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毒蜘蛛の強襲

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ドスッ、と重い音がして、九郎の右胸に冷たい風穴が開いた――。


 泥濘の上に膝をつきかけた九郎の視界が、一瞬にして白く反転する。右胸を貫いたのは、一本の細い黒鉄の矢だった。通常の矢のような、肉を引き裂く激痛はない。むしろ、傷口の熱を奪い去るような、おぞましいほどの「冷気」が急速に胸元から全身へと広がっていく。


「がはっ……!」


 九郎の口から、どす黒い血の泡が激しく噴き出した。吐き出した血は、もはや黒紫色の不気味な輝きを失い、ただの濁った赤色に変色していた。それと同時に、九郎の全身の皮膚の下に浮かび上がっていた紫色の血管のネットワーク――壊れた経脈の代わりに蠍毒を循環させていた「疑似魔脈」が、まるで陽光を浴びた霧のように、急速に消退していく。


(毒が……中和されていく……)


 九郎は心の中で戦慄した。右胸の矢から染み出しているのは、殺傷力を持つ猛毒ではない。体内の毒素を強制的に分解し、無害な水へと変える極めて特殊な「中和剤」だった。九郎の武功「童子傷功」は、体内の致命傷と猛毒をあえて維持することで内力を練り上げる禁忌の法である。毒が消え、傷が強引に塞がれれば、経脈のバイパスは崩壊し、内力は霧散する。それは九郎にとって、武功の完全な停止、すなわち「死」を意味していた。


 指先から力が抜け、右手で握りしめていた「錆びた鉄刀の残骸」が、泥の中に力なくこぼれ落ちた。一尺ほどの鉄片が、冷たい泥水の中に深く沈んでいく。右肩の骨折、右脚の凍傷、そして右目の失明。それらすべての痛みを闘気に変換していた「痛活」のトランス状態が、内力の消失と共に強制的に解除された。身体を支える支柱を失い、九郎は泥濘の上に顔から崩れ落ちた。


 冷たい雨が、容赦なく九郎の背中を叩く。泥の中に沈んだ顔の横から、かすかな足音が近づいてくるのが聞こえた。ドブ川の濁流の音に混ざり、泥を踏みしめるその足音は、極めて軽やかで、一切の焦りを含んでいない。


「くくく……。やはりな。どれほど凄絶な修羅であろうとも、その本質は『ひび割れた竹筒』に過ぎない。中和の矢を一発撃ち込めば、その歪な器は自ずと崩壊する」


 ねっとりとした、サディスティックな声が頭上から降り注いだ。九郎は泥にまみれた左目の極小の視野を強引に動かし、前方の闇を見上げた。


 そこに立っていたのは、蜘蛛の巣の刺繍が施された漆黒の衣装を纏った男――正道武林同盟が裏で飼う影の毒殺者、「毒蜘蛛の霧羽(きりは)」だった。男は細い指先を不気味に蠢かせ、手にした特殊な弩を九郎に向けて固定している。その瞳には、獲物をいたぶる蛇のような、知的で冷酷な愉悦が宿っていた。


「緋村九郎。お前が烏鳴谷で黒鉄衛を殺戮し、剛造の首を吊るしたと聞いたときは、どんな怪物かと思ったが……。その武功の原理さえ分かれば、対処は容易い。お前の肉体は、毒と傷を維持しなければ呼吸すらできぬ欠陥品だ。ならば、その毒を消し去れば、お前は己の血の重さで勝手に圧死する」


 霧羽は九郎から正確に七歩の距離を保ったまま、決してそれ以上は近づこうとしなかった。瀕死の獣が放つ、最後の一撃を警戒しているのだ。超一流の暗殺者らしい、徹底した慎重さだった。


