れた天井から容赦なく泥水を滴らせていた。


「……くく、せいぜいその新しい『玩具』の使い心地を試すがいい、九郎」


 闇の奥から、源周の耳障りな含み笑いが聞こえ、そのまま気配が消えた。老毒医は、自らの施した狂気の肉体改造――禁忌の武功『童子傷功』の成果を特等席で観察するため、廃寺の梁の闇へと身を隠したのだ。


 九郎は静かに立ち上がった。全身の傷口から、じわりと黒赤い霧のような闘気が立ち上っている。体内の経脈はズタズタに断裂しているが、その代わりに、引き裂かれた剥き出しの傷口に内力が滞留し、肉体を強引に駆動させていた。一歩を踏み出すたびに、脳髄を直接針で突き刺されるような激痛が走る。だが、その痛みが走るたびに、彼の「痛覚反転呼吸法」が作動し、脳内に過剰な集中力と冷徹な闘気を送り込んできた。痛みこそが、今の九郎にとっての唯一の生命線だった。


 左腕は、黒く変色したまま微動だにしない。壊死の進行を強引に止めるため、薬液に浸された「壊死抑制の黒包帯」が肩口まで何重にもきつく巻き付けられている。九郎は、寝台の脇の瓦礫に突き刺さっていた一本の刀に右手を伸ばした。谷のゴミ捨て場から拾い上げ、口のきけない鍛冶屋・猪助に強度だけを保つように応急処置で打ち直してもらった「錆びた鉄刀」だ。刃こぼれだらけで美術的な価値など皆無だが、今の九郎の執念を体現したような、泥と血に塗れた鉄の塊だった。


 廃寺の外から、泥を踏みしめる複数の足音が近づいてくる。松明の赤い光が、雨の帳を透かして格子窓の隙間から差し込んできた。


「おい、本当にこの廃寺に『緋村の生き残り』が逃げ込んだのか?」

「間違いない。本山からの追討令が出ている。首を獲れば、一生遊んで暮らせる金が手に入るぞ」


 聞こえてきたのは、「正道武林同盟」の末端巡邏兵たちの下卑た声だった。神院清純の犬ども。一族を虐殺し、師・一真を逆賊に仕立て上げた偽善の組織の末端が、九郎の首を求めて牙を剥いている。


 九郎の濁った灰色の瞳に、冷酷な光が宿った。彼は音もなく廃寺の裏口から外へと滑り出た。


 外は、膝まで埋まるほどの底なしの泥濘だった。九郎は全身に泥を塗りたくり、気配と体温を極限まで消し去る「泥隠れの術」を始動した。冷たい泥が全身の傷口を刺激し、激痛が走る。だが、その激痛が九郎の「痛活」をさらに研ぎ澄ませた。時間の流れが遅く感じられる。雨粒が葉を叩く音、巡邏兵たちの浅い呼吸、彼らの松明が放つ熱気の揺らぎが、ありありと脳裏に立体化されていく。


 九郎は不規則な蛇行を描きながら地面を滑るように接近する歩法「蛇歩」を繰り出した。壊れた左脚の重心を、体幹のしなりと右脚の爆発的な踏み込みで完璧に補う異形の移動術だ。泥を跳ね上げる音すら、激しい雨音の中に完全に溶け込んでいた。


 最初の獲物は、松明を掲げて廃寺の影を覗き込んでいた巡邏兵だった。九郎は泥の中から、まるで這い出てくる蛇のように音もなくその背後に立ち上がった。


 右腕一本で「錆びた鉄刀」を振り抜く。横一文字の軌跡が、雨のカーテンを切り裂いた。


 ズシャ、と鈍い音が響く。錆びた刃は兵士の喉元を切り裂いたが、刃こぼれのせいで骨に引っかかり、嫌な感触が右手に伝わってきた。九郎は眉一つ動かさず、強引に刀を引き抜いた。兵士は声も上げられず、喉から黒い血を噴き出して泥濘の中に崩れ落ちた。その血を浴びた九郎の傷口から、さらに濃い黒赤い霧が立ち上る。


「な、何だ!? 敵襲――!」


 異変に気付いた二人目の兵士が、鋼鉄の剣を抜いて九郎の頭上から斬りかかってきた。九郎は左腕が動かないため、刀で受けることができない。右腕一本で防ごうとしたが、骨折寸前の負荷がかかっている右肩の関節が悲鳴を上げ、攻撃の軸がブレて兵士を仕留め損なった。


