修羅の血戦
体内の毒のバランスは崩壊寸前。次の「一呼吸」の間に霧羽を仕留めなければ、九郎自身の肉体が内側から爆発して即死する、極限の死線がそこにあった。
土砂降りの雨が、九郎の剥き出しになった胸の傷口に容赦なく叩きつける。自らの指先を突き立て、強引に抉り広げた右胸の矢傷。そこから溢れ出るのは、赤蠍の奇毒と中和剤が激しく衝突し、沸騰した黒紫色の血だった。
「化け物が……! 心臓に中和剤が達しているはずだぞ、なぜ動ける!」
霧羽の顔から完全に余裕が消え失せていた。男は驚愕に目を見開き、泥濘を踏みしめて素早く三歩バックステップを踏む。同時に、手にした特殊な弩の引き金に細い指先をかけた。次なる中和針が、九郎の眉間を狙って照準を合わせる。
九郎の右目の視界は、すでに半分以上が灰色の霧に覆われており、二重にブレていた。おまけに、トメの中和ハーブを噛み砕いた副作用により、嗅覚も味覚も完全に失われている。霧羽が放つ殺気の「匂い」すら探知できない暗黒の世界。だが、九郎の脳髄を支配していたのは、絶望ではなく、白熱した狂気的な集中力だった。
左腕の壊死した肉を貫き、骨に直接達している三本の「金剛針」。その骨髄を直接焼くような凄まじい激痛が、九郎の「痛覚反転」のトランス状態を極限まで引き上げていた。時間の流れが、極端に遅く感じられる。雨粒が宙で静止しているかのような錯覚の中、九郎は右腕を動かそうとした。
(……動かんか)
泥の中から「錆びた鉄刀」の一尺の残骸を握り直したが、右腕の筋繊維は、すでに胸から侵入した中和毒によって激しく損傷していた。刀を振る速度が通常に及ばず、ただ虚空を力なく薙ぐ。キン、と虚しい音が響き、鉄片の残骸が九郎の指先から滑り落ちて泥の中に没した。武器を完全に失ったのだ。
霧羽がその隙を見逃すはずがなかった。弩の照準が完全に九郎の心臓に固定される。
「死ね、泥濘の亡霊が!」
距離は七歩。相手は距離を保って針で仕留める間合いの達人。刀を拾う体力も、大振りの剣撃を放つ時間も残されていない。ならば、自らの「血と骨」を兵器に変えるしかない。
九郎は「痛覚反転」を最高潮に達させ、右手の指先を胸の抉れた傷口の奥へとさらに深く突き刺した。骨に爪が引っかかる嫌な感触と共に、さらなる極限の激痛が脳髄を灼く。その刹那、九郎の肺腑に滞留していた内力が、自傷の衝撃によって爆発的に逆流した。
「――はあぁッ!!」
九郎は肺の呼気を一気に前方に吹き掛けた。それと同時に、胸の傷口から噴き出した強酸性の猛毒血を、内力の突風に乗せて霧状に放つ。――「毒血霧(どくけつむ)」。
ジュワァァァッ!!!
激しい雨のカーテンを突き破り、赤紫色の不気味な血の霧が、周囲十歩の空間を完全な暗黒へと染め上げた。霧羽が放った弩の針は、血霧の圧倒的な密度に軌道を狂わされ、九郎の耳元をかすめて背後の泥に突き刺さる。
「な、何だこれは!? 目が、目がぁぁぁッ!!」
酸性毒を帯びた血霧を顔面に直接浴びた霧羽が、絶叫を上げてのた打ち回った。男の美しい皮膚が、ジジジと不気味な音を立てて焼けただれ、両目から黒い血が流れ落ちる。完全に視界を失い、錯乱した霧羽は、狂ったように弩を乱射するが、その矢はすべて虚空を穿つだけだった。
九郎は、引きずる右脚を一歩踏み出した。すでに視界はほぼゼロに近いが、霧羽がのた打ち回る泥の音と、彼の放つ激しい呼吸の振動が、九郎の皮膚を通じて立体的に伝わってくる。
刀など不要。右腕の力など不要。
九郎は強行接近し、霧羽の懐へと滑り込んだ。驚愕し、盲目となった霧羽が、本能的に短刀を抜いて九郎の胸を突き刺そうとする。九郎はその刃を避けることすらせず、あえて自身の壊死した左腕を盾にして突き出された刃を受け止めた。感覚のない黒い包帯が切り裂かれ、金剛針が突き刺さった左腕の肉がさらに割れる。だが、その衝撃を利用して、九郎は左腕の内部に眠る「骨」を直接、霧羽の喉元へと突き出した。
――「骨毒穿ち(こつどくうがち)」!!