 九郎は右脚を動かそうとしたが、指先一つ動かない。「五色毒経・蠍章」の毒素循環が停止したことで、凍傷を負った右脚の筋肉は完全に硬直しており、泥に張り付いたままだ。嗅覚と味覚は、先ほど洞窟内で噛み砕いた「腐骨茸」の副作用で完全に失われており、周囲の空気の揺らぎや霧羽の放つ殺気の匂いすら探知できない。残されたのは、ただ冷たい雨の感触と、胸の奥で疑似魔脈が内側から千切れ去っていく、焼けるような虚無感だけだった。


「さて……。息の根を止める前に、最後の仕上げといこう。お前のその傷だらけの肉体、これ以上勝手な内力を練り直せぬよう、経穴を完全に塞がせてもらう」


 霧羽が懐から三本の細い針を取り出した。それは、傷口を強制的に塞ぎ、経脈の流れを物理的に固定する同盟の秘薬「金剛針(こんごうしん)」だった。それを九郎の主要な経穴に打ち込めば、九郎は二度と「童子傷功」を起動できなくなり、体内に残った微量な毒素の暴走によって、数刻以内に内臓を焼き尽くされて悶絶死する。


 シュッ、シュッ、シュッ!


 無音で放たれた三本の針が、雨のカーテンを切り裂いて九郎の急所へと迫る。九郎は泥濘の中で、動かぬ左腕を強引に引きずり、自身の顔面と胸元を覆うように盾にした。感覚のない、黒い包帯に巻かれた左腕。すでに四十五分(45%)まで壊死が進行しているその肉に、三本の金剛針が深く突き刺さった。


 プツリ、と肉が裂ける鈍い音が、九郎の脳髄に直接響いた。


 左腕の肉体は死んでいるはずだった。しかし、金剛針が壊死した肉を貫き、その奥にある「骨」に直接達した瞬間、九郎の脳に、白熱した凄まじい激痛が走った。それは、死にかけた神経が最後に放つ、肉体の限界を知らせる悲鳴だった。


(……痛い)


 その激痛が、九郎の失われかけた正気を、強引に現世へと引き戻した。味覚も嗅覚も失われ、右目の光も霞む暗黒の世界の中で、左腕の骨から伝わるその「激痛」だけが、九郎の存在を証明する唯一の篝火となった。


(毒が消えるなら……新たな傷を、刻むだけだ)


 九郎の濁った左目の奥に、狂気的な復讐の炎が再燃した。彼は泥の中に倒れ伏したまま、動かぬはずの右手の指先を、自身の右胸に開いた矢傷の穴へと直接突き立てた。爪が肉を裂き、中和剤が浸透しつつある傷口を、さらに深く、広く抉り開ける。


「ぐ、ああああああああッ!!」


 喉の奥から、血を吐き出すような絶叫が漏れ出た。自らの手で胸を抉るその狂気の自傷行為。しかし、その瞬間、中和されかけていた疑似魔脈が、新たな致命傷と「激痛」を検知し、強引に再起動を始めた。胸の奥に眠る蠍毒の源泉が激しく脈動し、中和剤の冷気を力ずくで押し戻していく。


「経穴刺激による激痛制御」――玄庵から授けられた、痛みのルートを強制的に書き換える禁忌の技術。九郎の毛穴から、再び黒紫色の不気味な霧が立ち上り、周囲の雨水を一瞬にして蒸発させた。


「な、何だと……!? 自ら傷を広げ、内力を再起動したというのか!?」


 霧羽の顔から、初めて余裕の笑みが消え去った。男は驚愕し、慌てて弩に次なる中和針を装填しようと指先を動かす。しかし、九郎はすでに、泥の中からその折れた鉄刀の残骸を右手で掴み取り、不気味な赤色に変色した隻眼で、霧羽の喉元を睨みつけていた。


 体内の毒のバランスは崩壊寸前。次の「一呼吸」の間に霧羽を仕留めなければ、九郎自身の肉体が内側から爆発して即死する、極限の死線がそこにあった。

HẾT CHƯƠNG

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