 兵士の剣が九郎の右脇腹を浅く切り裂く。凄まじい衝撃が走る。


 だがその瞬間、横の闇から巨大な影が飛び出してきた。風を切る不気味な轟音と共に、刃こぼれした「大鉄斬刀」が振り下ろされ、二人目の兵士の頭部を兜ごと叩き潰した。


 泥水が激しく跳ね上がり、肉と骨が砕ける生々しい音が響く。


 現れたのは、傷だらけの無精髭に分厚い胸板を持つ大男、谷の用心棒・鉄次だった。彼は擦り切れた着物を片肌脱ぎにし、不敵な笑みを浮かべていた。


「へっ、同盟の犬どもを狩るにに、ずいぶんと泥臭い戦い方をするじゃねえか、坊主」


 鉄次は九郎の姿を見て、一瞬だけ息を呑んだ。九郎の体から立ち上る黒赤い霧、そして Necrosis(壊死)して黒く染まった左腕。何より、右脇腹を深く斬られながらも、痛みに顔を歪めるどころか、冷徹な眼光を鋭く尖らせているその「異常な佇まい」に、本能的な恐怖を覚えたのだ。こいつは人間ではない。地獄から這い上がってきた修羅だ、と。


 その時、廃寺の影に隠れていた物乞いの少年・慎太が、ガタガタと震えながら彼らの戦いを見つめていた。慎太の細い瞳には、恐怖だけでなく、圧倒的な強者への憧れが宿っていた。


「おい、最後の一人が狼煙を上げようとしてるぞ!」


 鉄次が叫んだ。残された最後の一人の巡邏兵が、恐怖に顔を歪めながら、懐から信号用の狼煙筒を取り出し、火をつけようとしていた。これが上がれば、関所を守る「黒鉄衛」の本隊が一斉に押し寄せてくる。


 九郎は動かぬ左腕を前に突き出した。壊死した指先を、黒い包帯の隙間から強引に折り曲げる。


(……穿て)


 九郎の体内で暴走する蠍毒と血が、左手の指先に凝縮された。包帯の隙間から、無音で一本の黒い極細の針――「蝕骨針」が放たれた。


 針は正確に、狼煙を上げようとした兵士の喉元を貫いた。兵士は目を見開き、喉を掻きむしった。針が刺さった瞬間から、ジジジと不気味な音を立てて肉と骨が溶け始め、彼は狼煙筒を落として泥濘の中に沈んでいった。静寂が、再び廃寺の周囲を支配した。


 鉄次は、大鉄斬刀を肩に担ぎ直し、九郎を見つめた。


「おいおい、毒針まで使うか。正道の天才剣士様が、大した『魔道』に堕ちたもんだな。だが……気に入ったぜ。あの監獄長・剛造の支配下で、これ以上同盟の犬どもに怯えて暮らすのは御免だ。金は要らねえ。お前のその『異常な力』の側に入れば、俺も生き残れる気がするんでな。背中を守ってやるよ、修羅の坊主」


 九郎は鉄次の言葉に答えず、無言で死体へと近づいた。彼は右腕一本で、倒れた巡邏兵の懐を探った。同盟の装備品を剥ぎ取るためだ。


 兵士の革の財布を破り、中身を泥の上にぶちまけた。数枚の安価な銅銭に混ざって、一枚の純金貨が泥の中に落ち、松明の残火に鈍く反射した。


 九郎はその金貨を拾い上げ、雨水で泥を洗い流した。金貨の表面には、鋭い刃で削り取られたような傷があったが、その中央には、見覚えのある意匠が微かに残っていた。――緋村道場の家紋、不動明王の逆刃の紋章。


 それは、あの一族皆殺しの夜に奪われた、緋村道場の形見の金貨そのものだった。


 九郎の右手が、金貨をきつく握り締めた。刃こぼれした鉄刀の柄を握る指先が、怒りで激しく震える。彼らが奪った一族の命と富は、今もこの谷の同盟の犬どもの間で、汚れた通貨として流通しているのだ。


 黒赤い霧が、九郎の全身の傷口からさらに激しく吹き出した。激痛が全身を駆け巡るが、胸の奥で燃え盛る復讐の炎が、その痛みをすべて純粋な「殺意」へと変換していく。


「……神院清純……必ず、全員の首を、引きずり出してやる……」


 九郎の冷徹な呟きが、激しい雨音の中に消えていった。復讐の連鎖は、まだ始まったばかりだった。

HẾT CHƯƠNG

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