グサリ、と。肉が裂け、骨が砕ける生々しい音が鍾乳洞の出口に響き渡った。九郎の壊死した左腕の先から、皮膚を突き破って露出した鋭利な骨の破片が、霧羽の喉笛を深く貫いていた。その骨の破片に宿る、骨毒と赤蠍の混ざり合った超高濃度の屍毒が、霧羽の傷口から体内へと一気に逆流していく。
「が、あ……、あ……」
霧羽の喉から、空気の漏れるような不気味な音が漏れた。男の首筋の血管が瞬時に黒紫色に変色し、腐食が顔面へと急速に広がっていく。霧羽は弩を落とし、九郎の肩を掴もうとしたが、その指先は触れた瞬間に崩れるように麻痺し、力なく泥濘の中に崩れ落ちた。
ドサリ、と。同盟の最高峰の毒殺者が、自らの毒以上に残酷な九郎の骨毒によって、泥水と同化するように絶命した。
「はぁ……、がはっ……!」
九郎は膝をつき、激しく喀血した。全身の疑似魔脈が、中和剤の残存効果と自傷の反動によって激しく軋み、一歩歩くたびに内臓が裂けるような激痛が走る。視界は完全に灰色に染まり、立っていることすら奇跡に近い限界状態だった。
しかし、九郎の隻眼は、泥に伏した霧羽の死体を見据えていた。九郎は冷酷に霧羽の手首を掴み、そこに装着されていた機械式の「毒蜘蛛の霧羽の暗器筒」を強引に剥ぎ取った。壊死した左手首に、その暗器筒をきつく装着する。これで、刀を持たぬ左腕にも、新たな中距離の牙が加わった。
さらに、九郎の右指が、霧羽の懐に触れた。そこから出てきたのは、同盟の紋章が入った一通の書状だった。九郎はかすむ目を凝らし、書状に書かれた文字を読み取った。
『緋村志乃は生存している。処刑台の丘にて、逆賊九郎を誘い出すための生贄として幽閉中――』
志乃。九郎が唯一、生きていてほしいと願う実の妹。一族皆殺しの夜に生き別れたはずの妹の、生存の痕跡。
「……志乃」
九郎の喉から、かすれた声が漏れた。それが、自分をおびき出すための同盟の卑劣な罠である可能性は、十中八九どころか、間違いなく百パーセント近かった。処刑台の丘に行けば、待っているのはさらなる絶望の包囲網だろう。
だが、九郎の濁った左目の奥に宿る復讐の炎は、消えるどころか、さらに深く、暗く燃え上がった。罠であろうと構わない。もし志乃が生きているなら救い出す。もしそれが偽りであるならば――その罠を仕掛けた奴らの首を、一人残らずこの手で引きちぎるだけだ。
九郎は折れた鉄刀の残骸を泥の中に捨て、暗器筒が装着された左腕を抱えながら、ゆっくりと立ち上がった。一歩踏み出すたびに、胸の傷口から黒い血が滴り落ち、激しい吐血が泥を赤く染める。
土砂降りの雨の中、修羅は、さらなる死地である「処刑台の丘」に向けて、引きずる右脚を一歩ずつ前に進め始めた。
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